ジャージでバラを差し出すな

夕鳴なち

第1話

「へい!そこの彼女!」

 どのコンビニのロールケーキが一番か、という話題でもちきりだった柚葉の思考はくるくると回りだす。

 本当にそんなセリフ言う人いたんだ。ドラマ以外で初めて聞いたな。というか、もうドラマでも言う人いなくない?

 ナンパはされてみたい、されてはみたいが。

「へい!そこの彼女だよ!彼女!」

 そういうのじゃない。世の中に星の数ほどある言葉から何故それを選んだの?絶対他にもあったでしょ。なんかもっとこう、あるでしょ。

「ねえ、そこの彼女だよ!聞こえてるでしょ!」

 なかなか返事してもらえないらしい。そりゃそうでしょ、柚葉は駅への歩みを速めようとした。

 が、できなかった。誰かが肩に手を置いている。え、もしかしてあいつ?あのナンパ野郎??

 あっ、もしかしてわたし何か落した?やだ、いい人だった。ごめんなさい。

 謝罪の気持ちを込めて、できるだけ優しい顔で振り向いた。

「ねえ、俺とお茶でもしない?」

「わたし、お茶飲めないんです。ごめんなさい。」

 家にコーンフレークまだ残ってたっけ、明後日の方向へ思考を飛ばしながら、柚葉は再び駅へと向かいだした。

「じゃ、じゃあカラオケはどう!?カラオケ!」

 初対面でカラオケはないでしょ、という普段だったら浮かぶはずのツッコミも浮かぶことなく、あっさりと振り返ってしまった理由の一割は、なんとなく家に一人でいたくなかったからだが、残りの八割は、ただただカラオケに行きたかったからだ。


 ナンパ野郎の歌は普通だった。というか、どちらかといえば下手だった。単純な歌の技術だけなら普通なのだろうが、あまり聴き込んでいない歌も歌っているらしく、音程が外れたりタイミングがずれたりする。カラオケをチョイスするぐらいだから歌で落とすつもりかと思ったが、そういうわけではないらしい。だが、ノリノリで、全力で歌う姿を見ると、文句を言う気にはならなかった。

 ナンパ野郎は柚葉が歌っているときも全力だった。柚葉も決して歌が上手いわけではなかったが、そんな歌に合わせて「へい!へい!」と合いの手を入れるナンパ野郎は終始楽しそうだった。

 結局、常にどちらかが歌い続け、二時間が経ちカラオケ店を出た。

「俺、そこのカフェによくいるから。」

 それだけを言い残し、電話番号もメールアドレスも教えずに去っていったナンパ野郎の名前すらも知らないことに柚葉が気が付いたのは、家に着く直前だった。

 あの人、何がしたかったの?もうちょっとわたしに質問しなさいよ。あれ、そういえばあの人の名前も知らないんですけど、わたし。というか、わたしの名前すら聞かなかったんですけど!あいつ!何なの!?もしかして、カラオケに行きたかっただけ?え、一人で行けよ。

 ごちゃごちゃ考えてはいたが、柚葉はにやける口元を抑えられずにいた。

 

 

 




 

 

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