Mysterious ROAD

dear12

第1話 序章

 鼠色の寝巻姿の少年が脇目もふらず、青ざめて静まり返る住宅街の森の中を、風を切って走り抜けていく。ぼんやりとした街灯の光が、逸る心を一瞬だけ静めてくれる。しかし、それもつかの間。背後から迫りくる‘そいつ’が瞬時に、ホッとした心に恐怖を植え付ける。


 息も絶え絶えに住宅街の森の中を駆け抜ける。ふと力を抜いたその瞬間、少年はでこぼこしたコンクリートの上に、その体を強く打ち付けていた。頬を伝う汗。途絶えない呼吸がコンクリートを叩く。じんわりとした痛みが背中と足首を走る。


痛い、と感じる間もなく、心が逃げようと逸り出す。しかし、立ち上がることができない。痛みをようやく脳で理解したようだ。少年はうめき声を上げた。思わず、目を瞑る。先程まで背後から近づいてきていたはずの‘そいつ’の気配は全くしなかった。グッと力を込めて目を瞑る。助けて。助けて。

 

少年は体中の痛みを堪えながら、目蓋を恐る恐る開く。鈍い痛みを発する背中を庇いながら、ゆっくりと上半身だけを起こす。先程まで自らが駆け抜けてきた、すっかり寝静まった住宅街をしばし見つめる。


そこに広がっていた光景は、まさに朝を迎えようとする静かな住宅街。‘そいつ’の影はどこへやら。いつの間にか水蒸気のように姿がなくなってしまっていた。


少年は再び力なく道路に横たわる。そして、思わず声を出して笑う。走り抜けてきたことでトランポリンのように跳ねまわる胸をホッと撫で下ろす。

やった。逃げ切った。勝ったんだ。心の中に訪れる安らぎ。軽やかになった心がさらに落ち着きを取り戻していく。


刹那、前方からけたたましい足音。素早く軽快なそれに気が付いた時には、既に遅かった。そいつの姿を再び目の当たりにした少年が、声の限りを尽くして悲鳴を発そうとしたその瞬間だった。


2つの影はその道路から瞬く間に消え去り、今度こそ平穏な爽やかな朝の住宅街が広がった。聞こえてくるのはわずかな小鳥の歌声のみ。空はしだいに白み出し、まるで何事もなかったかのように清々しい朝日を迎え入れていた。


 



 小さな女の子が川の真ん中で手足を懸命にばたつかせている。女の子の表情は恐怖のためか、引きつっている。血の気も引いた青白い顔。弾け飛ぶのは水滴と悲鳴である。


「助けて。助けて」

女の子の小さな体が水流に飲み込まれた。そして、またしばらくして女の子の顔が苦しみの表情を浮かべ、水面から顔を出す。


川岸の母親たちもパニックだった。今日は陽気なバーベキューの日となる予定であった。父親たちはレスキューを呼びに行ったきりいっこうに戻ってこない。

 

 その女の子と同い年の俺は意外と冷静だった。女の子はまだ大丈夫だろう、と冷静に客観的に物事を見れていた。

「危ないよ」


母親の制止を振り切って、俺は川の中へ、手にした浮き輪とともに飛び込んだ。激流というほどではなかったが、油断しているとそのまま深い川底に引っ張り込まれてしまいそうなくらい、流れは強かった。膨大な水量が頬を圧迫する。

 

 水中に沈みかけている女の子。見つけた。まだ水中で必死にもがいている。俺は一度水面に顔を出し、一層息を大きく吸い込んだ。どこか遠くで泣き叫ぶような声がする。母親たちだろうか。

 

 俺は構わずに足をばたつかせた。先程よりも遠くに女の子は引き離されており、小さく見える。もがき苦しんですらいない。まずい。このままでは川底に沈む。俺は水流の力を借りて一気に加速した。浮き輪だけを離さないように。

 

 そして、ようやく女の子に追いついた頃には、女の子はすっかりと力なく流れに身を任せるだけになっていた。目をつぶり、苦しそうな表情。徐々に沈みながら、流されていく。

 俺はその女の子の腰に手を回し、一気に水面まで引き上げた。

「ぷはあ」

 そして、浮き輪に女の子を預けさせ、俺自身はその浮き輪にしがみついて浮かんでいる。女の子は目をか弱そうに開いていた。


 しかし、今度は戻ることができない。水流に逆らうことはおろか、されるがまま。どんぶらことは程遠い轟音が鼓膜を叩く。太腿や腹を急流で圧迫され、苦しい。と、女の子が中州に果敢に飛びついて、今度は逆に俺の体を引き上げてくれた。川岸の方では大人たちが感嘆の声を上げていた。俺と女の子は嬉しそうに笑った。

 

 その後、治療を受けた病院で、その女の子に言われたことがとても印象的であった。


「今度は私があなたの命を助けるからね」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る