3-56 拝謝

 実は敢えて気付かないふりをしていたが、横山の手にはマメがずっとできていた。

 夏に引退してから横山は大学受験のため、勉強を本格的にしていて、畝原に譲ったこともあった学年1位の座に復帰して、確固たるものにしていた。一方で犠牲にしたのが、愛琉の引退試合。応援に行くことは約束したものの、出場するためには練習が必要。その時間はさすがに親御さんが許さなかったのだろう。しかし、こっそり素振りをしてきたのは、本人が隠していても、繁村には分かっていた。横山は引退試合に出たかったのだろう。


 だから、この試合の登録選手の一覧に本人に無断で『横山仁志』と入れていたのだ。どこかで代打で起用したいと。

「おーっ! 横山打つん!?」

 二塁ベース上で愛琉はデカい声を出して驚いている。

「お願いします!」

 ピッチャーとキャッチャーと審判に一礼すると、黒縁眼鏡の男はバットを構えた。一見野球をやりそうにない風体だが、そのギャップがまた意外性を生んでいて非常に良い。


 ファウルは打つもののなかなか前には飛ばない。素振りをしていても速球に目が慣れていないのだろう。しかし徐々にタイミングは取れてきているようにも見える。

 城座は何で打ち取れないのかやきもきしているだろうか。ボールも入りフルカウントになる。そして迎えた9球目でようやく捕えた。

「よし!」繁村は唸る。打球は右中間だ。ライナーに近いフライだが、これならタイムリーヒットになろう。と、思った矢先だ。赤木が彗星のように走って、ダイビングで白球をグラブの中へ捕えた。3アウト交替。横山は一塁を駆け抜けたところで悔しそうに天を仰ぐ。

「ナイスバッティング! 横山」

「惜しい、でも良かった!」

「赤木さんじゃなかったら抜けてたな」

 アウトになったが部員が口々に横山のバッティングを褒めた。そして横山が戻るとき拍手さえ起こった。

 横山のことは部の皆が知っている。野球とは程遠いガリ勉タイプの彼が、高校野球で活躍できるほど努力してきたことを。レギュラーは獲れなかったがそれでも随所で記憶に残るプレーをしてきたことを。

 それだけに、横山のことを悪く言う者は誰もいなかった。


「横山、ありがとう」

 最後、愛琉が瞳に涙をたたえた表情で言った。こんなに素直な「ありがとう」ははじめて聞いたかもしれない。


「さて、九回表! 泣いても笑っても最終回だ! 無失点で切り抜けるぞ!」

 繁村がナインを、そしてベンチを鼓舞する。


 あと3アウト。たかが練習試合かもしれないが、ただの練習試合ではない。愛琉の人生で非常に大きな意味を持つ、プロへの旅立ちの試合なのだ。

 3年間男子に交じって、がむしゃらになって泥にまみれながら頑張ってきた、集大成なのだ。

 とことん勝ちにこだわって、プロ野球への最高のはなむけにしたい。投げるのは愛琉だが、きっちり終わらせたい。

 九回表は七番ライト瀬戸からだが……。


「代打、きし!」

 代打攻勢だが、この選手は秋からのレギュラーだったはず。しかもクリーンアップを担っていたはずだ。

 その岸は、愛琉とはじめての対戦なのに、タイミングがきっちり合っている。サードに鋭い打球。この回からレフトの銀鏡に代わって、秋からのレギュラーの中武が入っている。(なお、サードの泥谷に代わって、レフトに先ほど代打の横山が入っている。)しかし中武は緊張か身体が硬い。一度、ボールをこぼして、一塁に送球するも、結果的に内野安打となってしまう。

「代打、櫻林さくらばやし!」

 次は城座の場面だが、ここも代打。櫻林は秋から二番を任されていた選手だったと記憶している。ここは手堅くバントを仕掛ける。しかし──。

「二塁行ける!」

 バントを読んでいた愛琉は、投げた瞬間バッターのもとに寄り、バントをすぐに処理をすると、二塁に送ってフォースアウトにしてしまった。バッターランナーのみ残り、一死一塁。

「代打、篠原しのはら!」

 何と三者連続代打だ。しかしこの選手も確か秋からレギュラーだった選手のはず。一番打者だったか。

 篠原は左打者で低い構えからライト前に運ぶ。幸いエンドランにはなっていなかったので、一塁ランナーは二塁にストップするものの、一死一、二塁という苦しい状況──。

 しかし諦めていない男がいた。ライト前にポトリと落ちてワンバウンドで捕球したライトの栗原は、捕球した瞬間一塁に投げる。

「坂元ぉー!」

 ファーストの坂元に白球が送られると、間一髪のタイミングではあったが、アウトが宣告された。

「ライトゴロだ!!」ベンチは盛り上がっている。進塁打は許したが、二死二塁と、一死一、二塁では非常に大きい差である。

「く、栗ちゃん、サンキュ」

 愛琉はライトの栗原に感謝すると、栗原は黙って親指を上に立てて応えた。造作もないことだとアピールするように。


 しかし次は一番に戻り、バッター赤木だ。

「代走、りく

 ここで代走がコールされ、さらにプレッシャーがかかる。二塁におそらく俊足のランナーが置かれ、ワンヒットで同点タイムリーになりうるシーン。ここで赤木が満を持して左バッターボックスに入る。今日5回目の対戦だ。

 愛琉がここに来てはじめて顔をしかめている。勝利を目前にしてやって来た最後の砦。さきほどはホームランも打たれ、塁に出れば高確率で帰ってくるバッターだ。

 その初球だった。渾身のストレートは144 km/hだったにも関わらず、赤木はレフト前に鋭い当たりのヒットを放つ。レフトには先ほど変わったばかりの横山がいる。

「横山!」

 二塁ランナーの陸田は三塁を回りホームを狙う。そのとき、レフトの横山が矢のような送球を投げる。繁村自身も畏怖を感じるほど鋭い送球は、ベストな位置でワンバウンドしてキャッチャーミットに届くストライク返球だった。

 ランナーが突っ込んでいれば間違いなくアウトのタイミングだったが、二塁走者の陸田はハーフウェーで慌てて戻った。それだけ素晴らしい返球だったのだろう。これで二死一、三塁だ。横山のバックホームで同点は免れたが、まだピンチは続く。


 続く二番の神谷のところだが、ここは一、三塁の場面だ。赤木なら何が何でも走ってくると悟った。

 このバッターには走られるまで直球を要求することにする。

 しかし、愛琉もさすがに疲れてきているのだろうか、いきなり3球ボールが続いた。どれも140 km/h超えの凄まじく速いボールだったが、神谷は見送る。4球目はようやくストライクゾーンに入り、神谷は見送る。まだ赤木はアクションは起こさない。

 なぜだ。なぜ走らない、思いながら、5球目もストレート。すべて直球勝負。直球じゃないと赤木は刺せないと思った瞬間。赤木は走った。

 145 km/hの今日最速タイのストレートに神谷は空振りし、繁村のミットに収まる。そして立ち上がったら間に合わないと思った。座ったまま、渾身の力で二塁に送球した。高校時代は座ったままの盗塁阻止で何回も相手校を泣かせてきたが、36歳ともなるとさすがに身体に負担がかかる。

「行けー!!」繁村は叫んだ。

 ショートの泉川が低い弾道の送球を左手のグラブでキャッチし、そのグラブの外側に赤木のスパイクがある。しかし二塁ベースはしっかりグラブでガードされている。


 二塁塁審が1秒ほどの間をおいて、しっかり見極めながら、右腕を拳を握りながら挙上する。アウトの宣告。


 3アウト、試合終了。

 内野陣も外野陣もベンチからも一斉にマウンドに駆け寄り、勝利の瞬間を分かち合おうとした瞬間だった。

 ドサッ、と音がした。

 集まった清鵬館宮崎の選手たちの喜びの表情が一瞬にして曇った。


 愛琉がマウンド上で倒れたのだ。

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