お化け

松風 陽氷

お化け

「ねぇ君。脚が無くって、白くって、シーツ被ったみたいにふわふわしてる。そんなのがお化けだって、本当にそう思ってんのかい? 本当のお化けはね、たまに会える存在じゃないし、別にシーツの化身みたいなものでもない。お化けっていうのは、本当はこう、灰掛かった黄色い薄汚れた色をしていて、何だか生乾きのセェターみたいに臭くって、教室の隅の雑巾みたいな空気を纏った奴なんだ。僕らはお化けを見たことがあるはずだよ。僕も君も、お化けを知っている。そして、皆思う様に、僕もお化けは嫌いだ。皆、鳩尾の奥に飼っているんだよ。一人一匹。お化けなんていらないさ、棄てちまいたいよ。でも、駄目なんだ。そいつは僕らの魂に根を張って絡み付くようにして共生しちまってるんだ。共生。お化けがいなくちゃ僕らは生きていけないってことさ。でもね、こんなことだァれも教えちゃくれなかったのさ。小さかった僕に、お化けのことを教えてくれた人間は一人もいなかった。なんなら、お化けが見えていない人間の方が多かった。大人になるとお化けが見える人がちらほら出てくるけれど、やっぱり見えない奴は生涯見えないんだろうな。それは幸せなのかもしれないけれど、僕からすりゃあ盲目的に見えた。多くの人間はいても気が付かなかったり、見えなかったりするのさ。でも、奴らは絶対にいるんだ。僕にははっきりと見えるんだ。だから僕は小さかった頃、お化けを殺してしまおうと思ったことがある。念入りに計画を練って、僕は僕の鳩尾で我が物顔をしてふんぞり返った憎いお化けの体を引き千切ったのさ。ぶちぶちのぶちにしてやった。そうしたら、どうなったと思う? まぁ、お化けはね、ドロドロに溶けたみたいになって僕を飲み込んだ。僕は灰掛かった黄色の中で必死に藻掻いたよ。このまま死んじゃうかもしれないって思ったら、とても怖かったのさ。雑巾の空気が肺胞一つ一つに絡み付いて、全部端から我楽多みたいに崩れ落ちて行った。内部侵食。苦しかったよ。ひぃひぃ言いながらドタドタ這いずり回って、無様だったけど、その時はそんなこと考えられなかったからね。上品も下品もあったもんじゃないさ。糞味噌だよ。そしてね、フッて気が付いたら、自分のこの両手が自分の首に縄括ってたんだよ。ぐるぐるぐるぐる、目が回りそうな位首に巻かれてた。お化けは僕の鳩尾の中で、やっぱり威張っていた。心做しか、前よりちょっと大きくなった気もする。その時思ったよ。あぁ、これが人間の性で、人間を人間たらしめるものなんじゃないかってね。今の話は僕だけに言えるもんじゃないんだよ。君だってそうだ。僕がなんで今日君に声を掛けたか、分かるかい?」


「……何故でしょう?」


「君が今日こそはってお化けを殺そうとしている顔をしていたからだよ。未だ少年だった頃のあの日の僕と同じ目をしていた。君はお化けが見えるんだろう。悪いことは言わない、やめときなさい。お化けは誰にも殺せやしないんだ。ずっとずっと、多かれ少なかれ、人は皆お化けと共に生を全うしなくてはならないんだ」


「どうして、俺は、此奴、あんたの言うお化けって奴は、どうして居るんだよ。どうして俺のお化けはこんなに大きくて、こんなにも邪魔臭くて……此奴の所為で俺は普通の生活さえ送れないんだ! どうして俺のお化けはこんなに大きくなったんだよ! なぁ! あんたは此奴とどうやって共生したんだよ! 殺すなって言うなら、教えてくれよ!」


「僕も本当の方法なんて分からない。人それぞれ対処法が違うと思った方がいいかもしれない。実は僕はお化けの研究をしていてね。ある人は、運動をしたらお化けが小さくなって、又ある人は運動が逆効果だった。ずっと横たわっていることが良かったという人もいる。でも、一つ確実に言えるのは、お化けを敵だと思わないことだ。お化けはね、嫌な奴かもしれないけど、僕らの敵じゃないんだ。お化けは僕らの一部なんだよ。お化けを理解してやらなくちゃならないんだ。そうやって、共生していくんだよ。だから、殺しちゃ駄目なのさ。殺さないでね」


「俺はお化けが怖くて仕方がないんだ。居ることが怖いんだ。どうすればいい」


「お化けが小さくなった時、きっと見える世界が変わっているさ。そうしたらきっと、君もお化けと友達になれるかもしれないよ。今の君には信じられないかもしれないけれど、そういうことだって有り得るんだ……」


「じゃあ、これから又研究しなくちゃならなくてね」そう言って彼はウイスキーの残り三ミリをぐいと呷って、俺と自分の勘定をして去っていった。何故か知らない人にご馳走になった、誰だよアレ。人生で初めてバンジージャンプをした時のような感覚だった。いや、したことはないのだけれども、きっと初めてのバンジージャンプはこんな心地に違いない。夜の藍色とカウンターの木目の静けさが、妙に僕を覚醒させた。お化け、此奴をそう表現するのか。初めて聞いた。いや、初めて話したからか。今までお化けの話なんて、誰ともしたことが無かった。だから、お化けは俺だけに巣食って、俺だけを蝕んだんだと思っていた。そう信じてやまなかった。皆飼っているんだ。どうしてか、彼の言うことは重く流れる血潮のように説得力があった。お化けを小さくすること。成程、そういう考え方は無かった。小さくしようと、そう思って頑張れば小さく出来るものだと思っていなかった。抗えないものだと、思い込んでいた。

こうして彼に会ったことで、俺の寿命がだらりと延びて、鳩尾のお化けは一回り小さくなった。お化けはよくよく冷静になって見てみれば、なぁんだ、随分ちっぽけなものだった。奴はヘラヘラと笑っていた。その笑顔の中に、「消えたくない」という文字が浮かんで消えた。嗚呼、そうか、俺のお化けは消えるのが怖かったんだ。いつか殺される、その日を想像して、怯えてたのか。だから、こんなにどんどん大きくなって、散々に俺の人生を邪魔してきたのか。へっ、なぁんだ、くだらねぇ。俺たち怯え強いで、似た者同士じゃねぇか。バーを出て家路を辿る。暗くて人が誰も居なくなった道路の隅、苦笑しながら鳩尾を撫で付けた。オリオン座のベルトが眩かった。お化けと対峙して、生まれて初めて、生きているんだと思えた。


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