麦わら帽の君
桜野 叶う
第一章〜恋と愛〜
麦わら
いつもひょうひょうとしていて、パッとした笑顔が素敵で。それは、まるで、真夏の畑で咲いた、一本のひまわり。
今は、夏。さんさんとした太陽が、山を田を、生き生きと照らした。葉の緑は
私は、畳に背中をつけ、じっと天井を見上げている。特にすることもなく、暇だったから。眠りもしないで、目はしっかりと開けていて、ゆっくりと呼吸する。腹が
そうして、ぼーっとしていると、ふわっと人の顔が浮かんだ。今日の太陽のような、眩しい笑顔の彼。麦わら帽をかぶった、夏らしい少年。私は、
「やっちゃん」
お
「んー、どした」
私は何となく、だらけた様子で言った。
「横田さんとこから
「え、桃? やったー」
私は、桃が好物。特に、横田さんが作る桃は、とても美味しい。毎年、夏になると、
今年、初めての桃。私が食べるやつを手に取り、両手を重ねた上に置いた。さらさらとした感触で、ほんのり優しい温度から、この桃のみずみずしさや秘められた甘さがわかる。美味しそう。早く食べたい。しかし、その気持ちをぐっとこらえて、もともと入っていた網の中に戻した。
さて、これから何をしようか。
再び寝転がって、じっと天井を見ているか。いや、それは
考えた末、結論は、『取り
「ちょっと、そこら辺、ぷらついてくる」
「はい。気をつけて」
玄関のドアを開け、第一歩を踏み出した途端、もわっと蒸し蒸しとした熱風が、私を
晴天。シュークリームのような形の雲が、ちらほら見える。それでも、
チリン、チリン。
自転車のベルの音。その音がした方を見ると、例の麦わら帽の彼だ。サンくんだ。いかにも、夏といえばの格好だ。赤い麦わら帽に、白のタンクトップ、黒の短パン。これから虫取りにでも行くのだろうか。そして、今日の日差しのような表情。彼は、私に気がつくと、目を大きく開けて、大きく手を振る。
「おーい、
しかし、彼は、そんな私の様子など、一切、気にしていない。何かを意識する様子も皆無。何気ない様子で、自転車を引きながら私の側による。
「田んぼの中、見てんの?」
「う、うん。何がいるかなって」
「へぇー」
彼は、自転車を止めて、こちらに近づいてきた。私のすぐ隣で、同じようにしゃがんだ。ち、近い。少しでも動けば、彼に触れてしまう距離。私の緊張の度が急増した。心臓が、自分の存在を激しく主張した。普段よりもうんと重くなった。自己主張する心臓を抑え、もっと、身を乗り出して水面を覗いた。
「いるのは、アメンボくらいかな?」
「いや、ヤゴもいるよ」
それは、さっき、私も見つけた。けれども、それは口に出さない。
「……それ以外にはいないのかな?」
「んーと、……。あ、カエルだ!」
え、カエル⁉︎
「ほら」
彼の手のひらの中には、緑色ではなく、茶色のカエルがいた。
「わぁ、ほんとだ」
彼は、カエルを私に見せると、すぐに戻してあげた。
「家に持って帰ったりしないんだ」
私は小さな声でつぶやいたが、彼には、はっきりと聞こえていた。
「もちろん、持って帰ったりはしないよ。だって、持って帰ったところで、何もないし、いきなり知らないところに運ばれるカエルが可哀想だよ」
優しい。純粋にそう思った。確かにその通りだ。その言葉には、彼の性格がたっぷりとつめられていた。
彼にとっては、大したことない一言に感動する中、彼は立ち上がり、自分の自転車のところに戻った。
「そろそろ、帰るね」
「うん。またね」
そのまま、自転車にまたがり、ペダルを
「じゃ、またー」
私は、まだ帰らない。何のアテもなく、田中の小道を進んでいく。家に帰る頃には、夕飯時になっているだろう。
「ただいまー」
私の体内時計は、夕飯時を示していた。家の中は涼しい。さっきまでの地獄が、嘘のように気持ちが良い。
「お帰り。八海」
仕事に行っていた母も、帰ってきていた。
「あー、ただいま」
「どこに行ってたの?」
「ちょっと、そこら辺の田んぼをぷらついてた」
そして、少しだけ、とっても素晴らしいことが起こりました。彼と二人、近距離での生き物探し。私の今の気分を一言で表すと最高。テンション上がりまくり。表面にも現れるほど。
そんな私を見たお婆ちゃんは、
「何か良いことでもあった? すごく嬉しそうだけど」
と、尋ねてきた。
「まあ、ちょっとね!」
表面は、
そこへ、母がスマホを耳に近づけ、話しながらやってきた。そして、一旦、耳から離す。
「
「え! お兄ちゃん⁉︎」
私の兄、陽助は、今年の春から社会人になった。都会のオフィスで働いているそうだ。
「代わる?」
「うん!」
「わかった。ちょっと、八海に代わるね」
母はそう言って、私に電話を代わってくれた。
「もしもし、お兄ちゃん?」
『もしもし、八海、元気にしてるか?』
「うん、私はとっても元気だよ」
『それは良かった。今度、兄ちゃん、そっちに行く予定だから』
え! お兄ちゃんが帰ってくる!
兄がこの家に帰ってくることは、春に社会に出て以来、初めてのことだ。正義感があって、私の面倒もよく見てくれて、とっても優しい兄が、私は大好きだ。大好きな兄が帰ってくる。これほど嬉しいものはない。
「で、今度っていつ?」
『来週のお盆の三日間で……』
それまで、すらすらと言っていた兄だったが、急にあやうやな感じに。どうしたんだろう。
「どうしたの?」
『実は、俺に彼女ができた』
「?」
『だから、それを紹介するのが、一番の目的』
へ?
『母さんにも伝えたいから、代わってくれない?』
私は、ぽかんとしたまま、電話を母に渡した。
え、お兄ちゃんに、……できた。彼女が。
ま、マジで⁉︎
「マジでか⁉︎」
やっと理解ができた。そして、酷く
「ちょっと、八海、静かにして」
母にたしなめられるも、気が落ち着かない。お兄ちゃんに彼女。ほ、本気で言ってるのか。マジか。マジなのか。お兄ちゃんに彼女。あの、私の大好きなお兄ちゃんは、とある女の子の彼氏になった。とも言える。あの優しくて、しっかり者のお兄ちゃんが。で、その相手の女の子は、どんな人なんだろう。で、お兄ちゃんは、今、その彼女と一緒にいるのだろうか。そして、こちらに電話を
……なぜ、私はそれを気にするのだろうか。仮に、今、二人でいたとしても、こちらに電話を寄越してくる前には、仲良く笑っていたとしても、それで良いのではないか。二人は、彼氏と彼女の関係だ。そういったことがあって当然のこと。そもそも、仲の良い二人やグループで、わいわいと盛り上がったり、笑ったりするのは
……しかし、私の本心は、そうは思っていない様子だ。どういうことなんだろう。当たり前に思うことを、思わないって。
私の心臓の中は、もやもやしていた。
ちょうど、母と兄との電話が終わったようだ。
「さっ、夕飯作るね」
私のもやもやは、終わらなかった。それは、夕飯を食べている時も、好物の桃に
それは、さぞかし夜もぐっすり眠れなくなるだろうと思った。案外、そんなことはなかった。
目覚めの良い朝。いかにも朝って感じの小鳥の鳴き声が、窓の外から聞こえて来る。
私は、茶の間に降りてきて、テレビをつけた。毎朝観ている朝の情報番組。この番組の出演者で曜日を認識していると言っても過言ではない。それくらい毎日観る。
その番組も終わり、私は再び上の部屋に行った。そして、布団を片付ける。それを終えると、壁にかかっているカレンダーを見た。それは、いつものルーティーンではない。ただ、気になった。えっと、今日がここで、来週にお兄ちゃんが来る。来週の、お盆を含めて五日間。ここから、ここまで。私は、緑色こペンを取り出し、その五日間のところに、線をびーっと引いた。そして、その下に、『お兄ちゃんが帰ってくる』と書き込んだ。
ちょうど来週のこの日だ。お兄ちゃんが帰ってくるのだ。向こうで巡り合った、彼女を連れて。
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