麦わら帽の君

桜野 叶う

第一章〜恋と愛〜

 麦わら帽子ぼうしの君。

 いつもひょうひょうとしていて、パッとした笑顔が素敵で。それは、まるで、真夏の畑で咲いた、一本のひまわり。

 今は、夏。さんさんとした太陽が、山を田を、生き生きと照らした。葉の緑はい。五月の頃よりも、しぶさが増し、落ち着いた風貌ふうぼうを出している。

 私は、畳に背中をつけ、じっと天井を見上げている。特にすることもなく、暇だったから。眠りもしないで、目はしっかりと開けていて、ゆっくりと呼吸する。腹がふくらんだり、引っ込んだりするのがよくわかる。

 そうして、ぼーっとしていると、ふわっと人の顔が浮かんだ。今日の太陽のような、眩しい笑顔の彼。麦わら帽をかぶった、夏らしい少年。私は、天井てんじょうを見上げながら、そこに映る彼の顔を見ていた。

「やっちゃん」

ばあちゃんが、私を呼ぶ。私は、起き上がって、畳の部屋から出た。

「んー、どした」

私は何となく、だらけた様子で言った。

「横田さんとこからももをもらったから、夜ご飯の後、みんなでたべよ」

「え、桃? やったー」

私は、桃が好物。特に、横田さんが作る桃は、とても美味しい。毎年、夏になると、新鮮しんせんな桃をたくさんくれる。それが、夏の時期で、いちばん楽しみなことだ。

 今年、初めての桃。私が食べるやつを手に取り、両手を重ねた上に置いた。さらさらとした感触で、ほんのり優しい温度から、この桃のみずみずしさや秘められた甘さがわかる。美味しそう。早く食べたい。しかし、その気持ちをぐっとこらえて、もともと入っていた網の中に戻した。

 さて、これから何をしようか。

 再び寝転がって、じっと天井を見ているか。いや、それは結構けっこう。もういい。だが、私はこれといった趣味がない。ゲームはないし、やらないし、本を読むこともないし、絵も描かない。だからといって、外でスポーツをするのも柄ではない。じゃあ、勉強? いや、それは嫌だ。

 考えた末、結論は、『取りえずそこら辺をぷらぷら歩いていよう』だ。蒸し蒸しと暑い中だが、ずっと家にいるのもダメだろう。だから、テキトーにこそらへんをあるいてみよう。早速、行動に移した。

「ちょっと、そこら辺、ぷらついてくる」

「はい。気をつけて」


 玄関のドアを開け、第一歩を踏み出した途端、もわっと蒸し蒸しとした熱風が、私を地獄じごくの世界に突き落とした。暑い。やっぱ、家にいようか。しかし、時すでに遅し。一歩を踏み出してしまったのだから、今更、引き返すという選択肢は無くなった。私は熱風ねっぷうに逆らって歩いた。

 晴天。シュークリームのような形の雲が、ちらほら見える。それでも、にごりのない、純粋じゅんすいな空の青が、美術のキャンバスの一面にられていた。小学生が水彩で描いた、濁りのある空ではなく、美術のプロが描いた、アクリル絵の具の空。不透明で、濁りなど一切ない。そんな空を背景に、存在感を示す山々。そして、私が今、踏んでいる、この大地。その周囲を見渡してみると、緑の田んぼが広がっていた。私が見えている世界は、ほとんどが青と緑の色しかない。私は、この世界に広がる、田の中の小道を歩いていた。もう、家からはだいぶ離れている。つんと生えている緑の稲からは、強い生命力を感じる。その下の水面みなもには、この時期だけに見られる、小さな生き物がたくさん住んでいる。この田んぼにはどんな生き物がいるのか。少し、興味がいてきた。なので、一旦、足を止め、その水の中をのぞいてみた。真っ先に見つけた生き物は、アメンボだ。水の上をスイスイと滑っている。まるで、氷の上を滑っているかのように。とても気持ちよさそう。それから、ヤゴがいる。トンボの幼虫のヤゴ。それくらいかな。

 チリン、チリン。

 自転車のベルの音。その音がした方を見ると、例の麦わら帽の彼だ。サンくんだ。いかにも、夏といえばの格好だ。赤い麦わら帽に、白のタンクトップ、黒の短パン。これから虫取りにでも行くのだろうか。そして、今日の日差しのような表情。彼は、私に気がつくと、目を大きく開けて、大きく手を振る。

「おーい、八海やつみ!」

 田園でんえんに広がる、彼の声。元気いっぱいの声で、私の名を呼んだ。

 能天気のうてんきな彼とは裏腹に、私は、胸の奥が、緊張しているのがわかった。意中の彼と、こんなところで会うなんて。

 しかし、彼は、そんな私の様子など、一切、気にしていない。何かを意識する様子も皆無。何気ない様子で、自転車を引きながら私の側による。

「田んぼの中、見てんの?」

「う、うん。何がいるかなって」

「へぇー」

 彼は、自転車を止めて、こちらに近づいてきた。私のすぐ隣で、同じようにしゃがんだ。ち、近い。少しでも動けば、彼に触れてしまう距離。私の緊張の度が急増した。心臓が、自分の存在を激しく主張した。普段よりもうんと重くなった。自己主張する心臓を抑え、もっと、身を乗り出して水面を覗いた。

「いるのは、アメンボくらいかな?」

「いや、ヤゴもいるよ」

 それは、さっき、私も見つけた。けれども、それは口に出さない。

「……それ以外にはいないのかな?」

「んーと、……。あ、カエルだ!」

 え、カエル⁉︎

「ほら」

 彼の手のひらの中には、緑色ではなく、茶色のカエルがいた。

「わぁ、ほんとだ」

 彼は、カエルを私に見せると、すぐに戻してあげた。

「家に持って帰ったりしないんだ」

 私は小さな声でつぶやいたが、彼には、はっきりと聞こえていた。

「もちろん、持って帰ったりはしないよ。だって、持って帰ったところで、何もないし、いきなり知らないところに運ばれるカエルが可哀想だよ」

 優しい。純粋にそう思った。確かにその通りだ。その言葉には、彼の性格がたっぷりとつめられていた。

 彼にとっては、大したことない一言に感動する中、彼は立ち上がり、自分の自転車のところに戻った。

「そろそろ、帰るね」

「うん。またね」

そのまま、自転車にまたがり、ペダルをぐ。

「じゃ、またー」

 私は、まだ帰らない。何のアテもなく、田中の小道を進んでいく。家に帰る頃には、夕飯時になっているだろう。


「ただいまー」

 私の体内時計は、夕飯時を示していた。家の中は涼しい。さっきまでの地獄が、嘘のように気持ちが良い。

「お帰り。八海」

仕事に行っていた母も、帰ってきていた。

「あー、ただいま」

「どこに行ってたの?」

「ちょっと、そこら辺の田んぼをぷらついてた」

 そして、少しだけ、とっても素晴らしいことが起こりました。彼と二人、近距離での生き物探し。私の今の気分を一言で表すと最高。テンション上がりまくり。表面にも現れるほど。

 そんな私を見たお婆ちゃんは、

「何か良いことでもあった? すごく嬉しそうだけど」

 と、尋ねてきた。

「まあ、ちょっとね!」

表面は、謙遜けんそんしておいたが、「とっても良いことかありました」と、明るい笑顔と言い方で伝えた。

 そこへ、母がスマホを耳に近づけ、話しながらやってきた。そして、一旦、耳から離す。

陽助ようすけからよ」

「え! お兄ちゃん⁉︎」

 私の兄、陽助は、今年の春から社会人になった。都会のオフィスで働いているそうだ。

「代わる?」

「うん!」

「わかった。ちょっと、八海に代わるね」

 母はそう言って、私に電話を代わってくれた。

「もしもし、お兄ちゃん?」

『もしもし、八海、元気にしてるか?』

「うん、私はとっても元気だよ」

『それは良かった。今度、兄ちゃん、そっちに行く予定だから』

 え! お兄ちゃんが帰ってくる!

 兄がこの家に帰ってくることは、春に社会に出て以来、初めてのことだ。正義感があって、私の面倒もよく見てくれて、とっても優しい兄が、私は大好きだ。大好きな兄が帰ってくる。これほど嬉しいものはない。

「で、今度っていつ?」

『来週のお盆の三日間で……』

それまで、すらすらと言っていた兄だったが、急にあやうやな感じに。どうしたんだろう。

「どうしたの?」

『実は、俺に彼女ができた』

「?」

『だから、それを紹介するのが、一番の目的』

へ?

『母さんにも伝えたいから、代わってくれない?』

 私は、ぽかんとしたまま、電話を母に渡した。

 え、お兄ちゃんに、……できた。彼女が。

 ま、マジで⁉︎

「マジでか⁉︎」

 やっと理解ができた。そして、酷く困惑こんわくした。お兄ちゃんに彼女ができた。

「ちょっと、八海、静かにして」

 母にたしなめられるも、気が落ち着かない。お兄ちゃんに彼女。ほ、本気で言ってるのか。マジか。マジなのか。お兄ちゃんに彼女。あの、私の大好きなお兄ちゃんは、とある女の子の彼氏になった。とも言える。あの優しくて、しっかり者のお兄ちゃんが。で、その相手の女の子は、どんな人なんだろう。で、お兄ちゃんは、今、その彼女と一緒にいるのだろうか。そして、こちらに電話を寄越よこしてくる前には、仲良く笑っていたのだろうか。

 ……なぜ、私はそれを気にするのだろうか。仮に、今、二人でいたとしても、こちらに電話を寄越してくる前には、仲良く笑っていたとしても、それで良いのではないか。二人は、彼氏と彼女の関係だ。そういったことがあって当然のこと。そもそも、仲の良い二人やグループで、わいわいと盛り上がったり、笑ったりするのは微笑ほほえましいことだ。そう思うのが当たり前だ。

 ……しかし、私の本心は、そうは思っていない様子だ。どういうことなんだろう。当たり前に思うことを、思わないって。

 私の心臓の中は、もやもやしていた。

 ちょうど、母と兄との電話が終わったようだ。

「さっ、夕飯作るね」

私のもやもやは、終わらなかった。それは、夕飯を食べている時も、好物の桃に舌鼓したつづみを打っているときも、湯船ゆぶねに浸かっているときも、ずっと続いていた。

 それは、さぞかし夜もぐっすり眠れなくなるだろうと思った。案外、そんなことはなかった。


 目覚めの良い朝。いかにも朝って感じの小鳥の鳴き声が、窓の外から聞こえて来る。

 私は、茶の間に降りてきて、テレビをつけた。毎朝観ている朝の情報番組。この番組の出演者で曜日を認識していると言っても過言ではない。それくらい毎日観る。

 その番組も終わり、私は再び上の部屋に行った。そして、布団を片付ける。それを終えると、壁にかかっているカレンダーを見た。それは、いつものルーティーンではない。ただ、気になった。えっと、今日がここで、来週にお兄ちゃんが来る。来週の、お盆を含めて五日間。ここから、ここまで。私は、緑色こペンを取り出し、その五日間のところに、線をびーっと引いた。そして、その下に、『お兄ちゃんが帰ってくる』と書き込んだ。

ちょうど来週のこの日だ。お兄ちゃんが帰ってくるのだ。向こうで巡り合った、彼女を連れて。

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