◆第二章
第5話 救いを説く者-すくいをとくもの-
増していく水量にベリルの体は浮き始め、やがて天井に近づくと体を支えるために手をつく。さらに水は注がれ続け、満杯になった水槽でベリルは息を止めて水中に漂った。
それでもハロルドに向ける視線は鋭く、ゆらゆらと揺れる姿は神秘的でさえある。
「そろそろ息が切れる頃だろう」
数分後、ハロルドが言うように肺に貯めていた酸素が底を突き、ベリルは苦しみで口を開ける。それに気を揉んだ若者たちを、トラッドは心配ないよと笑ってなだめた。
「初めは意識を失うが──」
ハロルドは人形のように動かなくなったベリルを見つめる。
「やがて、意識を取り戻す」
その通り、ベリルはゆっくりと目を開いた。
「そう、その肉体は酸素を必要としない。おそらく宇宙空間だけでなく、溶けた金属の中に放り込まれてさえ適応するだろう」
究極の適応能力といっていい。
「これに基づく結論は、不死になったときの年齢や健康である状態を維持するというものだ」
それにより、君の筋肉量はまったく変化しない。痩せることも太ることもなく、毒物が効かないのもそのためだ。
手足を切り落としてもそれらは再び構築される。肉片になろうとも、塵になってもだ。肉片の一つ、塵の一つが君になる。
もしかすると、塵よりも小さい分子、いや素粒子からでも君は復活するかもしれない。
そこまで物質を一気に分解出来るものは無いがね。
「まあ。今の君には聞こえないか」
しかし、読唇術でわたしの言葉をある程度は理解しているだろう。
ハロルドはヘッドセットを左耳に装着し、後ろの青年に手を挙げて合図した。すると、青年は無言で頷き何かのスイッチをONにする。
「聞こえるか」
これまでと変わらない声量であるにも関わらず、水中のベリルは両耳を塞いだ。
「ああ、すまないね。ちょっとボリュームが大きいようだ」
下げるようにと指示をし、気を取り直して話し出す。
「液体に振動を伝える機械があるのは知っているだろう。定められた距離や深さに音を伝えることが出来る」
それに、ベリルは上部を見上げた。
「今の君に聞こえるのは、わたしの声だけだ」
そして、君の言葉は誰にも聞こえない。
「君はあくまでも人間だ。イルカやクジラのような能力はない」
孤独の世界で、わたしの言葉を聞くしかないのだよ。
相変わらずの不気味な笑みに、何故そこまで自信が持てるのかとベリルはむしろ呆れていた。絶対的な自信──ハロルドからはそれが見て取れる。
「君はわたしの全てに反対している訳ではないのだろう? 人の精神は未だ成熟してはいない。否、後退していると言ってもいい。保守的な意識は──」
トラッドはハロルドの言葉を聞きながら、ベリルをぼんやりと視界に捉えていた。
昔から何度も聞いてきた父さんの説は人類を救いたいがためだ。僕たちは漠然とだが、人間の未来に危機感を抱いている世代でもある。
ずっと箱庭にいた
とはいえ、それは過去の話だ。今は僕たちよりも世界の状勢をよく知っている。何せ、彼は有名な傭兵なのだから。
色んな悔しい思いもしてきたんだろうね。その思いがあるからこそ、君は父さんの言葉に耳を傾けるときがくるだろう。
「抵抗、してほしくないな」
つぶやいてトラッドは完全防音の部屋を出て通路を歩き出す。
「自分の声すら誰にも届かない」
ゾッとするね。しかも、水中という特殊な空間だ。空気を振るわせる事でしか音を出せない生物にとって、相当なストレスだろう。
ベリルは現状維持タイプの不死といえど、それは肉体だけで記憶や経験なんかは積まれていく。つまりはストレスもあるし、溜まるということだ。
極限まで追い詰められたとき、洗脳は成功する。父さんはそれを狙っている。
「でも、彼に通用するんだろうか」
物心がついたときから、父の説と人工生命体の事を聞かされてきたトラッドは、ベリルに会う事を楽しみにしていた。
生き返った父さんは後遺症を抱えていたから、僕はその代わりにベリルを捕まえるための
訓練をするうえで彼の格闘術や戦術を穴が空くほど見通し、その動き一つ一つが繊細で芸術的とさえ思えた。
それと同時に、彼に勝つことは出来ないとも悟った。だから、あんな手段に出た。
「
小さく笑い、自分の部屋に滑り込んだ。
──数時間後、トラッドが戻ると演説はまだ続けられていた。
「あーあ」
父さん、声がしわがれているよ。
「そろそろ休憩にしない?」
息子の言葉にハロルドは演説を切ってベリルを見やる。すると、ようやく終わったかとうんざりし、水槽内を優雅に泳ぎ始めた。
「あとは頼む」
トラッドは部屋から出て行くハロルドの疲れた背中を
「イルカみたい」
息継ぎを気にしなくて良いから泳ぎ放題だね。
彼は幼少に専門家から泳ぎを学んでいるためか、とても綺麗な泳ぎをする。身体能力の高さも相まって、本当に人魚なんじゃないかと思えるくらいだ。
「また明日、父さんの演説を聴いてもらうね」
唇をゆっくりと動かすとベリルはこれでもかと眉を寄せた。
──次の朝
水中に入れられて二日目。ハロルドを見たベリルは、さも機嫌が悪そうに水中から睨みつける。しかしハロルドはそれを意に介さず、再びヘッドセットを左耳に装着した。
「その元気がいつまで続くかな」
ハロルドは再び演説を始めた。
互いに余裕を見せているが、トラッドはどちらが先に音を上げるのか、大体の予想はついていた。
不死者を相手にするには、父さんは歳を取り過ぎている。
「父さん」
一時間後、トラッドはハロルドの演説を遮った。
「目も塞ぎたいよね」
自分の目を示す。
「でもそれには一旦、水を抜かないと」
ハロルドは息子の提案に否定はせず、喉をさすってベリルに視線を送る。
「後は、任せる」
昨日の疲労がまだ残っているようだ。ハロルドはトラッドにあとを任せ、早々に部屋を出て行った。
「ゆっくり休んで」
仕方が無いよね。後遺症も引きずっているんだもの。
「という訳で。水を抜いてくれるかな」
青年は言われた通り、排水のスイッチを押した。
すると、それまで流れの無かった水槽内に下に向かう流れが作られる。満たされていた真水が徐々に減り始め、しばらくするとベリルは体の重さを感じるまでになった。
そうして水が膝あたりにまで減ったころ、一日ぶりに感じた重力に片膝をつく。
「ガハッ」
肺の中に溜まっていた水を吐き出し長い間、水中にいた体は新しく与えられた環境に適応していく。
「水の中の気分はどうだった?」
トラッドは咳き込むベリルに笑って尋ねた。
「良いと思うか」
口元をぐいと拭って言い捨てる。
「父さんの声を聞き続けながらだもんねえ」
言いもって手で合図をすると、水槽の天井から風が吹き込まれた。
「濡れたままじゃあ、風邪を引くからね」
数分後、ベリルの服はまだ湿り気を帯びているが、トラッドはさっそく会話を始める。
「人類がここまで発展してきたのは、戦争のおかげだと言ってもいい。けれど、父さんはもう争いは必要ないと思ってる」
どんなに否定しようと、戦争が人を駆り立て、様々な物を造り出してきた。
「人が大勢死ぬことと、文明の発達は区別しなきゃね」
そこを一緒くたにすると本質が見えなくなる。人の生き死については倫理観だ。必ずしも人が死ななければ発展しない訳でもない。
ただ、そうすることにより、人類が進歩する速度は確実に速くなる。でもそれは、これまでのはなし。
「すでに戦争はナンセンスで、これからの人類には正しく導く者が必要なんだと考えた」
そんなことは何度も聞いたと言わんばかりに、ベリルは顔をしかめている。
「君は、父さんの論の全てに反対という訳じゃあないんだろ」
認めている部分もあるはずだ。
「一つの種が生き続けていく年数はだいたい決まっている。人類も例外じゃあない」
種の終わりは必然だ。終わりに近づいた種がどうなるのか、誰にも解らない。
「だから独裁者が必要だというのか」
「あれ? 父さんが言う導く者は独裁者だと考えているの? まあ間違ってないけど。別に独裁自体が悪い訳じゃあない。やり方が重要なんだ」
それも君なら充分、解っているよね。
「生きている環境により思想や性質は異なる。それを、一人の人間が支配出来ると思うのか」
「初めは無理だろうね。でも、数十年のあいだ環境を統合することに専念したら、どうだろう?」
未来の世界を担うのは若者だ。エネルギーに溢れた若者たちの環境を統一させれば可能だと父さんは言っていたよね。
父さんはずっと、指導者としての風格とカリスマ性を持つ人間を探していた。そして、君に会って直感した。
「けれど、環境を統合する。その仕事だけで君の寿命は終わってしまう」
その問題について父さんはいつも悩んでいた。捕まえられなかった期間、君を説き伏せることが出来ないしね。
「逃がしてしまったことに酷く落胆していた」
だけど、今は逃げてくれたことに感謝している。
「こうして、君は不死を手に入れた」
まさに導く者になる運命なのだと、父さんは震えたそうだよ。
「勘違いも
「でも、正しいと思うけどね」
その言葉にベリルは怪訝な表情を浮かべる。
「だって、君は人類という種のDNAの集合体だ。ある意味、神が使わした者だと僕は思うね」
君は無から生まれた訳じゃない。
「さすがに、そこまでの力はアルカヴァリュシア・ルセタにも、今の人類にもない」
集められた、あらゆる人種のDNAを基にして造られた。
君だけが、成功したんだ。そうなれば、宗教的な一面を持ち合わせたとしても何ら不思議はない。
「人類を導く者として、最も相応しいじゃないか」
君の言葉は人々の心を動かし、救世主となる。
「担ぎ上げる相手を間違えている」
ベリルはハロルドとは違った狂気をトラッドから感じていた──
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