あの世とこの世の狭間で
燦々東里
風に乗って
風が吹く。物凄く強い風だ。髪の毛、否、体ごと持って行かれてしまいそうなほど。夜だから、風の冷たさも体に染みる。
どうしてこうなったのか。ビルの屋上の端に立ちながら、一瞬考える。しかし答えは出ない。そんなこと覚えていなかった。覚えることすら煩わしい。それに、覚えていなくとも何ら問題はないのだ。今から死ぬというのに、余計な記憶を抱える必要はあるまい。
「紗那! やめろよ! 血迷うな!」
大きな音を立ててドアが開く。血相を変えて屋上に飛び込んできたのは、クラスメイトの慎也だ。青ざめたその顔からは、恐怖や悲哀など、様々な感情が伝わってくる。
「どうして来たの」
「どうしてって! 当たり前だろ!? 死のうとしてんだから!」
「生きていても無駄だって、やっと気づいたの。だから死ぬ。それだけのことじゃない」
「それだけって、おまえっ……」
慎也が私の方へ向かってくる。しかしそれを阻止する言葉は、口から出てこなかった。そばに来てほしい。そんな思いは欠片もないのに。
「死ぬのが迷惑ってどうしてわからないんだよ! 親より先に逝って、自分だけ楽になって! あとに残された俺たちがどんな思いか……」
「わかってるよ!」
何も知らないくせに、次々と善良そうな言葉を並べ立てる。そんなもの望んでいない。聞きたくもない。
慎也に対する苛立ちは膨張して、ついに弾けてしまう。柔らかい布に包まれたナイフに、憤りを感じてしまったのだ。
「そんなのわかってる! でも! 辛くて仕方ない時にはそういうこと考えられないの! 死ぬのが一番だって思えてくるの!」
「そんなことないよ。生きていた方が絶対楽しい!」
人生には波がある。楽なことばかり体験することは叶わない。辛いこと、苦しいこと、嫌なこと、幸せなこと、すべてひっくるめて人生なのだ。そして今は、負の波が来ている。
頭の中では理解できている。だが理解できても、乗り越えられるとは限らない。人間には感情があるから、やはり余計なことまで考えてしまう。恐怖には勝てなくて、人間を信じきれないことがある。
そして決まって思うのだ。私は他人より少し弱くて、少し考えすぎて、少し行動力がある、そんな人間ではないのかと。だからこそ、ここにいるのではないかと。
「その保障はどこにもないよ」
「だったら、生きていて楽しくないって保障もないだろ。だからさ……」
慎也がもう一歩近づこうとしてくる。私たちの距離は一メートルもない。私のためにそんなに必死な顔をして、危険を冒そうとしてくれている。
だからって心が動くことはない。寧ろ、馬鹿らしくて笑いさえ浮かんでしまう。慎也に目線だけ送りながら、片足を宙に浮かせた。私の腕を掴もうとしていた慎也は、反射的に動きを止める。顔が一気に青ざめた。恐ろしく滑稽だ。
「もう疲れたの。可能性を確かめるために、生きることすら面倒」
「紗那……」
「そろそろこの阿呆みたいな会話はやめよう」
「やめるって、まさか! 駄目だ!」
「さようなら、慎也。さようなら、人間……」
片足だけじゃなく、両足を宙に浮かす。慎也の手は、私には届かなかった。頬に当たる風は屋上にいた時とは比べ物にならないくらい冷たくて鋭利だ。遊園地のアトラクションに乗っている気分。阿呆らしい。そんな子供みたいな思いを抱いた自分はなんて滑稽なのか。万人に笑われてしまう。
流れていく夜景を見ながら考えていた。やけに長く感じる落下。それは神様の最後の意地悪なんだろう。最後の最後まで冷たいお人だ。ただもうどうでもいいのも事実。遅々としているとはいえ、地面は着実に迫っている。もうすぐ死ぬことができるのだ。喜びが身体中を駆け巡る。そう、体の中にあるのは、喜びだけ、なのだ。胸に突っかかる気持ちが何かわからないまま、私は地面に叩き付けられた。
「……なんてね」
相変わらず風は強い。屋上につながるドアが開くことはない。先程と何も変わってはいない。変わるはずないのだ。こんな馬鹿みたいな想像が実現するなどあり得ない。
なんだかおかしくなってきて、一人で声を上げて笑ってみた。そんな自分を心のどこかで嘲笑しながら。
さて、とどのつまり私の存在はやはりこの世に必要ないということだ。それならば早く終止符を打ってしまおう。最後に愉快な妄想もしたことだし、もう未練はない。寧ろ愉悦さえ感じる。
私は宙に向かって、一歩踏み出した。
「ん……」
ゆっくり目を開ける。目に入るのは黒い空。冷たい風が私の体に吹き付け、頬には冷えたコンクリートが当たっている。
体を起こし、あたりを見回す。こんなビルの屋上で私は何故寝ていたのだろう。
まるで長い夢を見ていた後のような感覚がする。しかし夢の内容は全く思い出せない。二本の角がなんとなく思い出されるだけ。それもかなり曖昧で、本当に夢に出ていたかは定かではない。
私は自殺しようとしていたはずだ。
唐突にその事実を思い出した。それからは次々に自分のしたことが頭に浮かんでくる。慎也が止めに来る想像をした。それを振り切って飛び降りることも想像した。そして実際に飛び降りた……はず。
目の前で手を握ったり開いたりを繰り返す。身体は透けていない。痛みもどこにもない。私はどう考えても生きている。ということはあの飛び降りたことさえも私の想像だったのだろうか。
立ち上がって屋上の端に行く。改めて黒い空を眺めて、冷たい風を感じる。
そんなことどうでもいいという気持ちが心をしめていた。自殺する前の投げやりな感情ではない。生きているのだからいいという気持ちだ。
自分でも驚くくらい心が落ち着いていた。自殺願望などとうに消え失せている。逆に何故あんな小さなことで自殺なんてしようと思ったのか不思議なくらい。それと同時に恥ずかしくもなってくる。
それは見ていた気がする夢のおかげなのだろうか。それとも一回、寝たおかげなのか。可能性はいくらでもある。けれど大事なのは生きているということ。
「帰ろう……」
私にも、待っている人がいるから。
コンクリートに向かって一歩踏み出した。
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