第4話 二人風呂



 出前の寿司を食べ終えた俺に待っていたのは、一種の地獄と呼ぶべきものだった。


「――じゃ、頭から洗おうね〜」

「自分で洗う! てかなんで陽菜が一緒に入ってきてんだよ!?」

「そりゃあ……はるちゃんの身体をまさぐり回したいから?」

「動機が不純にも程があるっ!?」


 ギャーギャーワーワーと叫び藻掻もがく俺を陽菜はがっちりと掴んで離さない。

 ここは風呂場。

 本来なら一日の疲れを洗い流し、身体を癒すための浄化槽。

 安息の地であるはずのそこには、肌色の魔王が君臨していた。

 呪力を封じられ身体能力も適わぬ魔王――陽菜の手によって開けられた地獄の蓋。

 逃げ場など存在し得ないのである。


「つーかお前は恥ずかしくないのかよ、仮にも俺は男だぞ!?」

「今は女の子だからセーフ?」

「……聞いた俺が馬鹿だったわ」


 小首を傾げて答えた陽菜に思わず頭を抱え、落とした目線の先に自分の胸についた慎ましい膨らみが映り込む。

 ある程度慣れたとはいえ、まじまじと見るのは恥ずかしく直ぐに目を逸らす。

 湯気で薄くくもった鏡。

 全裸の俺、背後には同じく全裸の陽菜。

 風呂という場所を考えてば当たり前な肌色の占有率が多すぎる光景が広がっている。

 ……まあ、陽菜がいること自体がおかしいのだが。


「それより髪洗っちゃうよ」

「……はぁ。お手柔らかにな」

「ふっふっふー、陽菜の超絶テクニックの前にひれ伏すがいい!」

「なんだよそれ」


 抵抗する気も失せた俺の頭へシャワーから暖かなお湯が降り注いだ。

 さぁぁと響く水音、しっかりと水気を帯びた長い白髪が僅かに重く感じる。

 ぽしゅぽしゅ、とシャンプーボトルのポンプが鳴らす軽い音。


「じっとしててね」


 陽菜のそれを合図として彼女の両手が髪へ触れた。

 どんな拷問じみた行為をされるのかと戦々恐々としていたが、蓋を開ければ至って普通。

 頭皮を揉み解すように両手の指が動き、鏡越しに見た自分の頭に白いモコモコとした泡が広がる。

 泡は髪を包み込んで満遍まんべんなく指の腹が這うように洗っていた。


「痒いところはない?」

「……ん、大丈夫だ」

「よかった。人に洗われるの気持ちいい?」

「…………多少は」


 素直に答えるのもしゃくに思い、無愛想に呟いた。

 しかし陽菜は「そっか」と微笑みながら手を動かし続ける。

 鏡に映る自分の顔はこれでもかというくらいに緩みきって、弓なりに細められた目が俺の本心を物語っていた。

 どうせ陽菜はそれも踏まえた上で何も言わなかったのだろう。

 気が利くのか利かないのか判断に困る。

 暫くして洗い終えた髪から泡を流し、トリートメントまでして貰った俺は気が抜けていたのだろう。


「――次は身体だね」

「……はい?」

「身体洗わないとダメだよ?」

「そりゃそうだが流石にそっちは自分で――」


 ガシッ。

 立ち上がって逃げる前にほっそりとした両腕に腹部をホールドされ、プラスチック製の風呂椅子に引き戻される。

 耳に「ふひひ」と奇妙な笑い声が届く。

 背中越しに押し付けられた柔らかな感触に緊張した身体が動かなくなった。

 世の中の男子諸君からすれば、美少女と呼んで差し支えない陽菜のそれはご褒美と呼ぶべきものだろう。

 けれど、今の俺には悪魔の笑みにしか見えなかった。

 ワキワキと運命の時を待つ両手と現実的な力の差を前に、抵抗する労力と精神的疲労を天秤にかけ――


「――諦めるか」


 拍子抜けするほど呆気なく陥落した。

 考えてみれば実害と呼べるものはない上に、俺自身も色々と慣れていない訳で。

 その手間が省けるなら辛うじて、ギリギリの境界線でアリかと思った。

 ……そんな時期が俺にもありました。


「――んっ、おいっ、くすぐったいって!」

「んー? 気のせい気のせいっ」


 つつ、と横腹を這う陽菜の指先の感覚に、自分のものと思えないつやのある声が反射的に漏れた。

 ビクリと跳ねる肩、頭がフワフワとして思考に白紙が混じる。

 泡だらけの身体には隅々まで陽菜の手が入り、力の入らない俺をもてあそぶようにあちこちを絡みつくように触るのだ。

 やることはやってるんだけど、それ以外が占める割合が大きすぎて問題しか目に入らない。

 特に胸は恍惚こうこつとした表情で執拗しつように触られ揉まれ……俺は全ての記憶を消した。

 自己防衛、大事。

 気がつけば陽菜は満足したらしく、暖かなシャワーが凍りついた精神を解かすように身体中の泡を流している最中だった。

 排水溝へと泡が吸い込まれるのを見届け、重くため息をついて立ち上がる。


「はるちゃん」

「……なに」

「陽菜の髪と身体は洗ってくれないの?」

「自分で洗えっ!」


 さも当然のように要求したそれを即時却下し、溜めておいた湯船へ身を沈める。

 ガーンと擬音を幻視するような失意体前屈へ移行した陽菜はおもむろに自分の身体を洗い始めた。

 白い湯気に満たされた風呂場。

 ちゃぽちゃぽと浴槽を跳ねるお湯。

 心地良さにとろけた身体から声にならない声を発しながら、日常が戻ってきたのを実感する。

 そこへ。


「お邪魔しまーすっ」


 けして広くはない浴槽へ身体を洗い終えた陽菜が侵入。

 波打つ水面、またしても背後から抱きかかえられる形となる。

 陽菜の体積の分でかさを増したお湯の温度に混じって、触れ合う肌から陽菜の体温がじんわりと伝わった。

 何やってんだと振り返って見た陽菜の顔は火照ったように朱が差し、普段は目にしない色艶を不意に感じて目を奪われた。


「どうしたのー? そんな珍しそうにジロジロ見て」

「……あ、悪い。なんかいつもと違う風に見えたからつい、な」

「どんな風に見えたのかなぁ」


 期待するような目。

 水滴が伝う鎖骨のラインが妙になまめかしい。

 視点の問題で水面に浮かぶ半球状な肌色の島が目に入り、クスリと笑う声が聞こえた。

 ……こいつ揶揄からかってやがる。

 どうせ俺が何も手出ししないヘタレだと思いやがって……事実だけど。


「別に、いつもより馬鹿っぽく見えただけだよ」

「辛辣っ!? もっとこう、なんかその……ないの?」

「ない。誘惑でもしてるつもりだったのか? 全然気づかなかったわー」

「陽菜から迸る色香がはるちゃんに効かない……っ!?」

「自分で言ってて馬鹿だと思わんのかお前は」


 元々そんなもの陽菜にはなかっただろうに。

 前を向き直しお湯と身体を一体化させる。

 背は陽菜に凭れないようにとしていたが、ぐいと陽菜の方が近づいて来るために諦めた。

 なにせ二人も入れば浴槽の空きスペースは少ない。

 引っ付いたままお湯に浸かるのは自明の理ではあるが、落ち着くような落ち着かないような。


「……はぁ」


 元凶は身体の変化であり、後ろで楽しそうに俺の髪を結う陽菜であり。

 今の俺は魂と身体の同期がズレている状態。

 多少なり不安定なことに変わりはない。

 加えて呪術師の生命線と呼ぶべき呪力に関しても殆どが封じられている。

 呪術師としては最高位の特級、『千剣』とまで呼ばれた俺にとって、それは自身の存在意義にも等しいもの。

 だというのに、陽菜は何も変わらない。

 以前のままに俺を俺として見てくれる。

 親の顔を刷り込まれた雛鳥のように俺の家へ居座るらしい。

 距離感が近すぎるのはアレだけど、精神的には助かっているのかもしれない。

 ……薄っぺらいオブラート程度には。


「――陽菜」

「なぁに?」

「ありがとな。色々」

「はるちゃんがデレたっ!? これは記念日制定だよっ!?」

「デレてないし記念日制定とかやめろ……」


 けれどやっぱり、陽菜の頭はおかしいらしい。

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