あじさいのオマージュ

しお部

第1話 白い紫陽花

 四五歳になった。六月の初めだ。

 勤めていた会社を去年、クビになった。無職のまま誕生日なんかを迎え、今日で四五歳。

 十年も住んでいる安アパートの前に、「児童公園」などと銘打たれた遊具場がある。遊具場というのは子どもの遊び場だ。

 午前十時にもなると、どこから来るのか、保育園の子どもらが大挙押し寄せ、泣いたり叫んだり笑ったりで年中、花でも咲いたような雰囲気になる。

 上京して二七年、家族を持ったことはない。花を咲かせたことも、育てたこともないということか、花のない生活で、水をやる手間も経費も掛かりはしないと、人並みな寂しさと言えば聞こえは良いが、この歳で、この見た目で、暇を持てあます重さに耐えきれず、少し歩いた。



 部屋を出たら、やはり公園に花が咲いていた。

 公園を囲む植え込みに、恐らくは様々な花があるのだろうが、花は咲かなければ花ではないので、咲いている紫陽花あじさいに目がいった。

 白い紫陽花が咲いている。勿論もちろん、それこそ色々な色の紫陽花が咲いているのだが、白い紫陽花だけが私を見つけて私を見ているようで、目があったような気もする。また白い紫陽花ほど寂しいものはないのだ。


 私は、その白から逃げるように歩を進めた。

 国道、都道、市道というものは、ほぼ舗装ほそうがなされているものだが、ふと舗装が途切れて、砂利道になる境界がある。ここからは「わたくしの道」ですと。そんなところでは、空気が変わり、風に砂が混ざる。だれのものだか、あんたの道だかは知らないが、角を曲がり私道の路地に入る。


 また、白い紫陽花が出迎えた。

 やはり白い紫陽花なら別だ。薄赤いムクゲだろうか、そんなものもあるが、やはりムクゲがゆがむ路地の入り口に、落としたまぐろの中落ちぐらいでは、野良のらでも急ぎはしないが、落とし忘れた砂が落ちる迄には、間に合わせないと、ときは黄昏、ときに砂混じりに吹く風、旅いそぐ鳥の列にも季節は空を渡ってしまうので、せめて夕陽に泣く迄には、この路地を過ぎよ。ただ白い紫陽花だけは別だ。



 生活がある。生活は花ではない。一人の暮らしでもやはり金は掛かる。職に就かない者は、暮らすどころか生きることすら出来ないことは、生き物の理で、死ぬしかない。死ぬのは駄目だとささやかれたとて、道理の通りに都合よく、ほいと仕事が手渡されるはずもなく、エサもなく、探せども探せども、歩けども進めども無駄な路地ばかり。何もない。行き止まりさえ見つからなかった。


 行き止まりのない路地ほど絶望的で無縁なものはないと、また嫌でも歩を進めていたら、古びた寺の門が開いている。

 普段なら通り過ぎるだけの小さな寺で、禅寺のようだった。

 門をくぐると、人気のない草むらのような境内けいだいに、また紫陽花が咲いているのだ。今度は人目もないので、近づいて手で触れてみた。やはり白い紫陽花は別だ。おそらくこれは私だろう、そちらの花はあんただろう、などと考えても何の辻褄つじつまもない。


 放てば手にみてりと、坐するは歴々の古仏、古鏡こきょうに映り古鑑こかんに連なる。人の目ほどに冷たく、人の声ほど心をえぐるが、世間に対する恨みはない。そもそも世間に属していない。裏通りにいても表通りにいても、あんたはあんた、紫陽花に触れるこの皮膚から逃れることは出来ない。なのに何を放てばこの手に戻る。


 もはや私の声か紫陽花の声か、禅坊主の声ならありがたいが、分からないような声が聞こえてくるほどに風が吹き始めていた。


 そういえば場所を持たず、声だけの僧がいたという。

 声だけで一体、なにをしでかそうとしたのか、こちらも学がなく分からないが、踊り念仏の一遍いっぺんなどという坊主もいたらしいと、ふと思い出す。踊りながら念仏を唱え、おふだを配って歩いたのだったか、自分のお寺を持たなかったと聞いたことがある。彼の周りは紫陽花だけだったのか。


 踊り念仏とは結構なことだ、一遍二遍とお念仏も、三度四度と増してゆく程に、迷いに迷い舞いに舞う、迷中又迷めいちゅううめいの漢も夢中舞夢むちゅうぶむ微美びびも、彼岸に此処こなた此岸しがん彼方あなたと、往復切符を握り締めてのフリーパス、くんじた香りが漂う三途の河原で、踊り念仏とは結構なこと、装束しょうぞく壊色えじきと、知ったことか。ただ綺麗、お前、綺麗。




(つづく)



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