小さな恋人と男友達
西の空がオレンジ色に染まり始めた頃。
ある小さな美容室で、常連客と和やかに談笑しながら軽やかにハサミを動かしていた美容師のルリカが、手を止めて壁時計を見上げた。
「リュウト、そろそろハルのお迎え行って来て」
リュウトと呼ばれた若い男性美容師は、床に散らばった髪の毛をほうきで掃き集めながら小さくため息をついた。
「えー、またかよ……」
不服そうに小声で呟くリュウトを、ルリカが鋭く睨み付ける。
「なんか言ったか?」
低く呟くルリカの声に、リュウトは慌てて首を横に振る。
「何も言ってません!!」
リュウトの返事を聞くとルリカは、さっきとは打って変わって優しく微笑んだ。
「そう?気のせいかな?じゃあ、ハルのお迎えよろしくね」
「わかったよ……」
リュウトは渋々ほうきを置いて、腰からサロンエプロンを外した。
「帰りに牛乳買ってきて」
「ハイハイ……」
「返事は1回」
「ハイ……」
(目が笑ってねぇよ……)
微笑みながらも眼光の鋭いルリカに逆らう事もできず、リュウトはそそくさと店の外に出た。
母親の
中学時代に激ヤンだったルリカと同じ道を辿り激ヤンだったリュウトも、中学卒業後はサツキの店で見習いをしながら、通信の美容学校を卒業して国家資格を取って美容師になった。
リュウトがハルの通う保育所に足を踏み入れると、あまりに若い保護者のお迎えに、周りの母親たちからの注目が集まる。
(だから嫌だって言ってんのに……)
園庭で遊んでいた小さな女の子が、リュウトの姿を見ると満面の笑みで走ってきて、足元に飛びついた。
「とーちゃん!!」
「ハル……とーちゃんって呼ぶなっていつも言ってんだろ?」
やれやれと苦笑いをしながら、リュウトは足元にしがみつくハルの頭を撫でる。
「せめて、にいちゃんにしてくれ」
いつものやり取りを、保育士たちが笑って見ている。
「帰るぞ。用意してきな」
「うん、とーちゃん!」
「だから……」
姪のハルは、叔父であるリュウトの事を『とーちゃん』と呼ぶ。
まだ二十歳のリュウトにとって、『おじさん』と呼ばれる事に抵抗があるのは確かだが、リュウトの『ト』だけを取って『とーちゃん』と呼ばれるのもいろいろと誤解を招く。
本当はせめて『にいちゃん』と呼んでくれたらとは思うものの、ハルはリュウトの気持ちなどおかまいなしで、呼び慣れた『とーちゃん』と言う呼び方を変えようとはしない。
もしかしたら本当の父親がいない事を寂しく思ってそう呼ぶのかもと思ったり、まだ小さい子供だから深い意味はないのかもと思ったりもする。
それでもリュウトにとって、ハルが可愛い姪である事に変わりはない。
しばらくすると、帰り支度を終えたハルがリュウトの元に走ってきた。
「帰るか」
「うん!」
リュウトはハルの小さな手を握り、先生に挨拶をして保育所を後にした。
「帰りに牛乳買って来いって言われてんだ。コンビニ寄るぞ」
「おかしはー?」
「ダメ」
「えーっ。ハル、チョコほしい。買って、とーちゃん」
「ダメだ。買い食いしたら死ぬほどママに叱られんだろ」
(叱られんのはオレなんだよな……)
まだ2歳なのに口の達者なハルは、母親が厳しい分、何かとリュウトに甘えてくる。
しかし下手に甘やかすと後が怖いので、リュウトはコンビニに寄って牛乳だけを買い、ハルと手を繋いで帰路に就いた。
「ただいま」
「おかえり。トモキ来てるよ」
「ああ、うん」
最後の客を送り出し、店の片付けを終えると、リュウトは庭の離れにある自分の部屋に向かった。
ドアを開けると、友人のトモキが、いつものように笑ってリュウトに声を掛けた。
「よぅ、お疲れさん」
「おう」
まるで自分の家にでもいるかのようにリュウトの部屋で寛いでいるのは、中学時代からの友人の
トモキとリュウトが知り合ったのは中学1年の時。
小学5年の夏から姉の先輩にベースを教えてもらい、中学生になるとその人のバンドのローディーのような事をしていたリュウトに、自分たちのバンドでベースをやらないかとトモキが声を掛けたのがきっかけだった。
激ヤンだったリュウトとは違い、トモキは至って健全、成績もいい方で、教師や他の生徒からの人望も厚く、どこにいても人を惹きつける人気者だった。
そんなトモキの事を、自分とは随分人種が違うと思ったリュウトは、他のメンバーともうまくやれるわけがないと思い、その誘いを断った。
しかしその後も何かとリュウトに声を掛け、何度断られても熱心に勧誘してくるトモキとは次第に仲良くなり、気が付くといつの間にか、休み時間や放課後の長い時間を一緒に過ごすようになっていた。
中学2年の秋、リュウトがローディーをしていたバンドが解散したのを機に、ずっと固定のベーシストが不在のままだったトモキのバンドに、リュウトが加入する事になった。
ベーシストのリュウトにとってドラマーのトモキは、初めてスタジオで一緒に演奏した時から、不思議としっくりくる相手だった。
その後、メンバーが変わったりバンドを解散した後も、リュウトとトモキは新たなバンドを結成して、何年も一緒に音楽を続けている。
中学卒業後、公立高校に進学したトモキは、現役で地元の国立大学に合格し、バンド活動やバイトもこなしながら大学生活を送っている。
リュウトは時々、こんなに性格も生き方も違うトモキが、なぜ元ヤンの自分と一緒にいるのだろうと不思議に思う事もある。
それでも、見るからに悪そうだった激ヤンのリュウトを怖がりもせず、当たり前のように普通に接してくれたトモキは、リュウトにとって他の人とは少し違う、親友と呼べる唯一の存在だった。
「トモ、飯食った?」
リュウトは火を点けたタバコをくわえながらシャツのボタンを外す。
「まだ。腹減った。練習前にどっかで飯食おう」
「ああ」
着替えを終え、ベースを肩にかけたリュウトとトモキは、スタジオに行く前に近所のファミレスに寄った。
料理をオーダーして他愛ない話をしていると、トモキのスマホの着信音が鳴った。
「ん?誰だろ?」
トモキは画面に表示された知らない番号を見て、首を傾げながら電話に出る。
「もしもし……。ああ、うん……。うん……うん……。えっ……」
リュウトはタバコに火をつけながら、黙ってトモキの様子をうかがっている。
「ああ……ごめん……。今、付き合ってる子がいるから……。うん……」
申し訳なさそうに電話の相手に謝るトモキの声を聞きながら、リュウトはタバコの煙を吐き出した。
(トモのヤツ……彼女できたのか……)
トモキから何も聞かされていなかったリュウトは、電話を切ったトモキを見ながらニヤニヤしている。
「なんだよ、またコクられてんのか。相変わらずモテモテだな」
トモキは照れくさそうにスマホをテーブルの上に置いた。
「なんか同じ学校の子らしいけど……あんまりよく知らない子だったし」
「彼女、できたのか?」
「うん……まあな……」
「いつ?」
「つい最近」
「そうかー。相手は?」
「同じバイト先の子」
「どんな子?かわいいのか?」
「……うん」
リュウトの質問攻めに遭いながら、トモキは視線を泳がせている。
「でも、リュウには紹介しねぇから」
「なんでだよ?」
「わかんだろ?」
「んー……。思い当たる節がまったく見当たらねぇ」
「なんだよ、無自覚なのかよ?リュウって天然タラシなんだな」
「天然タラシってなんだよ?」
「天然の女タラシって事だよ!!オレの付き合った子、リュウに紹介するとみんな取られるから」
「オレは取ったつもりねぇけど」
「リュウはそうでも、オレの付き合った子は、リュウに紹介するとみんなリュウの事好きになる。だから今度は絶対に会わせないし紹介しねぇ」
「ふーん……。そうかー……」
そう言えば確かに、トモキから彼女を紹介されて一緒に食事したり遊んだりした後、程なくしてトモキが彼女と破局を迎えていた事が何度かあった。
(オレがそそのかしたわけじゃねぇけど……。まぁいいか……)
「そこまで言うって事は、オマエその子に相当惚れてんだ」
「うん、まぁ」
リュウトは苦笑いしながら灰皿の上でタバコの火をもみ消した。
「トモがそこまで言うなら、オレは邪魔しねぇように黙って大人しくしてるわ」
運ばれてきた料理を口にしながら、トモキがリュウトに尋ねる。
「リュウは彼女いないのか?」
「いねぇな。女には不自由してねぇけど。オマエみたいに誰かを本気で好きになる事もねぇし……女の方もオレになんか本気で惚れねぇし」
リュウトはサラダのトマトをフォークでつつきながらサラリと答える。
「冷めてんな」
「まぁな……。つえぇ女ばっかの中で生活してるとな。……あっ」
「なんだよ?」
トマトを口に入れて、リュウトはニヤリと笑った。
「一人いた」
「えっ、何が?」
「オレに、熱烈に惚れてる女が一人いる」
「そんな子がいるんだ。誰だよ?」
「オマエもよく知ってる」
「かわいいのか?」
「まぁ……かわいいっちゃかわいいな。いつもオレに甘えてベッタリだし、結婚しようって毎日言われてる」
「えっ、結婚?!一体誰なんだよ?!」
驚くトモキの顔を見ながら、リュウトはおかしそうに笑った。
「ハルだよ。なんでも、結婚したいくらいオレの事が好きらしい」
リュウトの言葉にトモキはガックリ肩を落とす。
「なんだよ……。ハル、まだ2歳じゃん」
「20年後にはイイ女になってるかも」
「そん時オレらいくつだよ?」
「んー……40?」
「どんだけ気が長いんだ」
「冗談だよ。ハルなんか娘も同然だぞ?ありえねぇ」
「だよなぁ」
トモキもおかしそうに笑う。
「リュウの本気の恋の相手は、いつになったら現れるんだろうな」
「さあなぁ……」
食事をしながら、トモキの彼女との馴れ初めや、どんな子なのかを聞いて、リュウトはトモキを冷やかした。
照れて赤い顔をしたトモキが、少しうつむきがちに彼女の話をする。
はっきりと言葉にはしなくても、トモキがどれ程彼女の事が好きなのかが伝わってくる。
トモキの話を聞きながら、本気で誰かを好きになれるトモキの事を、リュウトは少し羨ましくも思った。
「初々しいな」
リュウトはタバコに火を付けながら、照れるトモキの顔を見て苦笑いした。
「毎日楽しくて仕方ねぇだろ?」
「まぁ……会ってもバイト先だったり、会えない日もあるけど……な」
「トモの事だから、毎日マメに電話とかメールとかしてんだろ?」
「うん……」
「これからだな。デートして、手を握って……抱きしめて、キスして……それから……」
彼女の事を話すだけで照れているトモキの反応がいちいち面白くて、リュウトはわざと意地悪な事を言う。
「もうやめろって!!」
期待通りのトモキの反応に、リュウトは満足げにニヤリと笑った。
「トモはマジで純情だな。トモ……まさかオマエまだ……ど……」
「そんな事はない」
リュウトが言おうとした一言を、トモキがピシャリと遮る。
「そうなのか?オマエ、いつの間に……」
「高2の時だよ。たまたま告白されて付き合った女の子が、めちゃくちゃ男慣れしててな……。なんか強引に押しきられた」
「食われちまったか」
「そんな感じだった」
「だっせぇ」
リュウトがタバコの煙を吐きながらおかしそうに笑うと、トモキは眉間にシワを寄せた。
「うるさい。だから言わなかったんだよ。リュウに馬鹿にされんの目に見えてたから」
「まぁいいじゃん。状況はどうあれ、卒業できたんだから」
「あんまり良くもなかったけどな……」
「なんで?」
「付き合い始めたばっかりで、相手の事あんまりよく知りもしないで……まだそんなに好きでもなかったし……。彼女の豹変ぶりとか……いろいろされて、なんだコレ?って戸惑ってるうちに終わって……思ってたほど気持ち良くもなかった」
「へぇ……。トモはあれか。本能より理性、体より気持ちなんだな。ちょっと乙女っぽいな」
「やめてくれよ、気持ちわりぃ……。オレは身も心も丸ごと、ちゃんと男だっての」
「で、その初めての子とはどうなった?」
「すぐ別れた。なんか、あまりの肉食ぶりにドン引きして、好きになれなくて」
「なんで?肉食女子、ダメか?」
「いや、そういう訳じゃないよ。ただ……その子の貪り方がハンパなかったから。きっとこの子は、たいして好きでなくても……誰とでも簡単にやっちゃうんだろうなーって。オレの前に何人男がいたんだろうとか考えると、やっぱり好きにはなれなかった」
「やっぱ乙女だな、トモ。逆にオレのまわりはそんな女ばっかだ。ってかオレは、そういう女しか知らねぇ」
「そうなのか?」
「アイツらの求めるモンはオレの体だけだからな。来る者拒まず去る者追わずだ。いちいち好きになったりしねぇし、電話とかメールとかデートとか……そういうのも必要ねぇんだよ。彼女じゃねぇから」
「ふぅん……。寂しいな」
「そうか?慣れりゃなんともねぇよ。自分の時間邪魔されて煩わしい事もねぇしな」
「そうかなぁ……。オレはできるだけ長い時間、好きな子と一緒にいたいし、その子の事、いろいろ知りたいとか思うけどな……」
「相手の事が好きなら、一緒にいるのも悪くねぇのかもな。でもオレは……知らなくてもいい事とか、知らない方がいい事もあると思うんだ。だから、知りたいとは思わないし、知ろうとしない」
「なんだソレ……。なにげに深くね?」
「そうか?さてと、そろそろ行こうぜ」
二人は店を出ると、リュウトのバイクで通い慣れたスタジオへ向かった。
リュウトの後ろで、トモキはリュウトのベースを背負って、なんとなくリュウトの背中を眺める。
(本当にオレら、正反対だ……)
今までリュウトに気移りして離れて行った女の子たちは、トモキにはないものばかりを持っているリュウトに惹かれたのだろう。
リュウトは何も言わないが、きっと何人ものトモキの元カノが、リュウトに告白したに違いない。
トモキの元カノとリュウトが付き合っているところを見た事は一度もなかったが、ハッキリと断れるところもまた、自分にはないとトモキは思う。
逆に、リュウトにはないものを自分が持っているとしたら、それは一体なんだろう?
(……ってか、持ってるのかな……そもそも……)
自分自身にいまいち自信が持てないまま、なんとなく高校を出て大学に通い、気が付けば二十歳になっていた。
人より特別何かが優れていると言う訳でも、人に誇れる何かがある訳でもなく、ハッキリとした将来の夢があるわけでもない。
強いて言えば、少しは人に胸を張れるのは、10年近く飽きもせずにドラムをやっている事くらいだ。
(二十歳って、もっと大人なんだと思ってたけど……オレの中身、中学くらいからほとんど変わってねえよなぁ……)
こんな頼りない自分でも、彼女は好きになってくれるだろうか?
(もう少し、男っぽさとか、強さとか……アピールした方がいいのかな?)
だけど、そんな無理をして強がっても、すぐにメッキが剥がれて、弱くて頼りない自分が強調されるだけだとトモキは思い直す。
(こんなオレだけど……彼女には、ありのままのオレを好きになってもらいたいな……)
自分自身でも気付いていない、リュウトにはない自分の良さを、彼女が見つけて好きになってくれたらなと、トモキは思った。
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