26eme. この感情は一欠片も残さずに全部君に。(前)
ジャッカスさんに礼を言い、俺はドーナツ屋を後にする。結局のところ、根本的な問題は何も解決してないなと思った。
けれど、ジャッカスさんもジャッカスさんなりに、俺を元気づけようとしてくれている気持ちは伝わった。
このまま、ドーナツ片手に家に帰るつもりは無い。いつまでもクヨクヨしても何も変わらない、一人でジメジメしてても良い事なんて無い。
畳のようにタイルの敷かれた地面を歩き、駅から離れて道に出る。
右には電気屋の入ったビル、左にはKのつく電気屋。電気屋に挟まれたこの道も、電気屋になるんじゃないかって思うと笑えてしまう。
そんな下らない話は置いておいて、俺は電気屋の交差点を左折した。
少し歩くと左は小高い丘になっていて、その上の大きな建物はTV局のスタジオだ。実は梨花がこの街がいいと行った理由は、従兄が住んでいるというだけではないのだった。
俺は過去に何度か姉が寝込んだ時に、代役としてテレビに出演させられている。
成長した現在では無理かもしれないが、ここに用事が出来るのだけは勘弁だと思った。
姉よ、本当に健康体で居てくれよ。俺はこのスタジオを見る度に、そんな想いを抱かずにはいられないのだった。
そして、たった今。道往く人に「ホイップのダテリカさんですか?」と聞かれた。俺は「違う」と、だけ言って通り過ぎた。
ショートヘアで男子の制服を着ているアイドルが、どこに存在するっていうんだ。後ろからシャッターの音がしたけど、無視して俺は足を進めた。SNSに載せられた所で、何のダメージも受けやしない。
しばらく歩くと、向かいにショッピングセンターの入ったビルのある十字路に出る。
ここを渡って左に行けば相原の家で、真っ直ぐ行けば天の家だ。信号待ちをしている隙に、箱の中身を確認する。色とりどりのドーナツ、砂糖の甘くて良い匂い。
思わず伸ばしかけた手を止めて、箱を急いで閉めた。これは天と俺の為に、ジャッカスさんが用意してくれたものだ。彼女に会うまで、一個も口には出来ない。
それにしても、さっきのアレはなんだったんだろう。
ジャッカスさんが天の話をした時、いきなり何処かの内臓が痛んだ。まともに声が出せないくらいの苦しみ、無意識に右手は心臓を抑えていた。
今だって、少し似たような気持ちになっている。鼓動がオカシイ、胸が締め付けられるような感じ。
そして今思うと、これって今朝、教室で覚えたものと似ているような気がした。
この感情は何だろう、無性に腹が立つんだけど。自分を押し殺した筈でも、腹の底からふつふつと謎の感情が沸いてくる。
そうなると、天もこのよく分からない感情を持っていたって話になる。
この妙なモヤモヤを彼女は何処で抱えて、どう処理したのかは分からない。
だから、聞くんだ。ちゃんと会って、彼女の口から聞くんだ。
そして君の為に出来る事があれば、俺が用意できるものなら全て整える。思い通りに行かなくなって、君と過ごした日々を思い出したんだから。
言葉に出来ない気持ちが、それこそが想いだっていうんなら。消えちゃう前に、その意味を君と見つけたい。
天の家は洋風なロッジな感じの、洒落たレンガみたいな一軒家だった。似たような家が周りにあるって事は、建て売りか何かだったんだろう。
俺は携帯電話を取り出し、天の番号へと掛けてみる。八、九回くらい、呼び出し音が鳴ってから切れた。悲鳴をあげそうになった心を、右手でグッと抑えた。
インターフォンを鳴らした。予想通り、無反応だった。本当に居ないのかもしれない、という可能性が頭を過ぎる。だからと言って、帰ってしまうもんか。
俺はどうしても今日、天に会いたいんだ。会って話がしたい、気持ちを伝えたい、今日の事を謝りたい。それだけなのに、そんな簡単そうなことなのに。
それだけが、こんなに難しいなんて思わなかった。
右も左も分からないままで、今まで此処まで来てしまった。
行ける合図も何も無いのに、なりふり構わず走っていたんだ。追いつけない姿が、段々と奥へ小さく萎んでいって。気づいた時に取り戻せるか、どうか不安になっていたんだ。
だけど、もしも。天が俺を待っていてくれるのなら、すぐにでも追いつけるように。行けるように。一度だけのチャンスだって、取りこぼさない。
決して消してしまわないように、この手で掴んでみせる。
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