ひとり百物語
飛鋪ヤク
残り九十九話 眼鏡
居酒屋で一人夕飯を食べていた時の話だ。
自分はあまり酒は得意ではないのだが、いわゆる居酒屋飯が好きで、一か月に二、三回は夕飯を食べに行っている。
それは必ず会社帰りの平日で、その日も当然そうだった。
平日の居酒屋はそこまで混雑しているわけでもなく、いつも待つこともなく席に通される。それがテーブル席かカウンターかはその日次第だったが、この日はカウンターに通された。
カウンター席にはちらほらと先人たちがいて、皆一人で黙々と酒を飲んだり自分と同じように食事をしたりしていた。
注文を済ませ、一品目が運ばれてくると、ふと隣の客に目がいった。
五十代くらいだろうか、白髪交じりの黒髪を疎らに生やしたその客は、カウンターの上に置いてある瓶を手にとっては顔に近づけ凝視している。
ひょっとして上手く文字が見えていないのか、と考え、おせっかいかもとは思いながらその客に声をかけた。
「それソースですね」
実のところ躊躇いは少しあったのだが、隣人の顔が綻んだのを見てほっと胸を撫で下ろした。隣人は、やあそうでしたか、ありがとうございます。などと言って軽く頭を下げてきた。
「私ひどい近眼でしてこうしないと見えないんですよ」
「そうなんですね、眼鏡とかは掛けないんですか?」
至極真っ当だと思う自分の疑問に、隣人は無言で鞄をあさった。そしてそこから取り出されたのは年季の入った銀フレームの眼鏡だった。
なんだ持ってるのに変わった人だな、と思ったら、彼はそれを目の前に差し出してきた。見ろ、と言うことだろうか。と考えてその眼鏡を手にする。
「ずっと掛けてた眼鏡だったんですけどね、今朝気付いて掛けられなくなってしまったんですよ」
そう言った隣人の眼鏡は、びっしりとついた小さな人間の手形で白く汚れていた。
それ以来居酒屋には行っていない。
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