酔漢

No.2149

第1話

 会社から家に帰ってきた信夫が、幾度かの切り替えしでひび割れたコンクリートの上にホンダ・フィットをバックで駐車させる。満足できる駐車位置に車体が収まるのとほぼ同時に、不意に太陽の光が彼の眼を刺した。思わず顔の前に手をかざし、信夫は目を細めてフロントウィンドウに切り取られた風景を見る。

 先程信夫に襲い掛かったオレンジ色の太陽は、山の稜線を赤々と染めて没しようというところだった。その残光は、山の手前側に見える田圃にごろごろと転がる土の塊に、複雑な陰影を落とし込む。信夫の家の前の細い道路では、錆だらけの軽トラ一台と肩遅れの軽自動車一台が、速度規制をはるかに下回った速度で走り抜けていく。田圃しかないド田舎のまして幹線でもない道路である。帰宅ラッシュなど起きるはずもなかった。

 田舎というのは良くも悪くもとにかく時間の変化を感じづらいという面がある。信夫の腕時計が示した5時58分という数字の羅列だけが、人間的文化から遠ざかったこの地での社会性を訴えかける数少ない存在であった。

 今一度、大きなため息。

 心の整理をつけ、信夫は助手席に置いたバッグを手に取り、もう片方の手で運転席のドアを開け放つ。エアコンが効いていた車内から家の駐車場に降り立った信夫は、冷たい風に吹き晒された。今は四月初旬だが、東北の春はまだまだ抗いがたい冬の厳しさが残っている。思わず、絆創膏が巻かれた両の掌を擦り、取るに足らない暖を得る。その暖が冷め切らぬうちに、信夫は古めかしい一軒家へと逃げ込む。

 信夫は足早に洗面所へ駆けていき、給湯器のスイッチを入れて、シャワーを浴びた。

 全裸になってから浴室に入るまでは寒さで死にそうになる信夫だったが、頭の上から熱湯を浴びると多少はましに感じた。

 シャワーを浴び終えると、予め洗面所に用意しておいた服を順繰りに身に着けていく。片道三十分のところにあるしまむらで買ってきたシャツに腕を通し、一張羅のGパンを履く。脱衣所の鏡に映った自分を見て信夫は思わず吹き出しそうになった。地味にも程がある服装である。

 これが、妙齢でかつ美形の女性と会いにいくというなら、完全NGな恰好である。

 だが、残念ながら信夫にそんな女性に会いに行く予定が控えているわけもないし、何だったらこの古ぼけた家の周囲十数キロにそんな女性はいない。

 今から信夫が会う相手は幼馴染の泰平で、場所は周辺で唯一の居酒屋である酔いどれで、やることいえばアルコールやつまみ兼夕食を飲み込むだけである。めかしこんでいくだけの必要も労力もないのは明明白白。そんなことをしたら泰平に「これだから元東京在住は!」と茶化されるのがオチだ。

 またしても信夫の中に東京での記憶が去来した。

 信夫はほんの一年前まで、東京で働いていた。

 大学進学時に上京し、そのまま都内の会社に就職した。日本有数の部品メーカーで、一般的にはあまり知名度は無いかもしれないが、その筋の人が聞けば知らぬ者はいない、というポジションの会社だ。

 思えば、メーカーの男性社員というのはとにかく異性との出会いが少なかった。信夫の部署でも、四十代五十代になっても独身というのは、数としてはあまり多くはないがそれでもさして珍しいものでもなかった。だから、信夫の周りの結婚願望の強い独身社員がしょっちゅう合コンを開いたり街コンに連れていったりということが、信夫には懐かしく思い出される。

 その中で信夫が何となく感じたのは、同世代くらいの異性からの目というものは、多かれ少なかれ自分の身だしなみに関して真剣にせしめるものである、ということだ。実際に、当時の信夫は一端の都会人を気取って青山の洋服店に顔を出したりもしたし、出かけるときは男性用の香水を体へ振りかけていた。東京人は住処の最寄り駅がその人のステータスになると聞いて、中目黒への引っ越しも敢行した。靴だって仕事用、カジュアル用、セミフォーマル用、といくつも種類を揃えていた。自分が、男としてどう見られているか・・・当時の信夫は結構気にしていた。

 しかし、色々あって地元に戻って一年。今の状況はどうだ。

 オフの時は二、三種類ほどの服でヘビーローテーションを敢行し、香水はタンスの奥の深い場所へ仕舞い込まれている。服は大体がしまむらで済ますか、少し洒落た服が欲しい時はユニクロまで行って何とか間に合わせる。そんな塩梅だ。

 だが、それは詮無きことだった。こちらに戻ってくる時に異性関係に関してはすっきり清算してきたし、戻ったら戻ったで女性といえば老婆か若くても五十代六十代程度のおばさんばかり。同世代の女性がいないのだから、着飾ったところで何の意味もない。そして、意味のないことには次第にエネルギーを費やさなくなる。当然の成り行きだった。


 また東京の生活を引き合いに出してしまった。

 信夫は思念を振り払うようにぶるぶると頭を振った。そう、もう東京の生活なんてものは過去の遺物。そんなものは今の自分にはもう何も関与しないこと。今の自分は、おめおめと地元へ舞い戻り、いずれ滅び行く片田舎にしがみつくことしか生きていくことができない男。いつも暗示のように繰り返しているが、やはり直らない。信夫の悪い癖であった。


 また、東京のことを思い出してぼんやりとする信夫。急に飲み会のことを思い出し、信夫は時計を見る。そろそろ出発する時間だ。

 今日で何度目かの大きなため息。そして、信夫は酔いどれへ向けて家を出発した。


               *


 村の中で数少ない居酒屋、酔いどれは民家の一部を増築して作られた居酒屋だった。店の中は、カウンター席が七席と座敷席が三つのみのこじんまりとしたものである。とはいえ、アルコールは日本酒からカクテルまで幅広くラインナップしていたし、何より料理も美味いので、信夫と泰平が酒を飲む時はいつも酔いどれと決まっていた。

「へいらっしゃーい」

 店主の親父の威勢のいい掛け声と同時に「酔いどれ」と赤く染め抜かれた暖簾をくぐる。信夫がきょろきょろと店内を見渡すと、カウンター席に座る泰平が信夫に向けて腕を上げた。Tシャツにハーフパンツ、首には地元商店の名前が入ったタオルがぶら下がっている。

「おせぇぞ、信夫」

「悪いな」

 短い言葉でやりとりを済ませ、信夫は泰平の横に座った。

「んじゃあ始めるか。親父さん、生二つよろしくね!あと枝豆と鶏のから揚げね」

 泰平はもう長いことこの店と懇ろな関係が続いているらしい。親父さんは明るい返事と人の良さそうな笑顔を信夫たちに向けてから、慣れた手つきで生ビール二つを二人の前へ運んだ。大きなジョッキに並々と注がれた黄金色のビール・・・ガラスの外側に滴る水滴という視覚的効果も相まって、信夫の喉はごくりと音を鳴らした。

「そんじゃあ、信夫」

 早速ジョッキを持ち、泰平は隣の信夫を見る。

「今日は心ゆくまで飲もうぜ!カンパーイ」

 杯と杯。ガチャリ、と小さく衝突させ、二人は冷えたビールを一気に胃袋へと流し込む。冷たい感触が、食道を伝って下へ下へと流れていく。ビールの嵩が減っていくのと反比例し、信夫ののどの渇きは満たされていく。

「くーっ!たまらんな」

 泰平は唸るように呟いた。事実、信夫も泰平の言とまったく同じ気持ちだった。

「馴染の店、馴染のダチと酒を酌み交わす。まったく楽しいとしかいいようがない」

「そうだな。あとはかわいい女子がいれば文句なしだな」

「それを言ってくれるな信夫。かわいい彼女がいない―――それがこの桐野泰平の泣き所よ」

 もうアルコールがまわっているのだろうか。泰平は掌を額にくっつけ、大袈裟な仕草をしてみせた。

 泰平の実家は昔からの農家である。泰平は長男である。よって泰平は家を継いだ。

あまりにも綺麗な論法が見事にはまってしまった泰平は、当時自身の境遇を嘆いていた。だが、文句ばかり言っていた割には泰平はしっかりと先祖代々の田畑を守り続けている。しかし、泰平の口からいつも深いため息が垂れ流される。理由は女性である。

 学生時代はまぁ人並みに女子との交際関係があった泰平だが、農業を始めてからは女性との縁はまったくないらしい。確かに職業としては女性には人気のない職業だろうし、何より何もない辺鄙な農村に縛られるというのは耐え難い苦痛であろう。だからといって泰平への世間への仕打ちは一体何なのか。ついでにいえば俺への世間の仕打ちは何なのか。そういうことばかり信夫は考える。

「あっ、そういえば信夫。今日ここの店に来るときにさ―――」

 先程注文していた枝豆と鶏の唐揚げをカウンターの向こうから受け取りながら、泰平は口火を切った。

「女の子がバスから降りてきたんだ。まぁ俺は急いでいたから絡まなかったけどさ。なんか山の方に入っていったよ」

「女の子?珍しいね。明日地球でも滅亡するんじゃない?」

「そうなんだよな。この村が始まってから初めてじゃねぇかな。あのバス停で若い女の子が降りたのなんて」

 泰平は運ばれてきた唐揚げを上手そうに頬張る。

 それは言い過ぎだろう。刹那信夫は言い返そうと思ったが、何せ吉幾三のかっとんだ世界観にも負けず劣らずの時代錯誤な世界観で動いているようなド田舎である。あながちそれは本当かもしれない。

 だとしたら、女の子がこの地に降り立ったというのは吃驚すべき事象であった。

「俺は今でもこの目に焼き付いてるぜぇ・・・すっと通った鼻筋に、くりんとした瞳!髪はロングのゆるふわパーマっ!そしてクールビューティを漂わせながらも不案内にきょろきょろとしたときに垣間見る首筋っ!たまらんぜ・・・ありゃあたまらんぜ・・・」

 女の子の話になったからか、泰平はうっとりとした目つきでにやりとした。今までの屈託のない笑いとはまったく180度違い、何やら裏に下心が見えたり隠れたり。

「もしかしてお前。その子と仲良くなろうとか思ってる?」

「馬鹿野郎!そんなことバリッバリに思ってるに決まってんだろ?!お前は無理だと言うのか?え?・・・おやっさん生一つ追加ね!」

 胡乱な目をしたまま首をぶるんと振り、泰平は親父さんに向けて人差し指を高く掲げる。

 ただでさえ饒舌な泰平の口は、アルコールという潤滑油を得てさらに滑らかに駆動する。気付くと泰平の脇には二、三個の空ジョッキがあった。

「水を差すようだけどさ―――」

 信夫は静かに口を開く。

「その子が何の目的でここに来たのかがわからない。観光なのか、あるいはマジで迷ってきたのか。だから俺は何とも言えない」

 可能性を列挙したものの、信夫にはその女の子が観光でもはたまた迷子の迷子の子猫ちゃんであるとも思えなかった。

 まず第一に観光だが、はっきり言って村には観光できる場所がない。村の外れに「三橋夜助の碑」という嘉永年間に百姓一揆を扇動した人のマイナーな石碑があるくらいだし、「栗森の千年杉」という巨大な一本杉もあったにはあったが、数年前に落雷で焼失してしまい、現在は「栗森の千年杉跡」という立て看板しかない。だから、観光面で村外へアピールできるものなど皆無と言えるだろうし、仮にアピールできていたとしても、妙齢の女性がそれを見にやってくるとは思えない代物ばかりである。

 第二の可能性として、道に迷ってこの場所へ来たという仮説だが、これも怪しい。バスの路線を間違えた、といっても、この路線の終着点は隣の西本賀駅のはずである。始発点のある横黒駅には遠く及ばないものの、西本賀駅まで行ってしまえばまだ戻りの十分に電車はあるはず。わざわざこんな辺境の地で下車し、しかもとぼとぼと山の方へ歩いていくというのはあまりに意味がわからない。地理に暗いというのであれば尚更だ。

「じぇっ!まーたお前はそんな夢も希望もねえことを平然と言いやがって」

 さらなるビールを腹に流しいれた泰平は、幾分かボリューム大きめにいちゃもんを付ける。店内では、農家と思しきおじさんたちが二組ほど歓談に花を咲かせていたのだが、杯を酌み交わす手を止め、泰平の方へちらちらと視線を飛ばす。

「おい泰平。ちょっと声でかいぞ」

「おっ、わりぃわりぃ。とにかくだ信夫。俺たちはさぁ、こんな小さなチャンスでも目ざとく拾い上げていかなくちゃあならんのですわい。だって女の子がいねぇんだから。俺たちには何もない、できることが」

 泰平が何故か変な文法で締めたところで、その幻の女の子の話はそこでぶつりと切れてしまった。その代り、「女の子」という流れを汲む形で、信夫と泰平の間では結婚に関する絶望的論議がにわかに持ち上がることとなった。

「俺もお前も彼女っていないじゃん?でもさぁ、やっぱりうちの父ちゃんとか母ちゃんがさ、結婚しろって五月蠅いんだよ。まして俺は長男だからさ。やっぱいずれは生涯の伴侶を見つけて家を継がなきゃとは思ってるんだよ」

「そりゃあな。お前のとこは専業農家だし、圧力はあるだろうね」

 パッと思いついてそのまま口にした信夫。だが、口にしたことによって信夫の心の中に蠢く将来への不安をいたずらに増長させることになってしまった。

 そもそも「女子がいない」という事実自体は、二人の間では憂慮すべき問題であった。こちらへ来てからはまったく女性というものに縁のない信夫だったが、それ以上に泰平は異性交遊に関して欠乏をきたしているらしい。実際に面と向かって言うのは気持ち悪いので墓に入るまで決して言わないつもりであったが、信夫は泰平にはなかなかの男性的魅力を認めていた。身長は180センチくらいで信夫よりも若干高めである。彫りの深い顔は・・・まぁ好みは別れるだろうが、別に特別に醜い顔ではない。何より信夫が羨ましく思っていたのは、冗談をすぐに思いついてはドッカンドッカンと場を盛り上げることができる泰平の明るさだった。

 だが、「田舎暮らしである」「農家の長男」という重苦しい事実が、泰平と世の女の子たちの間に、さながらアルプス山脈のように横たわっている。

「そう、そうなんだよ。しかし、ですよ。この田舎の妙齢の女性なんていないしさ。自力で女の子と出会って結婚するのって、どう考えても無理ゲーじゃね?無理ゲーじゃね?って思うんだよなー!」

「そうだな。無理ゲーだね」

「だろ?そうなんだよ・・・」

 泰平はビールのジョッキを一旦置き、片目を閉じながら頭を掻いた。

「俺さぁ、最近これは確信してるんだよ。マスメディアは俺に嘘を吐いている」

「・・・ほぉ。その心は?」

「女の子なんて世界にはいない。世界が女の子だと嘯いている存在は、アンドロイドかホログラムの類で作られている。しかし、俺のようなかわいそうな男性に絶望を与えぬよう、マスメディアはさもこの世界に女の子がいるような素振りで方便を垂れ流している、と」

 泰平は悦に入ったようで、ビールをぐいっと飲み干す。泰平からそんな大胆発言をのたまわせしめる今の状況に、信夫は一種の戦慄めいたものを感じた。

 女の子、というよりも若い人間が少ない。こんな田舎には働く場所もない。だから、若者のほとんどはどうしてもここを出なくてはならない。だから、それは仕方ないことなのだが、残った者にとっては同年代の人間がいない、というのは結構厳しい現実としてのしかかっていた。何せ、この村では圧倒的に高齢者が多い。つまり、それはマイノリティとして生きていかなくてはならないということになる。ほんの少しでも人並みの生活をしたことがある人ならば、この世の中で少数派として生きていくことの難しさは多かれ少なかれ分かることであろう。

 信夫も薄らとそういうことは感じていたのだが、とはいえ何だか言葉にして泰平に同情することは気恥ずかしい気もした。

「・・・そっか。それで?」

 重く沈んだ気分を紛らわすため、あるいは明確な答えを回避するため信夫はその言葉を使った。

「つまり・・・つまり俺が言いたいのはさ、俺の周りの人間が求めてくる俺と言う人間の理想像と、俺の前に広がっている現実がさ、縦から見ても横から見ても全然釣り合ってねぇんじゃねえかってことなんだよ。昔はお嫁さんなんて努力だとか環境だとかに関係しないでももらえるのが普通だったんだろうけど、今や結婚も市場原理の世界だからさ。中央卸売市場に出ない商品には誰も寄りつかないってわけ。っていうか気付いてすらいねぇんじゃないかな」

 信夫は唐揚げを口に投げ入れ、うーんと唸る。

「そう言ってしまうと身も蓋もない話だが、俺は珍しくお前の意見に共感できる」

「だろ?そこんとこ、じいさんばあさんはそんなこと何も考えてないんだもんなー。しまいには「お前は根性がねぇ。だから嫁の来手がねぇんだ」って怒鳴りつけられる始末だし。あんときはまじで銭貯めて東京で馬車引こうかと思ったわ」

「え、もしかしてそれ吉幾三?確かに、俺たちの悲しみに寄り添ってる珠玉のバラードだよね」

「それ、すごく腹の立つ言い方だな。まぁ実際そうなんだけどさ」

 あー、どっかに女の子いねぇかなー、と言いながら、泰平は両の掌を自分の顔面に押し付けた。

「そうだな・・・そんじゃあいつか街コンにでも行くか?ほれ、横黒市の方でたまにやってんだろ?」

「おっ、それいいね。男前の信夫がいればこっちは百人力だ」

「お前、そんなこと言って、どうせ俺をおだてて今回の飲み代奢らせようとしてねぇか?」

「・・・ちっ、ばれたか」

 問題は多かった。だが、それでも二人は酔いどれのカウンターであははと嗤った。笑うしかなかった。

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