戦乱の歴史は再び

第1話 戦場

 臭気で覆われていた。大地は既に自然たる姿を失い、赤く染まっていた。行き場をなくした幾万の魂は黒煙に炙られていて、怨嗟の声を上げている。

 黒甲冑の男は漆黒の馬にまたがり駆け始めた。死に塗れた砂埃を立て、咆哮を挙げた。獣と聞き違うがごときその咆哮は、大地を揺るがし、未だか細く生命の呻きをあげる兵士達を恐怖で震わせた。

 男は赤く濡れていた。幾度となく切り刻まれ、数多の戦傷を負い、なお毅然と大剣を右腕で握りしめていた。左腕は筋を切られ、今は動くことはない。しかし、それも束の間だろう。

男の細胞は既に再活性を始めていて、血脈が鳴動を始めている。

 全ては殺すため。

 幾万の屍を超え、その男は地上最強の将として君臨していた。

 

「将軍。壊滅的です。王国軍の兵数は五万。騎馬一万は散らせましたが、やはり歩兵の数です。このままでは、時間の問題です」


 漆黒の馬に、臆することなく近づき、耳障りと理解しながら声を張ったこの男もまた、黒甲冑の男と同様に、死線を超えてきていた。


「使い捨てにされるのは性にあわんな」


「最もです。幸いにも敵右翼の練度が著しく低いと見えます。恐らく、急造の兵なのでしょう。我が軍も踊らされました。もっと早く気づければよかったのですが」


 気づいてはいた。ただ、開戦してから数刻、そこを攻めるのは危険だった。敵将も存外侮れない。練度の低い右翼は、戦略的な落ち度であり、戦術的な罠だった。捕獲檻のようなものだ。エサと思い中に入れば、閉じられる。脆いと分かっていれば使い用もあるということだ。優秀な戦術家がいることは、布陣を見ればすぐにわかった。

 ただ、戦況は逐次変化する。大勢は決し、掃討戦に移ろうとしている今、右翼の統率の乱れが顕著になることは自明であった。


「突けるか?たった千の騎兵で」


「一万です。我が部隊は。あなたがそういったのではないですか。シン将軍」

 

騎兵は練度だ。たった千でも、一万の大軍に匹敵し、統率が行き届くことによって、凌駕することもあり得るのだ。精兵千。シン・カシアムの用兵術においては、それ以上の兵を必要としてはいなかった。

 

「鋒矢の陣を敷け、レン。五百で右翼を突く」

 

「御意。残りの五百は」


「敵本陣を突く。できる限り」


「砂埃を立てて、ですね」


 レンは可笑しそうに右手を口元に添えた。最強と謡われるシン・カシアムの用兵が、奇抜な陽動術に長けたものであることは、未だに全土に知れ渡ってはいないことなのだ。

 レンの部隊が動き始める。奇妙な動きだった。蛇のように兵たちが蛇行したかのように見えると、間もなく鋭利な陣を気づきあげていた。レンの用兵術は奇を用い、一度攻勢に転じれば苛烈を極めた。それは紛いもなくシンの系譜を継いでいて、彼の副官としての職務を全うしている。

 うごめく蛇は、巨大な毒鉢の群れと変貌を遂げ、敵の右翼を突き始める。たった五百の兵だったが2万の迫力はあるとシンは思っていた。馬の速さも違う。ただの馬ではない。鍛えあげたのだ。兵と馬は一体となっている。練兵の中で、互いに甘さが見えればぶつかりあった。駄馬は殺しても良いと兵達には伝えてあった。対して、騎手たる兵たちも、冗談などではなく蹴り殺されることもあった。そうして、速く、強くなってきたのがシンの騎馬隊であった。

 レンが雑兵に目もくれず指揮官級の将校の首を得意の槍で突き落とすのを見届けると、シンもまた五百の兵を引き連れて動きだした。

 大地の空気が変わる。

 シンの兵たちは一切の声も発さず、ただ馬の蹄の音を大地に響かせ、土煙を巻き起こし敵本陣に向かっていく。三万の分厚く堅牢な陣を敷き詰めていた重歩兵たちは、明らかに異様を感じとっていた。迎え打とうとした二千の騎兵は、ぶつかって間もなく散り散りになっていた。

 見た目より脆いかもしれない。シンがそう思った時には、もう敵の本陣を目前にとらえていた。


「突っ込むか」


 独り言のように呟いて、シンは剣を振り上げた。ここまで、轡を噛まされていたかのように声を発さずにいた兵たちが、咆哮を上げ始めた。その迫力は敵本陣の中心の部隊を後退させた。その窪みはわずか五百の兵によって大きく広げられていく。

 五万の兵が錯乱していた。レンが攻め立てる右翼の陣は、守りを固めようにも本陣が陥落の危機との伝令が飛び始めたことにより指揮が乱れ、本陣は態勢を立て直そうにも、広がった窪みがあまりに大きすぎている。

 先に崩壊したのは、やはり右翼だった。

 シンは既に敵陣深くに入り込んでいたが、すぐさま翻って広げた窪みを引き返していく。


「あぁ、そうか。やはり食えん男のようだな」

 

 恐らくレンも同様に感じとっているはずだった。これは、すべて仕組まれたことだったのだ。ただ、引き返そうとはシンは思っていなかった。なぜならこれは仕組まれたものであり、罠というわけでもなかったからだ。おそらく、両者の思惑が一致したというだけのことであった。

 それならば犠牲もでなくて良い。

 レンなどは、早々に密集隊形を強固なものとして、敵陣に食い込んでいく。もう、間もなく突破するころだろう。陽動などと考えた自分が馬鹿馬鹿しくもなったが、ここはあっぱれな敵将に花をもたせてやるべきだろう。つまるところ、右翼はシン達を戦場から離脱させるための擬態でしかない。放浪の雇われ兵団が、負け戦と分かって最後の一兵まで戦うなど考えられない。被害が大きくなる前に、早々に逃してしまおうということなのだ。

 これで、この戦いも終わる。国としては敗北だが、シン・カシアムへの畏怖は一層大陸に広まった。シンは自身でそう思っていた。それでよい。畏怖すればするほど、敵は自分と戦い難くなり殺しやすくなる。

 あと、どれくらいの人を斬ろうか。どれほどの国を滅ぼそうか。戦うことでしか生命の鳴動を感じることしかできないのだ。

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