妻(かのじょ)を追いかけて
冷門 風之助
その1 月曜日
◎名匠、キャロル・リード監督に本作を捧げる◎
◇◇◇◇◇◇
俺は生あくびを噛み殺しながら、その家の真向かいに停めたおんぼろのセダンの中から、窓枠に肘を持たせかけて、玄関に向かってじっと目を
朝7時に二人の子供が出て、8時40分に夫がガレージのシャッターを開け、トヨタのクラウン(渋い趣味だ)で出勤遊ばしてから、全く動きらしい動きがない。
『ダンナ、もう11時過ぎだぜ』運転席にいる、ドライバーのジョージがうんざりしたような声で言う。
『今日はもう何もねぇんじゃないの?それにいつまでもこんなところに停めていると
『もう少し粘る』
後部座席の俺はそう言って、身体の位置を少し変えた。
『しっかしよお。ダンナは浮気と離婚は取り扱わないんじゃなかったっけか?いつから宗旨替えしたんだね?』
『宗旨替えなんかしちゃいない』俺はポケットを探り、シガレットケースから取り出したシナモンスティックを口に咥えながら答える。
『先立つものがなければ生きてはゆけん。探偵だってカスミを喰ってるわけじゃないんだからな』
『こないだ随分入ったろ?』
『
俺の言葉にジョージは肩をすくめた。
そうだ。これは
◇◇◇◇
彼が俺の事務所を訪れたのは、今から一週間ほど前の月曜日の午前中のことだ。
彼・・・・名前は・・・・おっと、調査は現在進行形だから、仮名にしておこう。
味も良いというので、なかなかの人気で、おまけに目の付け所も良い。
今度の『新型ナントカウィルス』による自粛を受けて、いち早く、宅配料理のデリバリーサービスを始め、これが大いに受けて、現在でも順調な経営を続けている。
そんなやり手にしては、恰好が平凡だな。俺は思った。
地味なグレーのスーツにワイシャツ、ブルーに白のストライプの入ったネクタイ。
身長はそれほど高くない。いやむしろ低い方だ。
いいところ165センチあるかないかというところだろう。
七三に分けた頭髪。
心持ち丸みを帯びた顔、体形はそれほど太ってはいないが、特に痩せているわけでもない。
細い黒縁の眼鏡。これだけだと、本当にどこにでもいそうなサラリーマンといった感じだ。
『じ、実は妻のことをし、調べてもらいたいのです』
少しどもりながら、彼は懐の財布から一枚の写真を取り出した。
シックな茶色のスーツをを着た女性である。セミロングの髪は幾分白いものは混じっているものの、艶やかで美しい。
顔立ちは・・・・そう、あの”極道の妻”こと、岩下志麻を今少しふっくらさせて若くしたような、そんな女性だった。
名前は
妻とはちょうど8歳離れている。”姉さん女房”ってやつだ。
植木氏は元々東京の出身ではない。
中部地方の、海のない山だらけの県で生まれ、中学まで育った。
本当は高校に行きたかったのだが、彼の家は5人も子供がいて、とてもじゃないが全員を進学させる余裕はなかった。
仕方ない、氏は手に職をつけて親を安心させようと一念発起し、東京でレストランを営んでいた叔父の下を頼って中学卒業と同時に上京。そこで修業をさせて貰うことになった。
住まいは叔父が経営していた店の二階に間借り、つまりは住み込みというやつだ。
こんな場合、誰でもそうなのだが、見習いの仕事は厳しい。
とにかく雑用とあれば何でもやらされる。
彼は不器用だったから、先輩たちにしょっちゅう怒鳴られていたものの、仕事は熱心だった。
そうしたところが認められたんだろう。
三年ほど働いたころから、
『お前、料理学校に行ってこい』とオーナー店主の叔父から言われた。
三年制の料理専門学校に通いながら調理師の資格を取り、また店で働いた。
そんなある日、彼女と出会った。
いや、出会ったというのは正確ではない。二人は元々同じ店で働いていたのだからな。
意識するようになったのは、彼がようやく厨房の中でも認められるようになってからだ。
彼女の名前は岡田聡子・・・・つまりは現在の妻である。
当時29歳。
何でもオーナーの親友の娘だとかで、ウェイトレスのチーフみたいな仕事をしていた。
控えめだがよく気がついて動きもテキパキしている。
ある時、店がはねた後、たまたま二人きりになり、お茶を飲んだ。
仁はもうその頃は店の二階は出て、歩いて5分ほどのアパートで独り暮らしをしていた。
聡子の住まいもその近く、映画の話で気が合い、それから二人で休みの日にはよくデートをするようになった。
当人の説明によれば、生まれは埼玉県。高校卒業後東京に来て、私立の女子短大を卒業し、栄養士の資格を持っている才媛(本人は”大したことないわ”と謙遜していたが)である。
仁は男ばかりの兄弟で育ったから、女性、それも自分より年上の人には何となく憧れを持っていたという。
二人はお互いに意識はしあうようになったものの、男女の関係になるまでには半年の時間を要した。
仕事と修業に明け暮れていた仁にとっては女の子と遊ぶ余裕などなく、聡子との関係は『初体験』であった。
聡子の方はバージンではなかったが、そんなことは彼にとって何の問題にもならなかった。
程なくして同棲をはじめ、そして半年後に正式に婚約、そして結婚をした。
当然ながら金がなかったので、式は限られた友人や親族だけを招待してのささやかなものとなったが、それでも幸せ一杯であった。
結婚してからも二人は叔父の店でしばらく一緒に働いたが、金を貯め、叔父からの許可も貰い、独立して小さな洋食レストランを持った。
本当にささやかな店だった。正直言って不安だらけだったが、そんな時、いつも
”貴方は腕がいいんだから、きっと大丈夫よ”
彼女の言葉に奮起し、彼は店を繁盛させていった。
世田谷にそれほど大きくはないが、土地付きの邸宅も持てた。
幸いにも彼の味を認めてくれた常連客もつき、子供にも恵まれ、何もかも順調でめでたしめでたし・・・・といいたいところだが、そう上手くはゆかない。
最近になって、彼は何だか不安になってきた
”自分はこのまま上手く行くんだろうか?妻は自分との生活に満足してくれているんだろうか?
そんな時、彼は店の従業員の一人から気になる噂を耳にした。
”今日、奥さんを渋谷で見かけましたよ”
しかも一人ではない。
見知らぬ男と一緒だったというのである。
彼が友達と二人で映画を観ての帰り、道玄坂近くを、男と一緒に歩いていたというのである。
”どんな男だった?”
彼が訊ねると、
”さあ、顔までは・・・・でも背の高い、痩せた男でしたね”
どきりとした。
人生で初めての嫌な瞬間である。
妻は当日確かに”友達と会う”といって、朝家を出たのだが、帰ってきたときは別におかしなそぶりも見せなかった。
『乾さんが離婚や不倫の問題を扱わないというのは、紹介してくれた友人から聞いて良く知っています。しかし、私には今他に頼る人間がいないんです。自分で調べられればいいんですけど、そんな勇気もありませんし・・・・お願いします。何とか引き受けてもらえんでしょうか?』
俺は腕と足を組み、彼の目を見つめた。
おどおどしてはいるが、悪意があるようにも思えない。
俺はため息を一つついた。
『分かりました。お引き受けしましょう。料金は通常通りで結構です。まず契約書を確認して、納得できれば署名をお願い致します。早速調査にかかります。』
まあ、仕方がない。今は少しでも金が欲しい時だ。先月の家賃も待ってもらってるくらいだからな。背に腹は代えられん。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
時計が正午を回った。
何度目かの欠伸を噛み殺す。
『やっぱ帰ろうぜ、ダンナ。もう何も起こりゃしない・・・・』ジョージがそう言いかけた時だ。
玄関のドアが開き、一人の女性が顔を出した。
明るいブルーのスーツを身に纏っている。
『彼女だ』俺は呟いた。
間違いない、聡子夫人である。
夫人はガレージまで急ぎ足で降りて行き、中に入る。
まもなくシャッターが開いて、小型の欧州車(フィアットだろう)が発進する。
ハンドルを握っているのは、勿論彼女だ。
俺はカメラを構え、ここで一枚。
『ジョージ、頼むぜ』
『あいよ』彼は答え、目の前をやり過ごしてから少し間を開け、後を追跡し始めた。
だが、その日は何も起こらなかった。
本当だ。
彼女はまず美容院に行き、友達(女性である)に会って食事をし、一緒にショッピングを楽しんで、そして帰ってきた。
買ったのは夫のものと、息子と娘のもので、自分のものは靴下を二足買ったきりだった。
所要時間は合計2時間と20分。
後は何も起こらなかった。
『なんだ、やっぱり何もなかったじゃねぇか』ジョージは自分の予言が当たったので、得意げにそういって鼻をうごめかした。
『ああ、確かにな』
買い物袋を持って階段を上がり、ドアが閉まるまで、俺はじっと彼女の姿を見つめていた。
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