肺呼吸

松風 陽氷

肺呼吸

皆浮いていた。鉛筆も、消しゴムも、ノートも、先生の眼鏡も、黒板消しも、全部全部、浮いていた。僕の頭上を教科書が泳ぐ。掲示板の緑が溶けて、まるでモッツァレラチーズでも作るみたいにしてもちもち千切れる。机の木が繊維に沿ってパラパラと裂けていく。チョークがバンバンと音を立てて爆竹みたく弾け砕けた。先生のネクタイピンはもくもくと銀に輝く煙になった。A子ちゃんの長い黒髪は乱れそめにし。S太くんの胸の名札が旗めいた。歪む視界。鼻に空気が入ってつつーっと奥が痛む。耳にも入って身体がざわつく。気管支まで侵食してくる。がごぼががば。目は染みない。寧ろ透き通って見渡せる。良く見える。あぁ、息が、呼吸が、苦しい、苦しい、侵食は奥で詰まって、僕は死ぬのかもしれない。どうして、どうして、空気が、どうして。A子ちゃんはふわふわと浮きながら黒板消しに近づいて行って、粉々のチョークを指に付けて、シュルルっと計算を解いた。タケシくんは分速五キロで歩く、十分間歩き続ける、すると、タケシくんは五十キロ歩くことになる、丸。さて、タケシくんに科された懲罰は五百キロ歩くことである、ゴールまで何分間掛かるだろうか、百分、丸。素晴らしい、そう言って眼鏡が外れた先生が綺麗に整った丸をしていく。どうして。僕はゼノンの二分法のパラドックスを考えてみる。五百キロの半分は二百五十キロ、二百五十キロの半分は、その半分は、そのまた半分は。そして僕は先生に怒られる。ネクタイが解けた先生から「どこを見ているんだお前は」と怒鳴られる。先生が泳いで僕に近づき、サラサラの髪をむんずと掴み上げ、僕が立ち上がったのを見てから座っていた椅子を蹴飛ばす。教室が揺らぐ程の轟音。がらがらがじゃーーーん。S太くんはこちらを指さして笑う。囃し立てる。椅子は蹴飛ばされ叫びを上げ、水平に直進し、硝子の窓を突き破りどこか遠くへ消えて行った。「ここにお前の席なんてどこにも無いんだよ!」と、先生が言う。「ここにお前の居場所なんてどこにも無いんだよ!」と、誰かが言う。S太くんが笑ってまた囃す。自分の身体が末端から溶けていく。そして、海に溶けだした石油の様に、濁ってふやふやと上に上に浮かんで行く。だんだん、だんだん、減っていく、僕の身体。溶ける、溶ける、ふやふや。腕が無くなった、足も無くなった、ダルマだ。そして、僕は胴体だけになった。歩けない、走れない、殴れない、逃げられない、動けない、動けない。身体を捩って扉へ急ぐ、出なければ、ここから、脱出しなければ、死ぬ、死ぬの、嫌だ。A子ちゃんが素早く扉の鍵を落とす。ガチャン。スピーカーが僕を責める様にチャイムを投げつける。キンコンカンコン。幕が下された。暗転。息つく間もなく、ガランガラン。響く鐘の音は興奮気味で、幕はまたゆっくりと上がる、ステージ上の僕。帰りの会、学級会議、吊し上げ、正論破のタコ殴り。教室と云う水槽。詰まる。固まる。浮いて行く。


毎日、皆と違って、僕は肺呼吸。


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