わたしのいえにはなにもない

芦花公園

第1話

「ほんと何もないわね」

 母さんが乱暴な声で言った。これで何回目だろう。その度にお兄ちゃんが思いっ切り母さんの背もたれを蹴る。父さんは何も言わない。黙って、ほんとに何もない道をひたすら運転している。

 ――おまえの家壊れてるよ。

 性格のねじ曲がった、ブス女の田島佐和にそう言われたっけ。ムカついたので思いっ切り顔にパンチしてやった。鼻血がブーッと吹き出てブスがもっとひどいブスになったし、当然滅茶苦茶怒られたけど、どうせ転校するからどうでもよかった。

 田島の言うことにはいつもムカついてた。だいたい図星だったから。

 母さんはクレイジーだ。母さんはとにかく、コンプの塊だ。よく知らないけど地方の高校でずっと一番だったらしいけど、受験に失敗してKO大学に入れなかった。それで、地方の国立大学を出て、受付嬢になって、そこで出会ったKO大学を出た父さんと結婚した。でもそれで母さんのコンプが解消されたわけじゃなかった。そもそも、母さんは父さんを小ばかにしていた。。T大を出ていなかったからだ。

 ごくふつう、よりはちょっと贅沢な暮らしをしていたと思うんだけど、やっぱり母さんはコンプの塊だから、近所のでかい家に住んでる御子柴さんの奥さん(あたしの幼馴染のお母さんで、読者モデルやってる)と比べちゃって、御子柴さんのご主人はT大出て、出世して、ナンタラカンタラなのにあんたときたら、みたいにずっと言ってた。働いてもないのに。御子柴さんの奥さんは読モもして、ヨガインストラクターもやってて、きちんと家計を助けてるけど、父さんは一馬力で頑張って子供二人と奥さんを養ってた。持ち家じゃないからなんだっていうのか。小さいけどピアノもあったし、ベランダから海も見えて好きだった。本当によく離婚されなかったと思う。母さんみたいな女のこと寄生虫って言うんだと思う。

 で、もっと最悪なのが、その、T大合格みたいなのを、お兄ちゃんに全部押し付けた。母さんは「男の子の幸せはいい大学に入っていい会社に勤めること、女の子の幸せはハイスペ男と結婚すること」っていう強い固定観念があった。だからあたしは可愛いだけでよかったんだけど、お兄ちゃんはそれだけじゃだめだった。

 あたしはお兄ちゃんを尊敬してた。あたしたちは母さんに似て全然カシコイ方じゃなかったのに、すんごく頑張って、とにかく頑張って都内で一番偏差値の高い中高一貫に合格した。友達と遊んでるとこなんて見たことない。お兄ちゃんは頑張った。でも、そこまでだった。

 やっぱりクレイジーな人に育てられたらクレイジーになっちゃうんだと思う。あたしも小さい子とか、幸せそうな犬とか、大っ嫌い。

 あたしは嫌いなだけで行動に移すことはなかったんだけど、お兄ちゃんは学校の近くの家の子供を石で殴った。父さんがお金包んで謝りに行ったから退学とかにはならなかったんだけど、やっぱり駄目になっちゃったみたいなんだ。お兄ちゃんは近所中で悪く言われて、学校でも距離を置かれた。学校に行けなくなって、家に一日中いるようになった。勿論母さんは許さなかったんだけど、小さい頃とは違ったんだ。お兄ちゃんは体がデカかった。いつもみたいに母さんが振り上げた手をお兄ちゃんは軽く振り払った。初めての反抗だった。本当に軽く振り払っただけなのに母さんは倒れた。多分、それで気付いちゃったんだと思う。母さんはすごく弱いってこと。

 暴力暴力暴力、それからは暴力の日々だった。お兄ちゃんは毎日母さんを殴った。母さんは馬鹿だから殴られても将来どうするのとか、こんなになっちゃって恥ずかしいとか、お兄ちゃんをムカつかせるのをやめなくて、やっぱりもっと殴られて、結局入院してもやめなかった。

 でも何度も警察とか来て、とうとう大家さんに出て行けと言われちゃったから、あたしたちは父さんの地元に引っ越すことになった。

「ほんとに何も」

「そろそろだぞ」

 父さんが母さんの言葉を遮って言った。

 確かにさっきまではオオ牧場は緑、って感じだったのにぽつぽつ民家が増えてきた。だいたいは日本家屋だったけど、ひとつだけやたら洋風なでかい家があって目立っていた。ディズニーランドみたいな感じで花壇がぐるっと家の周りを取り囲んでいる。きっと御子柴さんみたいなこの中で一番の金持ちが住んでいるのだろう。

 ところが父さんが車を停めたのがそのでかい家の前だから驚いてしまう。

「まさかここに住むの?」

 そう聞くと父さんは久しぶりに笑顔になった。その笑顔を見ても別に心が癒されるとかはなくて、父さん随分老けたなみたいな、失礼な感想しか浮かばなかった。

「借家だけどな」

「いくら大きくたってあたしは嫌よ。趣味も悪いし。窓も変な位置についてるし、モダン建築だかなんだか知らないけど周りからも浮いてる」

 母さんはつくづく文句しか言わない人だ。確かに窓の位置は変だった。

 でも、元住んでいたところにもこれくらい奇抜な家もあったし、その家なんて壁がビカビカの黄色で目に悪かった(勿論母さんは悪口を毎日言っていた)んだから、この家は壁も上品な白だし他のところはおとぎ話に出てくるお城みたいで窓の位置もむしろ個性的でいいと思った。

「でも家具も揃ってるし中は広いぞ」

 父さんはそう言って車の中のお兄ちゃんに降りるように目配せした。

 お兄ちゃんは父さんやあたしには無駄に反抗したりひどいことしたりはしないので、普通にそのまま降りてくる。うちの車は小さいからお兄ちゃんにはだいぶ窮屈だったんだと思う。ぐぐっと伸びをしている。

「カンゴクトウ」

 お兄ちゃんがぼそっと呟いた。意味は分からない。

 母さんは文句を言うくせにやたら足取り軽く家の中に入って行く。玄関の前に門があるのもロマンチックでいい感じだ。

 家は良い。お兄ちゃんもなんとなく気に入ってる気がする。あとは、田舎の学校にうまくなじめるように頑張らなきゃ、とぼんやり思った。


 家は予想の10倍くらい広くて複雑な構造をしていた。ハリー・ポッターに出てくるホグワーツみたいに螺旋階段がたくさんあって、二階、三階、みたいな区別はなく、それぞれの部屋にその階段が続いていた。玄関を入ってすぐ広いダイニングテーブルがあるのもホグワーツ感が強い。

「なによこれ、疲れるじゃない」

 母さんの文句にはうんざりだがそれはその通りだ。見た目は素敵でも、どこに行くにも階段を登らなきゃいけないのは結構しんどい。

「でもこの家具全部と、冷蔵庫、食器洗い乾燥機、洗濯乾燥機全部無料でこの値段だぞ」

 父さんがスマホの画面を母さんに見せると母さんの目が真ん丸になった。おそらくすごく安いのだろう。

「じ、事故物件とかじゃないでしょうね」

「いや、前に住んでた人が外国人の学者だったらしい。交通事故で亡くなってしまったけれど家の中で死んだというわけではないそうだよ」

「ふうん、まあいいわ、あなたたち、自分の部屋適当に決めていいわよ」

 あたしは当然、一番お風呂場に近い、短い階段の続いたところにある部屋を選ぼうと思ってそっちに足を向けたんだけど、お兄ちゃんはソファーの横の地下に続く階段を下ろうとしている。

 まあ、こんな広い家だし地下室くらいあるかもしれないけど、わざわざ地下室を選ぶあたりがお兄ちゃんらしい。

 その日は疲れていたので荷物を解いてお風呂に入ってすぐ寝てしまった。今は夏休みなんだから整理整頓なんかまた明日にすればいい。

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