一番線

日暮ひねもす

一番線

 家から徒歩約十五分。頭上に一番線と書かれた階段を下れば、日常へと向かうホームの香りがする。朝の雑踏から少し時間を開けた構内は、驚くほど静かだった。まばらに見えるは手元の画面を見つめる私服の女性、耳から流れる音楽に集中する男性、腕時計を気にする会社員。なんてことのない、ありふれた日常の情景だ。ただ、一年前とは違う景色。そうはいっても、僕が高校を卒業し大学生になったことで、今までと少し違う時間で生きているだけの話だが。

 そんなくだらない話に思いを巡らせていると、これもまた一年前には目にすることのなかった光景が映りこむ。一人、ベンチに座り、静かに本を読む少女。少女といっても小学生なんかではなく、制服を着ている女子高校生だ。数日前、いつもと反対側の階段を降り、初めて彼女の存在に気が付いた。立って画面を見る人々が多い中、座って本を読む彼女の佇まいは異色とも呼べるものだった。なにせ、落ち着いて座るほどにこの駅は電車を待つ時間がないのだから。

 彼女は、僕が駅に着く頃には必ず先にいる。そして毎日、黒く肩の下までかかる髪を耳にかけ、側に鞄を置き、伏し目がちに、いつも一人、本を読んでいるのだった。彼女の視線が活字を追い、時折瞬きをし、その度に長い睫毛が耀う。目前に電車が高いブレーキ音を出しながら停車し、ドアが開く。思い立ったかのように、彼女はぱたん、と本を閉じ、鞄にしまい、電車に乗り込んでゆく。僕は慌てて後を追い、隣のドアに滑り込んだ。

 こんな日々を、繰り返している。ちらりと横目で、奥にいる彼女の姿を確認する。窓から射す日の光が彼女を照らす。黒く艶めく髪に光が反射し、様々な色彩を生み出していた。

 会話を交わしたことはない。勿論、彼女が僕を視界に留めることもないだろう。それでも良い。僕にとって彼女の存在は、遠くから見ているくらいで丁度良いのだ。明日は少し、近くの車両に乗ってみようか。


 ある日の話。

 その日は雨が降っていた。いつもの時間に駅に着いたのだが、駅に彼女の姿は無かった。彼女がいつも座っているベンチだけが、ただ雨に打たれていた。なるほど、本を読む場所がないのか。それから僕は、彼女は雨の日にはいないのだと理解した。


 また、ある日の話。

 晴れているのに彼女の姿が見当たらない。手帳の日付を見て、母校の創立記念日がこの時期だったと思い出した。そうだ。彼女は僕の通っていた高校の制服を着ていたのだった。リボンの色から察するに、一つ下、三年生だろう。彼女の浮世離れしたような外見と、休校という単語が噛み合わず、思わず苦笑した。


 そしてまた、ある日の話。

 駅に着くと、何やらいつもより人が多い。高校時代を思い起こす景色である。これだけの人混みでは、彼女を探すことも叶わない。放送が入る。どうやら人身事故で電車が遅延しているようだ。ただ事故が起きたのは大分前の話で、今はダイヤに影響が出ているのみという訳だった。この大勢の人の中に彼女が座って本を読んでいる様子がどうにも思い描けないので、彼女を探すことは諦めた。


 こうして、何日か彼女と会えないことはあるが、殆どの平日、僕は彼女を遠巻きに眺めていたのだった。日常の中のささやかな光。それが彼女の存在だ。帰宅中の電車内で、そんなことを考えていた。家から大学に通っている以上、あの駅から先、目的地にしか変化は起きなかった。僕の生活の中で代わり映えしない部分と、変化した部分。その二点を繋ぐ中間地点、一番線に、彼女が変化をもたらしてくれたのだ。そうだ。僕達には、直接的な関わりなど必要ないのだ。ありきたりな関係で彼女を穢してはならない。なんて勿論、どれもこれも僕の勝手な論理だったが。窓硝子の向こう側、地平線に沈み切る寸前の夕日を眺め、くだらない、と独り言ちた。くだらない。どうせ、声をかける勇気がない言い訳なのに。

 家に帰れば、途端に現実に引き戻された。家族の誰かがつけたであろうテレビから流れるニュース。親の作った夕飯を食べ、友人からの連絡に返事を送る。おおよそ高尚とは程遠い、俗世間の生活だ。全く、何がプラトニックだ。そもそも彼女を外見でしか判断していないのに、精神的も何もあったもんじゃない。そう思うと、僕の先の考えも急に馬鹿馬鹿しく思えてきた。思考だけが一人歩きしている。もうどうでもいいや。これはこれで幸せな生活なんだ。自由に生きているし、金に余裕もあるし、軋轢もない。家に帰れば温かいご飯が用意されていて、寝床もある。これを何不自由ない生活と呼ぶのだろう。現代人らしく俗に染まるのも悪くない。ニュースでも見てやるか。と、点きっぱなしのテレビを注視する。スポーツ選手の快挙に政治家の汚職、芸能人のスキャンダル、悲痛な事故事件。どうにも似たようなジャンルの話題で、枚挙に暇がない。続いて、とアナウンサーが口にしたのは、僕も知っている話題。今朝の遅延の話だった。聞き覚えのある単語が耳に入る。


 僕の最寄駅と、母校の名前だった。


 女子生徒の飛び込み自殺。現場の人間が偶然撮った事故直前の映像。拡散。野次馬。黒色に揺れる長い髪。いじめ。責任問題。あのベンチ。不登校。一番線。聞き覚えのある単語と、ニュース上の単語が入り乱れ、脳の処理速度を超える。思わず、手から茶碗が滑り落ちる。知っている。この場所も、映像に映る存在も。それなのに、知らないことばかりだ。どこかの遠い場所の話じゃないのか。現実なのか。いや、間違いなくこれは、彼女のことだ。どうしようもなく、流れ続けるニュースの情報は彼女の話なのだ。眩む頭を働かせる。ああ、そうだったのか。彼女は。

 どうして気がつかなかったのだろう。彼女が毎日僕より早く駅にいる理由を。おそらく、毎日何本も電車を見送っていたことを。同じ高校に、同じ駅から通っていたのに、高校で一度も彼女を見かけたことがなかったことに。

 嗚呼。彼女は死んでしまった。名も知らぬ彼女は、電車にその身を引き裂かれて、あっさりと。

 鼓動が治まらない。冷や汗が出る。わからない。僕にとっての彼女は何だったのだろう。名前も知らない、抱えているものも知らない彼女を、何だと思っていたのだろう。観賞物としてでも見ていたのか。僕は一度も彼女の視界に入らなかったし、僕だって、本当に彼女のことを知ろうとは思わなかったのだ。勝手な僕の理想の少女をでっち上げていただけだ。知ろうと思えば、変わっただろうか。彼女に話しかければ何か違っただろうか。否、そんなのは結果論だ。僕は傍観者で、彼女の人生の登場人物にはなれなかったのだ。彼女のいない駅で、僕はこれから、どんな日常を送っていくんだろうか。落とした茶碗を再び持ち直し、白米を口に運びながら考えていた。



 家まで徒歩約十五分。大学を卒業し家を出て、数年ぶりにこの駅に降り立った。一番線と書かれた階段を登れば、ふと、そんな出来事が頭に蘇る。結局、段々と忘れてしまったな。あんなに目を引いた筈の彼女の顔も、よく覚えていない。非日常とでも呼ぶべき彼女の死は、忙しない日常に取り込まれ、かき消されてしまった。ああ、あのベンチも老朽化して取り外されたのだっけ。そんな郷愁に近い思い出を噛み締めながら、絶えず変化する日常に足を踏み出していた。

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