前世遍路
真堂 美木 (しんどう みき)
第1話 彼らとの出会い
街中のやや古びた小さなビルの屋上からそれは始まった。
午前2時のいわゆる丑三つ時であるが空気がよどんでいるためか、星は全くと言ってよいほどに輝きを見せず多くの看板のライトのみがうごめいていた。それらの光は埃っぽく妙に人間臭さを漂わせていた。
看護師6年目の私の心の中はカサカサして砂漠みたいに乾いている。肉体的にもかなりきつく毎日が疲労困憊で心身ともにへとへとだ。
もちろん、やりがいもないわけではないが、いかんせん女性の割合がダントツに多い職場環境もそれに拍車をかけている。今日出された来月の勤務表についても師長からの私に対するいじめなのかと勘ぐってしまう。思い起こすと腹立たしいことが次から次へと芋ずる式に出てくる。
マイナス思考の中で「やっぱり、疲れているんだわ」と、つい声を出してしまったが気遣う必要はなかった。今ここには自分以外には誰もいないのだから。遠くに目をやりため息を漏らす。この全身を包みこむ疲労感の底に沈む本当の原因は、5日前の祐樹とのやり取りのせいだとわかっている。きっと祐樹は呆れて嫌気をさしてしまいもう連絡もしてこないのではないか。また大切な人を失ってしまった。思い出すと涙が頬をつたいしょっぱさを感じる。「なんでなんだろう、結婚に踏み切れないのは。祐樹のことはちょっとのんびりなところも含めて全てが愛しいし、ずっと一緒に居たいと思うのに。」
過去にも同じようなことがあった。その時は看護師になりたてだったということもあったのかもしれないけれど、結婚という言葉が怖かった。その時の彼は怒りをにじませ私のもとを去っていった。
祐樹とは3年前の春に参加した研修会で出会った。研修場所の窓から見えた桜は花を散らせた後にみずみずしい柔らかな緑の葉を茂らせていた。私よりも3つ年上の彼は医療機器メーカーからの担当者として機器の説明や参加者からの質問に答えたりしていた。テキパキと仕事をこなすというふうではなく、どちらかというとおっとりとしていた。いつもなら職業柄なのか元来の性格からなのか、スローテンポの人をみると若干のイラつきを覚えるのだけどその時は違った。誠実な人柄がにじみ出ていたこととまあまあの整った顔立ちも後押しして好感が持てた。研修帰りに立ち寄った店で偶然再会しいつしか付き合うようになっていた。
祐樹からプロポーズをされたのはいつもより高級そうな店での食事の帰りだった。もじもじとしていた祐樹は店ではことをなせずに、あろうことか道端でふいに大きな声で「紗季、一緒に人生を歩いてほしい。結婚してくれますか」と叫んだ。一瞬時が止まったようになり通りを歩く人たちの視線が痛かった。本当ならここで良い返事をすればみんなに祝福されてはっぴいえんどだ。だけど結婚という言葉は理由もなくわたしを硬直させてしまい、その様子を見た祐樹の表情も硬く暗いものへと変えてしまった。あの表情は忘れられない。「ごめんなさい。」
屋上にある鉄の柵は所々にペンキが剥げ建物全体の古さを醸し出している。普段なら手を置くのは躊躇するが今は何かにしがみついていないと重力に押しつぶされてしまいそうな気分だ。錆びついた臭いのする柵に上半身をあずけるようにして、何を眺めるでもなく祐樹のことを思いめぐらせどのくらいの時間がたったのだろう。花冷えの夜の冷たい空気を吸い込むと少しだけ現実に戻った気分になる。
見えない星を探しているとふいにこの屋上だけが真っ暗闇に包まれた。ドキッとしたがすぐに視界が戻り、瞬時停電かとほっとする。でも何か違和感がある。何かがおかしい。明るすぎる。「なんでこんなに明るいの。まるで昼間みたい」と小声でつぶやき、鉄柵から手を放し恐る恐る振り返ってみる。
「ど、どういうこと」目を見開いてつい驚嘆の声をあげてしまった。この屋上にあるはずのない光景が目に入ったからだ。なぜ屋上にちゃぶ台があるのか。円形の古めかしいテレビなんかでしか見たことがない、あのいわゆるちゃぶ台返しのちゃぶ台だ。そのちゃぶ台を囲んで5人ほどの人影がある。でも、不思議に恐怖感はなく何が起こっているのかという観察的なまなざしを向けてみるとその中の1人と目が合った。同時に全員の視線を感じた。
「あらぁ、珍しいね。お嬢さんにはあたしたちが見えるんだね」
「何年振りかね。うれしいね」
「まぁ、こっちにおいで」
最初に目が合った白髪の丸顔のお婆さんがにこにこと手招きをする。
頭も体もフリーズ状態だけど考えなくっちゃ。一生懸命に思考回路をつなげていく。金縛りではないし背筋が凍るような嫌な感じでもない。でも、できれば気づかないふりをしてこの場を去ってしまいたい。しかしながら残念なことに出口はお婆さんたちの向こう側だ。どうしたらいいんだろうとその場で棒立ちになっているとまた声がした。
「早くおいでよ。別に悪さはしないからさ」
悪さってどういうこと。憑くっていうことかな、絶対この世の者じゃあないよね。仕方がないと覚悟を決め右足を一歩踏み出す。その足元に伸びる自分の影を見て前方を見やるとそこには本来の影がない。やはりと確信するものの他に逃げる方法はないし、悪寒はないから多分悪いものではないのだろうと、自分の直感を信じて歩み寄る。お婆さんたちはその様子をにこやかに見守っているようだ。
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