天国と地獄

坂本治

天国と地獄


  ◇


 ああ、腹が空いた。

 夜中の十時を回った頃のことである。夏の気配が近づく湿度の高い空気がまとわりついて、足取り重くそこらを行く。

 もう何日も碌に食べていないゆえに体に力は入らない。けれど何か胃袋を満たせるものがないものかと、四つ足に力を込めて夜道を進む。

 不便な田舎だけに人っ子ひとり通らない。暫く茂み沿いに歩いて行くとカサカサと音がする。驚いて身をかがめ息を殺す。

 すると対峙したのは赤茶色の小さなキツネである。同じく身は痩せ、毛もパサパサだ。飢えて山から下りてきたであろう彼も、こちらをじっと見つめて警戒している。鼻をヒクつかせて黒目がゆっくり瞬きする。

 悪いけれど俺も何も持っていないのだと目で訴えると、読み取ったのか彼は茂みを飛び越えて去っていた。彼が来た方を見やるとチラチラした灯りが見える。俺は彼のように元気がなかったので、四つん這いになり茂みの下の方の隙間をくぐりそちらに抜けると、少ない明かりの中にプラットフォームが見えた。あのガタンゴトンと唸る電車の行き着く駅であった。

 俺はふらりと近づいて行った。


   ◇


 長い通勤距離に加え、残業をした為に帰りが随分と遅くなってしまった。

 手首の内側の時計を確認しながら改札を抜ける。家に着いたらあげるクラゲの餌が入ったビニール袋を引っ提げて、南口の階段を駆け下りた。誰もいない長い階段にヒールの音が響く。

 毎日仕事で疲れて帰る我が家に、動物がいるのはとてもいいと改めて感じていた。友人に勧められて飼ったクラゲはあまり場所もとらないし、吠えることもなし、匂いもとくに問題ない。

 見ているだけで、あのヒラヒラした様子に癒されるのだ。

 本当は犬や猫などふわふわで可愛くて、四つ足で飛び回るようなペットに憧れていたけれど、ほぼ一日家を空けている今の生活では到底叶わないことだろう。


   ◇


 元居た所から駅の裏手に出て、茂み沿いに歩いて行くと、前方の遠くに何かの気配がする。舗装されたアスファルトを叩く一定の音。人間の履く硬い靴の音。それから、カサカサ何かが擦れる音が聞こえてくる。


 一方の駅から出てきたそちらも道路に何かを察知する。姿勢の低い影に目を凝らすが、あまりの人通りのなさに少しばかり不安になる。

 先日の休日に観た炭鉱夫の怨霊が出てくる映画を思い出し、こんな暗い道が場面だったと心臓がひとりでにドクンと鳴った。

 汗で張り付くワイシャツ。

 はたと息をとめると、向こうはゆっくりと近づいてくるようで、間隔の短い動物のような息遣いが聞こえてくる。

 と、飛び出したのは小さなキツネであった。子ギツネというよりは痩せてその程度の大きさしかない、大人キツネといったところか。

 そのキツネが喋れたなら、互いに「あっ」と言い合ってしまったことだろう。

 しかし、それはあっという間に尾っぽを翻して暗闇に去って行ってしまった。向こうも驚いていたのが黒目がちの瞳が丸くなっていたのが微かにわかった。

「人里に間違って下りてきてしまったのかしら」驚いたものの、意外な存在に出会えて気分は悪くなく家路への道を再開し始めたのだ。

 

 その暗闇の先である。

 音がしたのは。


 大型犬くらいのサイズのそれはジリジリとこちらへ歩みを進める。なんだ、と目を凝らす。

 そして遂に、駅前公園の外灯がそのありのままの姿を照らし出した。


「アァああああああァ!」


 その姿は愛らしい犬、猫とは似ても似つかぬ人間であった。頬も手足も痩せた男であろう人。

 彼は四つん這いの異様さに加え、何も整えられぬ頭髪とままならない着衣であった。よほどに蓄えも、頼れる当てもなく、住処にも困っている様子。碌に変えていない服はこの季節に合わず暑いのか、中途半端に首だけ通し、あとは最後の審判でのミケランジェロの自画像の皮のごとくぶら下げていた。

 片方は金に困らぬ会社員、だが一方は家もない人、同じ大地に立たせるか。

 わずかに同情と自分への羞恥心が沸いてくる。立ちすみ動かぬ足をとらえたのはそんな思いだ。そっとうかがったその瞳。

 助けを求める哀れなもの、ではなかった。

 手元のビニール袋を見て顔を恐ろしく輝かせると、勢いよく二本の脚で立ち上がった。

 ドクンと大きくまた一回。

 低いといえどヒールのあるかかとが臨戦態勢に入る。クラゲの餌を放り出し、彼女は目と鼻の先の交番まで飛び込んだ。

                           (終わり)

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天国と地獄 坂本治 @skmt1215

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