思別
冬
一
「もう卒業なんですね」と言ったら、
「せんぱいは卒業式のあと予定ありますか」
「ないよ」
「じゃあ会いにいってもいいですか」
佐折せんぱいはうなずいてくれた、はずだった。
「ここで待ってますね」と今座っているベンチを触る。学内にはたくさんのベンチがあるけど、広いフリースペースがある館内、窓際に並んだベンチのうち真ん中の辺りが、私たちにとってのいつもの場所だった。
「約束ですよ」と言って、いつも通り手を振って別れた。
迎えた先輩の卒業式の日、一人で座って待っている。袴を着てくるのだろうか、それともスーツか、いつも通りの格好か、なんて楽しみにしていたこと、どこに行こうかなと考えていたお店のこととか、卒業旅行と称してどこか行きたい気持ちとか、今、ぜんぶ足もとに転がっている。じっとしているのは私くらいで、卒業の格好をした人はほとんどいなくなってしまった。せんぱいは来ていない。時計を見ると、六時。
あの人はよく遅刻するからね、と思う一方、誕生日とかバレンタインとか七夕とか、イベントは何もないどころか大事に楽しんでいたので、卒業の日に二時間以上音沙汰がないのはもう遅刻なんてものではないと思った。いつものところにいますね、と送ったメッセージは届いたのかどうかすらわからない。
何かあったのかと心配したところで、せんぱいの行方を知るすべはなく、諦められないなら待つしかなかった。ボタンを押しても時刻しか表示しないスマートフォンなんかいらない。鞄の中の石を手にとって、ぎうと握りしめた。もうせんぱいを待っているんじゃなくて、諦めがつくのを待っているんだと気がついたけど、私は動かなかった。
空の桃色がだんだん澄んだ水色に溶けていって、ようやくスマホが震えた。そこにはただひとこと「ごめんなさい」と表示されていて、それならまた明日以降とか、遅いですよとか、大丈夫ですかとか、言いたいことがたくさん浮かんだけど、どこまでも途方にくれるような心地が指の力を吸い取ってしまい、平たい文字をじっと見つめることしかできない。
「なんで、来てくれなかったんですか」と声にしても返事はない。もう帰るしかなかった。
電車の中で返信を考える。「いいですよ」とは言えない、よくないから。「いつならお会いできますか」と聞くのは一方的ではないかとためらう。「また次の機会に」と言ってしまえば、もう二度と機会が来ないように思えた。どうすればいいのか。
最後に会ったのは近現代文学研究サークルの発表会の日だった。四年生たちが在学生として参加する最後の日で、バチバチに質疑を受け、苦しみながらひねり出した応答はもちもちの生地のように伸ばされ、また視点が増えたとおもしろくなる反面、めんどくさいと転げ回るような気持ちにもなった。いつものことだ。
ふらっとしているせんぱいも、いつも通りだった。わたしでもちゃんと卒論書けたから大丈夫だよ〜なんて笑っていた。
研究に対して私はそんなに真面目ではなかったけど、それなりに楽しかったから、ちゃんと最後まで残って後輩たちにつなぎたいと思った。先輩方の文章を追って思考をたどって話を聞いているうちに、佐折せんぱいとは文学を介さないでも話していたいと、たわいのない話さえも聞かせてほしいと、ついてまわるようになった。
仲良しになってきた頃、「つるりとした、まるくておさまりのよい石を拾いに、海へ行きたい」と話してくれたことがある。
「なんですかそれ」
「あ、いや……ううん、言ってみただけ」
「ぜったい私も連れていってください」
「え」
私はせんぱいのそういうところを好きなのだ。こんな話、私以外にはしないでほしいと思った、だってせんぱいのすてきなところを他のだれにも気づかれたくない。
冬の海辺は寒かった。防寒着でふくらんだ私たちは好きなように歩き回って、もっと白っぽいのがいいとか、このへこみは気持ちよいが小さすぎるとか、あれこれ言いながら拾っては戻し、拾っては戻した。永遠に見つからなければずっとここにいられる? 私たちもひとつひとつの石になってじっとしているのだ。でも波にさらわれたら離ればなれだし、自分から動くこともできなさそうだから、やっぱりいい。
ちょっと暑くなっちゃった、と頬を赤くして笑っていたせんぱいに手をのばして甲で触れたら、「冷たい」と怒られて、やや間があってから離れた。せんぱいは触れることを好まなかった。手をつなげばやんわりと離れてしまう。だめですか、と聞いたら、恥ずかしいから、と断られた。でも、寝たふりをして寄りかかったときは私が起きるまでじっとしていてくれた。
つるりとした、まるくて、おさまりのよい石の感覚。にぎると、はじめはひいやりとしていて、だんだん手の温度になじんで溶けていく。お守りみたいに持ち歩いていて、どんなに強く握っても壊れない。形も変わらない。
寝る前になっても返信は思いつかなかった。今日が終わってしまう。どんな言葉もぜんぶ薄く感じた。「せんぱい」と入力して、止まる。でも後に何も続かず、苦しくなって送信した。せんぱい、佐折せんぱい。二回、呼びかける。こんな一方的なメッセージを送ってくるなんて、よっぽどなにか、私の想像できないことがあったに違いない。あったのだと思う。そうであってほしい、と布団の中で願いながら目を閉じる。
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