腐った卵が割れたから。
千島令法
記憶
私は君を思い出した。
――
夏の仕事終わり。これから夏本番だというのに、平気で猛暑日を超えてくる。一体これから地球はどうなるのだろうか。
そんなことを思いながら、彼女の家へ向かっていた。今日は久しぶりに彼女の家に遊びに行くのだ。歩きだと駅から三十分もかかるが、可愛い彼女のため。この暑さだが、頑張るしかあるまい。
しかし、暑さのせいで道中で倒れてしまいそうだ。夜だというのに、まだ十分に暑い。
何処か涼しいところはないかと辺りを見渡したが、何もない。私の暮らす田舎は、夜九時を過ぎるとさっさと店を閉じてしまう。
いい加減に都会へ引っ越そうか。この暑さに加えて、不便な生活は耐えられない。彼女に都会で一緒に暮らさないか提案してみようか。
そう思いつつ、フラフラと暗い夜道を進んでいると、怪しく光る自動販売機があった。
ゴトン。
あと五分もあれば着くのだが耐え切れず、「冷たい」と書かれた商品を買ってしまった。
自動販売機の扉を開け、中にある水のペットボトルを取り出す。
だが、その水は冷たくはなかった。全く冷えていないのだ。
これだから田舎は……。
キャップを捻ると、パキパキと音がする。
ごくっ、ごくっ、ごくっ。
本来なら冷えていて、もっと美味しいのだろうが……まあ、十分うまい。
水分補給も済んだし、早く彼女の家に行こう。そして、涼しい部屋でくつろごう。
――
ピンポーン。
彼女のアパートの呼び鈴を鳴らす。
……。
ピンポーン。
出てこない。玄関に寄ってくる気配もない。
ポケットからスマートフォンを取り出して、彼女に電話をかける。
プルルルル……。
「おかけになった電話番号は、電源が入っていないか、電波が届かない場所にあります。しばらく経ってから、おかけ直しください」
プープープー……。
また電池が切れてしまっているのだろうか。彼女はよく充電をし忘れるので、たまにこういうことがある。
玄関の取っ手をひねり手前に引く。
ガチャン。
やっぱり鍵が閉まっている。
面倒くさいなと思いながらも、
右手で鍵を差し込み回すと、小気味いい音と同時に開錠した。
「サヤ? また携帯、充電し忘れてるぞ」
玄関扉を開けながら、そう言い中に入った。
彼女からの返答はない。
視線を下に落とすと、靴が一つもないことに気が付いた。
どうやら留守のようだ。コンビニにでも行っているのだろうか。
鍵を持った右手とは、反対側に
「冷やしとくか」
そう独り言つ。
靴を脱ぎ、玄関そばにある冷蔵庫の戸を開ける。
がらんとした冷蔵庫の中。
あまり料理をしないとは言っていたが、ここまで何もないと将来結婚した時に少し不安になるなと思った。
ほぼ空っぽになっている冷蔵庫には、唯一未開封のままの卵のパックが入っていた。
2000年5月10日。
卵の賞味期限だ。もう一ヶ月以上も前のもの。
「もったいないな……」
また独り言つ。
薄いプラスチックで出来た卵のパックを取り出す。
べりべりべり……。
腐った卵とは、どんな中身をしているもだろうかと、好奇心が
パックを開け切った時だった。
少し引っかかってしまったためか、薄いプラスチックが歪んだ。
転がるように落ちていく一つの卵。
しまったと思った時には、もう捕まえることが出来ないところまで、床のそばにあった。
べちゃ。
殻の割れる軽い音がした。
そして、二つに割れた白の間から、どろっとした黄身が顔を覗かせる。
「やってしまった」
深いため息と一緒に、残念な気持ちになった。
首の後ろをポリポリと掻きながら、辺りに拭き取れそうなものを探す。
そう思い、部屋へ向かい扉を開けた。
部屋の中には、蒸し暑い空気があった。
「エアコンついてないじゃん」
先にリモコンを手に取り、電源ボタンを押す。
ピッ。
あとは勝手に冷えてくれるだろう。
テーブルのそばに鞄を置き、パパパっとティッシュを三枚掴み抜いて、冷蔵庫の前へ戻る。
割れた卵の前まで来て、仕事疲れと気だるさから、一つ呼吸を吐ききってしゃがみこむ。
卵を拭き取ろうと、二つに割れた殻の右を掴み取った。
その時、私は目を奪われた。
卵の黄身が崩れている。
見たことある崩れ方、光景をしているのだ。
デジャブ。そう思った。
おまけに鼻をつんざくような異臭。その臭いも何処か記憶がある。
卵は完全に腐っている。
……。
早く片付けたほうがいい。そう記憶が呼び掛けてきた気がした。
気が逸りながら、ティッシュで落ちた卵を拭き取る。
何度も、何度も、丁寧に拭き取る。
キッチンに置いてあるビニール袋を一つ取って、その中にティッシュと異臭の根源を入れる。
そして、ビニール袋の口を結んで閉め、シンクそばに置く。
これで異臭はしなくなった。だが、素手で拭きとったから、手に臭いがついているだろうと思った。
鼻に指を近づける。すると、臭かった。
吐き気を催しつつ、水道で手を洗う。
洗っても洗っても、臭いは取れない。そんな気がした。
しかし、臭いは取れてくれない。
諦めを付けて、シンク横に置いた腐った卵の入ったビニール袋を
完全に
先ほどのデジャブが思い起こされた。
気になる。その黄身と、
いつ見たのだろうか。
私はそれから五分、いや十分。その場に座り込んで、思い出すことに努めた。
あの黄身の崩れと、硬い殻。
「そうか、君の頭と似ているんだ」
記憶は、掘り起こされた。
私は、君を思い出した。
部屋に戻って、クローゼットの扉を開ける。
そこには、袋に入ったサヤがいた。
「久しぶり」
私は、また独り言つ。
腐った卵が割れたから。 千島令法 @RyobuChijima
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