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 ムジカの寝息だけが、狭い牢に響く夜半。

 まんじりともせずに思考に没頭していたジークは、牢に近付いて来る何者かの気配を察し、寝返りを打つふりをして体勢を変えた。


(……誰だ? 見回りなら、少し前に来たはずなのに)


 取締官にしては、床を叩く長靴の、あの独特な威圧感を欠いている。今この牢に接近している足音は、明らかに人目を忍んでいる者のそれだ。


(こんな夜更けに――密命の依頼か?)


 ムジカに声をかけるべきかどうかを逡巡した刹那、何者かが、牢の手前ではっと、息を呑む気配がした。


 ほとんど無音の、その息遣いを。

 聞いた瞬間、なぜかジークの口から、反射的に零れ落ちた名は。


「――チセ?」

「――っ、……」


 肩を、跳ねさせる気配。姿こそ見えないが、そのなじみ深い反応に相手を確信したジークは、口元をふ、と緩めた。


「よかった。……無事、だったんだな。怪我とか、してないか?」

「……………………どう、して?」

「ん、何でお前だってわかったかって意味か? そりゃわかんだろ、ここ数月ずっと一緒にいたんだから」


 震える声で小さく問われ、こともなげにそう返せば、チセは違うよ、と何かを押し殺すように呟いた。


「わたし、ジークを裏切ったんだよ? なのにどうして、わたしの心配なんかしてるの? それとも、わざと? わたしを懐柔して、ここから出させようとでも考えてる?」


 試すようなチセの言葉に、思わずジークは苦笑を漏らした。くぐもった笑い声が聞こえたのか、チセは怒気を隠そうともせずに、「何がおかしいの?」と、問い質してくる。


「裏切ったも何も――よ。それに、本当に裏切ったやつが、わざわざこんな所まで来るはずないだろ。……俺は俺でどうにかするから、お前に脱走の手引きをしてもらわなくても大丈夫だ。ありがとうな」


「…………え、」


「それより――この前、ひどいこと言っちまってごめんな。あれは俺が全面的に悪かった。……でも、お前が自分を否定するようなことばっかり言うから、腹が立っちまったのは本当だ。どうにかして、お前を奮い立たせたかった。そんなこと、何の言い訳にもならないけど――傷つけてしまって、本当に、すまなかった」


 チセが黙り込んだのをいいことに、どうしても伝えたかったことを、思い切って口に出した。幸いなことに、たどたどしいながらもどうにかジークが本音と謝罪を紡ぎ終えるまで、チセが遮ることはなかった。


「……知ってた、の?」


 しんとした重苦しい沈黙を先に破ったのは、チセの揺れる声だった。

 向こうから見えるはずもないのに、顔を突き合わせているかのように小さく首肯して、ジークは告げる。


「ああ。――最初に路地裏で出逢ったあの時、追手は何人だ、って訊いた俺に、お前はすぐに『三人』だって答えたよな。追われて逃げ惑ってるやつが、敵の正確な数なんて把握できるか? まして相手は、狩りの得意な猫どもだ。獲物に自分たちの人数を悟られるようなへまをするとは思えない。だから、お前は予め追手の人数を知っていたから、即答することができたんだな、と俺は考えた。まあ、それだけだったなら、単なる想像に過ぎなかったかもしれない。……決定的だったのは、首輪だな。無効化していたならともかく、居場所が常に割れてる状態なら、取締官と戦わなければすぐにでも捕まるだろ。戦闘能力を持たないお前が、数月もの間、奴らから逃げ続けられるはずがないんだ」

「じゃあ、最初から、わかってたなら、……どうして、助けてくれたの?」


 なぜ今更そんな当たり前のことを訊くのか、と不思議に思いつつ、ジークはあっさりとその問いに答えた。


「んなもん、決まってるだろ。――お前が本気で『助けて』っつってたからだ。それ以外に理由なんて要るか?」


「……ばか、じゃ、ないの?」


 しばし黙り込んでいたチセが、ようやく振り絞るように押し出した強がりを包み込むように、ジークは続ける。


「あのなあ、俺は修繕師だぞ? お前ほどではないにせよ、これでも俺も、目には自信があるんだぜ。あの必死な目を見りゃ、嘘かどうかくらいはわかるさ。……こいつは、姉貴のことを、本当に大事に想ってるってこともな」


 あの日のチセの表情を、ジークはまだ、鮮明に覚えている。


 怖かったな、もう大丈夫だ、と告げた瞬間に、今にも壊れそうなほど儚く揺れた、琥珀の瞳を。ほんの刹那だけ期待に震えた、あのすがるようなまなざしを。


 ――


 たとえ他の言動が、すべて演技だったとしても。何もかもが、嘘に塗れていたとしても。

 あの言葉だけは、本物だったろうと、ジークは確信を込めて告げた。


「言っただろ、頭と手くらいなら貸すって。お前がどう考えてるかは知らないけど、俺はまだ、できることがあるなら協力したいと思ってる。……だから、一人で何でもかんでも背負い込もうとするな。姉貴のためなら何でもする、なんて悪ぶってたけど――お前、あの時泣き出しそうな顔をしてたの、自分では気付いてなかっただろ?」


 だからこそ、ジークはあの時、チセの本心を悟ったのだ。

 わずかに瞠った琥珀の瞳が、張り裂けそうな哀しみを堪えようと引き結んだ唇が、きつく握り締められた拳が、物語っていた。


 彼女は自ら望んで、ジークを罠に掛けようとしていたのではない、と。

 本当は、誰にも傷ついてほしくなかったのだ、と。

 オルディスの隠れ郷への襲撃は、彼女にとっても、思慮の外で起きた事態だったのだ、と。


 そんな顔をするな、と駆け寄ろうとした瞬間に昏倒させられてしまったが、チセの想いは、確かにジークに伝わっていた。


「だから、そもそも初めから、お前は俺を裏切ってなんていないんだ。……それに俺も、いずれどこかで捕まるだろうとは思ってたからな。真っ当に調べてもじじいの居所はわからないだろうし、正直合流が早まって助かったと思ったくらいだ。――俺だって、お前を利用してこの場所まで辿り着いたんだ。これで、おあいこだろ?」

「……違う、よ」


 決壊寸前の声で、それでも懸命に、チセは虚勢を張り続ける。


「何が違うんだ?」


 続きを促すように静かに呟けば、ぐっと何かを吞み下したらしいチセが、すぐさま反駁してきた。


「あいこな、わけ、ないでしょ……。わたし、ひどいこと、したのに。どうして、そんな、赦すみたいな、こと、言うの……。それに、ジークは一度も、わたしを利用したりなんて、しなかったっ。周りの人間たちは、わたしを道具としてしか扱わなかったのに、ジークだけは、わたしをただの〝チセ〟として、見てくれた。――一度も、わたしを、〝混成種〟とは呼ばなかった。それどころか、わたしに弟子になるか、なんて訊いてきて……この人は、なんて馬鹿なんだろうって、思った」


「おい、ずいぶんな言い草だな……」


「なんて馬鹿で、お人好しで、――やさしいんだろう、って。……本当は、すごく、嬉しかったの。わたしを人間でも混成種でもなく、ただの弟子として、大事にしてくれて。しかも、わたしの正体に、勘づいていたくせに。――あーあ、ジークが、あいつらみたいな屑だったら、よかったのに。そうしたら、……こんなっ、気持ちに……ならなくて、済んだ、のに」


 とうとう堪えきれなくなったらしいチセが、嗚咽交じりにごめんなさい、ごめんなさい、と何度も繰り返すのを、遮るように。


「赦すも何も、謝られるようなことをされた覚えはねえよ。――で、チセ。お前は、どうしてここまで来たんだ?」


 残念ながら、俺たちがここの地下で修繕しているのはお前の姉貴じゃないし、まだ何の消息も掴めてないぞ、と告げると、そっか、とチセは小さく息を吐いた。


「やっぱりね。さっき地下に降りようとしたんだけど、監視が厳重すぎて、一歩も近付けなかったんだ。……ところでジーク、もしかして、混成種のことについて記された日誌なんて、探してないよね?」

「いや、まさしく探してたところだ。――まさか、持ってるのか?」


 思ってもみなかったチセの台詞に、ジークは寝たふりも忘れて危うく起き上がりかけた。


「そのまさか。……あと、もう一つ、ジークに託しておきたい物があって来たんだ。わたし、いつ処分されてもおかしくないし」

「姉貴を見つけるんだろ、縁起でもないこと言うなって。――悪いけど、監視機器カメラで見張られてるから、小さい物なら上手いこと投げ込んでくれ」

「……ああ、あの角にある機械? じゃあ、映りづらい場所に置くね」

「お前、ほんと目がいいのな……」


 しみじみと呟くと、やがて「んしょっ」という小さな掛け声とともに、ぐっすりと寝入っているムジカの衣の下に、何かが勢いよく滑り込んできた。


「ありがとな、後でどうにかして見る。……ところで、お前が託したい物っていったい何なんだ?」

「――見ればわかるよ。大事にしてね?」


 じゃあわたしはそろそろ戻らなくちゃ、と告げたチセが、踵を返そうとする気配を察し、ジークは祈るように、彼女に告げる。


「気をつけて戻れよ。……また、後でな」


 頼むから無事でいろ、という本心が覗かぬよう、必死に押さえつけて。


「うん、待ってる」


 ようやく明るい声を出したチセのかすかな足音が遠ざかるのを、横になったまま見送った。


 やがて完全に気配が絶え、再びしんとした沈黙と闇が、牢の中に広がる。さてチセが託してきた物は何か、と慎重に寝返りを打ったふりをして、ムジカの衣の下に、ジークが手を伸ばそうとしたその時。


「――あれが、お前の弟子か? 弟子を取るなぞ、わしが知らぬ間に随分と立派なご身分になったものじゃの」

「……うるせえよ」


 自分が察したチセの気配に、この師が気付かないはずがない。狸寝入りが上手いのは昔から知っていたが、チセとのやり取りを全て聞かれていたのかと思うと、――どうにも、気恥ずかしかった。


「可愛らしい、まっすぐな性質の子じゃな。どこぞの小憎たらしい弟子とは大違いじゃ」

「師匠がよかったんだろ。どこぞのひねくれじじいとは比べ物にならないくらいな――危ねっ!」


 寝返りを打つふりをして殴りかかってきやがった、と戦慄したジークは、ムジカの衣の下にある目当ての物を手に入れようと、大人しく下手に出ることにした。


「今のはもちろん冗談です、お師匠様。……とっとと寄越してくれませんかね?」

「いやじゃ。わしが先に読む」


 このくそじじい、とジークが額に青筋を浮かべた瞬間、「冗談じゃよ」と喉だけでくく、と笑ったムジカは、ジークが手に取りやすいように体勢を変えた。

 不自然な動きにならないよう、しばし経ってからさらにムジカに近付き、素早く衣の下からチセが投げ入れた物を回収する。


(……冊子の中に、何か、入ってる?)


 指先だけで感触を探り、球形に紐のようなものが繋がっているらしいと見当がついたところで、はて正体は何か、と考え――やがて、はたと思い至る。


(……まさか)


 逸る鼓動を抑えるように、深く息を吐き、掌で隠したそれを、揺らめく燭台が放つ、かすかな光に当てれば。


 ――ちらと、緑色の輝きを、ジークの手の中で、放った。


 チセがジークに、命懸けで託した翠玉の、正体は。


「……エレオノールが誰かから引き継いだ、核結晶コア、だったのか?」


 第Ⅰ種混成種だった彼女エレオノールがチセに託した、首飾りだった。


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