悲しみを悪魔にゆだねて
@monotane
悲しみを悪魔にゆだねて
悪魔との契約の噂。
実際には、そいつが悪魔なのかどうかはわかっていない。悲しみ心が弱っている人の前に現れて契約を迫る存在。だから悪魔と呼ばれている。
悪魔は悲しんでいる人を助けてくれるらしい。悪魔なのに人を助けてくれるというのはどうにも変だけれど。
もちろんタダじゃない。助ける代わりに、その人の「非凡な未来」を奪っていくという。秀でた能力の開花も、努力によって輝く姿も。
それも、契約のチャンスは何度もあるわけじゃない。
二回、だと聞いている。最初はためらっても、次はないと言われると、つい契約してしまうのだとか……
六月になっても、私はクラスの中で一人だった。
授業の連絡事項で話すことはあるし、いじめにあっているわけでもない。日常の雑談だって、たまにする。ただ、"いつも一緒にいる仲の良いだれか"を作ることはできなかった。
朝授業が始まる前の時間も、お昼を食べるのも、教室を移動する時も、帰り道も……他のクラスメイトは複数人で固まっているのに、私だけが一人だ。
嫌われているわけでもない。でも、好かれているわけでもない。
勉強も運動も、ほんのちょっとの得意や苦手はあるけれど、これといって自慢できるようなものはない。容姿にも自信の持てるところはなくて、他のクラスメイトたちのようにスカート丈や上着をアレンジしたりなんてとてもできない。興味のあることもなくて、部活動にも入っていない。
私はなんて、意味のない存在なんだろう。
日頃から考えていたそんなことがあふれてしまったのは、学校行事で校内清掃をした日だった。
特に掃除中に何かがあったわけではなかった。ただいつもと同じように、他の人は仲の良いだれかと、私は一人だった、というだけだ。
掃除用具を片付けに行った時だった。周りに誰もいない用具室の前で、急に自分のみじめさが膨れあがってきた。私はその場に座り込んで泣いた。
「きみを助けてあげよう」
膝を抱えてうつむいていたから、近くに誰かがいることに驚いた。後から思い返せば、足音はしていなかった気がする。
顔を上げると大人の男の人がいた。薄茶色のスーツを着ている。学校の中にいる大人の人と言えば、先生だ。ただ、顔は見たことがない。
私の知らない先生かも……でも、ひどく整った顔立ちで、現実離れしていて、異国の人のようにも見える。
それに今、彼はなんて言っただろう――?
「きみが望むなら、成功も失敗もない、平穏な人生を送ることができるように助けてあげる。ただし、きみの非凡な未来はわたしがもらう。さあ、どうする?」
先生が言うにしては変な言葉だった。それにこれと似た話を、どこかで聞いたことがあった。
「非凡な未来って?」
私は聞き返した。
彼はうっすらとほほ笑んでいる。最初からずっとその表情のままだ。
「将来有名になりたいとか、特定分野で活躍したいとか、たくさんの人から賞賛されたいとか、いろいろあるね」
そこまで聞いて思い出した。クラスメイトたちから聞いた噂。悪魔との契約。
でも、そんなことってあるんだろうか。本当に悪魔なんているのだろうか。
「あなたは悪魔?」
声が震えた。大人の人に失礼なことを言ってしまうという思いと、本当に悪魔なのかもしれないという思いと。
彼は何も答えず、ほほ笑んでいるだけだった。
かえってそれが不気味に思えて、私は反射的に首を振った。
「わたしが誘うのは二回だけ。次があれば、その時が最後――」
そう言うと、男の姿は徐々に透明になって消えてしまった。
悪魔は、悲しみ心が弱っている人の前に現れ契約を迫るという……。
確かに悲しい気持ちにはなっていたが、悪魔に出会った驚きですっかり吹き飛んでしまっていた。
加えて、"非凡な未来"の話をした時に私には思い浮かぶことがひとつあり、ためらいが生まれた。
もちろん、こんな私に他の人より秀でた未来があるなんて思えない。
でも、もしあったとしたら――
だれにも話したことがない趣味ではあるけれど、物語が好きで、自分でも小説を書いて楽しんでいた。もし、もしも――だれかが私の書いた小説を見て、面白いと思ってくれる未来があるのなら――そんな未来があってほしいと、思うことはあった。
もしかしたら、そんな未来があるかもしれない。それなのに、悲しみに振り回されて未来を失うなんて……
そうならなくて、悪魔と契約しなくてよかった。
思い返してみると、私は異質な存在と会話していたのだ。今さら怖くなった。
でも、無事に生きていてよかった。
その後しばらく時間が流れて、悪魔のことは夢で見た幻のようなものだと思い始めていた。
学園祭の時期になった。幸いにも、同じ作業を担当したクラスメイト二人と当日は一緒に見て回ることになった。
学園祭のメインは、複数の部活動による学内パレードらしい。体育館から始まって校内のあちこちを練り歩くのだそうだ。
パレードを眺めるクラスメイト二人の後ろを、私はついて歩く。
こんな時、三人で横に並んで歩けたらもっと会話できるのかもしれない。でも、多くの人が通る場所で横並びになったら邪魔じゃないかとか、並んでも私から話しかけられることなんて何もないとか、いろいろ考えてしまう。結局二人が楽しそうに会話する背中を、私は眺めているだけだ。
そうして歩くうちに、一人がもっと近くで見たいと言って、もう一人も賛成して走り出した。追いかけたが、もともと足も速くなく人を避けて歩くのも苦手なため、私は二人とも見失ってしまった。
一人になって、急に疲れを感じた。休む場所を探す。
人垣の向こうに、植え込みが見えた。木陰もあって、座るのにもちょうどいい大きさの縁石が囲っている。なんとか人垣を抜けて近づき、腰かける。
途端、怒号が飛んできた。
見ると、女子生徒が一人私の前に立ち、怒っている。ひとつ上の学年だ。
なんでも、もうすぐパレードが来る道を横切るとはけしからん、先輩たちへの敬意が足りん、とのことらしい。私が抜けてきた人垣は、パレードを見るために集まった人々だったようだ。
人垣の方を見ると、今まさにパレードが通っていくところだった。
確かに目の前を横切ってしまったようだが、そんなに怒らなくてもいいのに……という気持ちはもちろんあった。でも反論なんてできるわけなくて、"私はうまくできなかったのだ"という気持ちだけが胸の中に残った。
先輩は怒るだけ怒るとすぐにパレードを見に行ってしまった。
私はそのまま少しの間じっと座っていた。
パレードのにぎやかな音と、たくさんの人の声が聞こえる。
でも、私だけ世界から切り取られたかのように、音はずいぶん遠くで鳴っているように聞こえた。
私はゆっくり立ち上がると、人目を避けるようにして教室へと戻った。
教室に人はいなかった。パレードがあるから、みんな外へ出ているのだろう。
私は自分の鞄を手に取る。学園祭は夕方まであるが、どうせ出欠確認は朝しかしない。
――ここから消えたい。
正直、立って歩くのも精いっぱいだった。
地面に倒れて、そのまま死んでしまいたかった。
大人たちは言うだろう。そんなことで思い詰めてはいけない、生きてさえいればいいことがある、などと。
でも私は今悲しいし、悲しい気持ちの止め方がわからないし、今後もずっとこんなに悲しいのかと思うと、生きていくのが嫌になってしまう。
かと言って、私が死んだ時の周りの反応が怖くて、死ぬこともできやしない。
なにもかもが、うまくできない私は、もう消えたほうがいい。
消えてしまう代わりに、私は教室の床に仰向けに横たわった。
床は冷たくて、固くて、自分が死んでしまったかも、という気分に浸るのはちょうどよかった。
目を閉じると、クラスメイトたちの後ろ姿と先輩の怒った顔……そして、みじめに縮こまる自分が思い浮かんだ。過去も未来もずっと、みじめな私のまま――――
「きみを助けてあげよう」
その声が聞こえた時、すでに私は悪魔の存在を思い出しつつあった。人が悲しみに沈むときに、現れる悪魔。
「きみが望むなら、成功も失敗もない、平穏な人生を送ることができるように助けてあげる。ただし、きみの非凡な未来はわたしがもらう。さあ、どうする?」
目を開けると、悪魔はかがんで私の顔をのぞきこんでいた。
整った顔立ち、決して崩れない優しげなほほ笑み、聞き取りやすく嫌みのない声。助けてあげよう、という声が心地良く響く。
その時私は、自分の書いている物語のことを思い浮かべた。もしも、もしも私に非凡な未来があるのなら。あの小説をたくさんの人に見てもらいたい。でも、悪魔と契約すれば、たとえその未来があったとしても、きっとなくなってしまう。
――でも、悪魔と契約すれば。私は悲しみから救われる。
「次はもう、ないんだよね」
かすれた声が出る。泣いていたからかもしれない。
「そう、これが最後」
悪魔が変わらぬ調子で答えた。
よくできているな、などとぼんやり思った。
これを逃したらもう二度と機会はない。
ああ、こんな悲しみを味わうくらいなら。
「お願い、助けて」
その言葉を言うと、悪魔は嬉しそうにほほ笑んだ。とても美しく見えた。
悪魔は私を抱えると教室を出て、駐車場へと運んだ。
車の後部座席に私を乗せると、悪魔自身は運転席に乗り込んだ。
そのまま、私の家がある方へ向かう。
私は何を見るでもなく逃げ出すでもなく、じっとしていた。
悪魔はその間、今後の予定を話してくれる。
生活自体は今までと変わらない。でも、悪魔が少し先の未来を読んで、私が失敗も成功もせず平凡な日々を送れるようサポートしてくれるらしい。
明日の授業で問題を当てられるから、こう答えれば先生の期待通り。友達には、親には、こう声をかけると物事がうまく進む。仲良くなりすぎないように、適切な距離を保てるように。
どうしたらいいかは、私にだけ声が聞こえるようにして、都度教えてくれるらしい。疲れた時には、こうして車で送り迎えもしてくれるのだとか。
つまり私は、ただこの悪魔の言いなりに生きるだけになったのだ。
「私の非凡な未来って、なんだったの?」
説明がひととおり終わって家が見えてきた時、私は悪魔に聞いた。
悪魔はほほ笑むだけで、何も言わなかった。
どんな未来だったのか、私にはもう知るすべがない。
……私は、私の未来から消えてしまったという「非凡」を思って少しだけ泣いた。
悲しみを悪魔にゆだねて @monotane
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