【あたしの】隔てられた世界/【彼女の】変わらぬ世界
兎希メグ
【あたしの】隔てられた世界/【彼女の】変わらぬ世界
「最近さ、なんていうか……前にも増して不便だよね。また来週からしばらく家庭内学習だってー。西地区で感染者増えたからかな」
ため息混じりに茶色のカールした髪を指に絡めながら、リコはマイクを通して透明な樹脂パネル越しに隣の席に話しかける。
友人は不思議そうに首を傾げた。
「そう? 不便かな。私は家に居るのも嫌いじゃないけど」
黒目がちの大きな瞳に薬用リップを塗っただけの薄い桜色の唇。艶々の黒髪を肩口で揃えた日本人形のような可憐な友人は、次の授業の教科書などを揃える為に未だ抗菌加工された椅子に座ったまま。
だが、友人の囁きのような声は、耳元のイヤフォンにより明瞭に聞こえる。
「昔はさ、といってもあたし達が小さな頃だけど……こんな固い壁越しじゃなくって、普通に友達同士すぐ側で話せてたじゃない?」
透明な壁が、リコの伸ばした手を遮る。友人の優しい匂いを嗅いだのはいつの事だろう。小さな彼女の手をじかに引いて遊んだのは。
もう、いつの事か忘れてしまった。
「そう、だったかな」
リコの言葉に、友人のマナは不思議そうな顔をする。
茶髪にミニに改造した制服のリコとくらべ、きっちりと規定通りに膝丈スカートのセーラー服を着ているマナは、いかにも賑やかなリコとは合わない気がするが、しかし二人は幼稚園時代から変わらずに放課後を共にする友人関係を続けていた。
普段、SNSのクラス単位のグループチャットでよく話す友人達も全く違うのに、である。
そんな友人は、当たり前の顔をして言う。
「私には前と変わらないけど。だって世界って、ずっと膜の外にあるものじゃない?」
リコの在籍するクラスは、全ての席が透明なプラスティック樹脂によりブース状にに区切られていた。
それは別に特殊な事ではない。
──ある時、流行のウィルスにより人々は分断された。
それはとても致死性の高く、また感染性までも高いウィルスだった。
特効薬が出来るまで、と、各国は政策を打ち出す。人々は各家に閉じこもり、その災をやり過ごそうとした。
しかし……。
今現在も、物理的接触を家族や同じ家に住む者といった生活ゾーンの単位以外、感染ルートの遮断目的により禁止されている事が、人類がその病の根源を絶てずにいる事を裏付ける証拠となっていた。
今のニホンの人々は外を出歩く時、特殊なフィルターを装備した「セーフスーツ」 と呼ばれる全身スーツを纏う。
どうしても避けられない出社や通学の場合、通勤電車の中のみでなく、自転車やバイクといった移動手段を取っていたとしても、そのスーツは脱げない。例外は、自家用車のみだ。
買い物中や、カフェ、レストランといった休憩中であっても、個別に仕切られた抗菌仕様の「セーフルーム」 と言われる囲いの中以外は、セーフスーツを脱ぐ事を許されない。
人々は徹底して物理的接触を阻まれていた。
リコとマナを隔てているこのクラスルームのブースも、セーフルームに該当する。
「マナ、それ本気で言ってる? こんな窮屈な状態が普通……?」
リコにはマナの言うことが分からない。
だって、昔はゴワゴワする白一辺倒の可愛くないセーフスーツなんてなかったではないか、と。
みんなそれぞれのおしゃれを楽しんで、街はいつだって可愛いに溢れていた。
けれど、今出来るのはウィンドウショッピングのみ。
服を買うのは困難だ。フィッティングなんてとうの昔に廃れた。
理由は単純だ。家族との生活圏以外はセーフスーツが脱げないという理由から。
いっそ、ヴァーチャルショッピング……身体データから作られた自分そっくりのアバターに服データを着せた方が便利だし正確だしで、服を買いに百貨店に向かうなんて事はリコの生活上に存在しない過去の様式となっている。
恋人同士だってじかに触れられない。素顔が見られるのはセーフルームの樹脂越しか、ビデオだから最近は手つなぎやキスより、生活圏を共にする事が先になった。
今は、顔も知らない者同士が結婚していたというお見合いの時代に、ある意味逆行してるんじゃないかとリコは疑っている。いや、チャット越しではあるが存分に時間を共有した後からなので、そこはましなのか。
ちなみに移動中はスーツ内が蒸れるから、化粧だって出来ない。
だから朝の女子高生は決まって、セーフスーツを脱いですぐにこそこそと下を向き手鏡を見ながらBBクリームを顔に塗り、色付きリップを唇に履いて、眉の形を整える事が日課なのではないか。
こんな不便な……あらゆるものがセーフスーツ越しの暮らしとなったというのに、マナはあの幼い頃の開放的世界と変わらないというのだ。
リコは念押しをする。
「ねえ、マナ。本当にマナにとって世界は変わらない? 幼稚園の頃の土遊びや、小学生の頃のプールや、夏のあの熱い太陽を全身に浴びた時の事を思い出しても?」
「うん。私は変わらないよ。むしろ、みんなもやっぱり膜の外にいるんだな、みんなと変わらないんだって分かってすっきりしたぐらい」
ふわふわと笑うマナ。
そこでようやく、リコは気付いた。
「ねえ、マナ。マナに見えている世界って……どんな世界なの?」
マナと……親友とも思っている友と自分が見ている世界の違いについて、リコはようやくそこで考えるに至ったのだ。
「そうだなあ、そこに私はいないの。私はいつもそう、分厚い膜を通して世界を見てるのかな。リコとだけは、時々だけどこのプラスティック以外の膜を感じずにいるけど」
そう言って、どこかいとおしそうにマナは抗菌プラスティックの表面を撫でた。
■■■
リコはその日、家に帰り洗浄室でセーフスーツを脱ぐとすぐに、自室へと駆け込んだ。
いつもなら、蒸れた身体が気持ち悪くてすぐにシャワーを浴びるのに、それも忘れて。
「リコー、あんたシャワーはいいの?」
扉越し、リビングから母の声が聞こえた。
「いいの、ちょっと集中して調べたい事があって!」
リコは学習用に買って貰ったタブレットを充電台から取り上げると、すぐさま検索を始める。
『ナニヲ オ手伝イ シマスカ』
「友達の病気のことが知りたいの……」
『キニナル 事ノ キーワード ヲ 話シテ クダサイ』
『キーワードは、何がいいんだろう。現実から離れる? 膜越し? 病気?」
総当たり的にキーワードをつぶやき、AIアシスタントに当たらせていると、すぐにそれは出た。
『オ探シノ病例 二ツイテ 乖離性障害、または離人・現実感喪失症候群 ガ 該当シマシタ』
「自分が自分でない? 現実感が失われる? なに、これ……マナはいつもこんな事感じてるの? こんな……」
リコには理解ができない。我が強いリコはいつだって強い自己肯定感があるから、幼少期とてガキ大将よろしく理不尽と真っ向から戦い続けたもので、自分を見失う、現実から自分のみが乖離しているというその感覚が、全く掴めないのだ。
「ねえ、ママ! 教えて欲しい事があるの!」
セーラー服のまま、リコはタブレットをつかんでリビングへと飛び込む。
母は大モニターで、昔の洋画の配信を見ていた。
「なあに、どうしたのリコ。そんな血相を変えて」
ゆったりとした話し方の母親に、リコは急きたてられるようタブレットを押しつけた。
「これ! この病気ってどんな感じなんだろう。あたしにはどうしても分からなくって」
母親はタブレットに映る症例を見て、一言「ああ」 と言った。
「そうねえ、ママも学生の頃なら感じた事があるわ。家族の中で、クラスの隅で、自分が透明人間になったみたいな、まるで自分だけ取り残されたみたいな気分……あの頃は、兄と色々あって、気が塞いでいたのよね」
二人掛けのソファの上で、どこか懐かしいような顔をする母親にリコは話しをせがむ。
母親の青春時代は、セーフスーツ着用以前の筈だ。それならばマナの気持ちが分かるかも知れない……。
「どこから話せばいいのかしら……わたしってほら、こんな感じでいつもぼんやりとしているでしょう? 兄は優秀でねえ、誰からも頼られて誰からも好かれて……そんな人が、わたしのぼんやりを怠惰だと思ったのでしょうね。毎日毎晩、懇々と叱られたのよ」
「え、サトルおじさんが?」
母親の実兄であるサトルは、海外に居るのでしばらく会っていないが、幼い頃はよくして貰っていた人だ。
リコも賢く美しいその人を、とても好いていた。
母親はしかし、そんなサトルに虐められていたのだろうか?
「虐め……ではないのだと思うわよ。だっていつも「まともになりなさい」 と、言っていたもの。しゃんとしろ、普通になれと。わたしは鈍くさくて、愚かだから見てられないって。兄の言う通りにするのが一番だと、それ以外はするな、と」
「えー、なにそれ、上から目線! ママに言うこと聞かせたいだけじゃない!」
リコは憤慨した。人を言葉の暴力で無力化した後、いいように支配し下僕化するタイプのリーダー。それは正義感の強いリコが、一番嫌うタイプの人間だったからだ。
「そんなに怒らないの。実際、兄はいつも正しかったもの。でもそれにわたしはついていけなかったのよね……」
母親はぼんやりと遠くをみるような目をする。
ここに居て、ここに居ないかのような。
それは、マナの時折するくせによく似ていてゾッとした。
「ママ!」
リコの悲鳴のような声に、母親はハッとした顔をして答える。
「ああ、ごめんなさいねボーッとして。ええと、話しはどこまで進んでいたかしら? ああ、そうね。兄には大人になってもけっして家から出てはいけないとよく叱られていたわ。お勤めなんてとてもとても出来ないから、その日にもきっと死んでしまうだろう、って。その頃かしら。何だかずっと現実が遠くって……不思議だったわ、いつもひとりぼっちの気分で……まるで自分が透明になってそこに居ないみたいな気持ちになってしまうの」
悲しい事を語るのに、母はずっと笑顔だ。
その様子にリコはぎゅっと胸が詰まる。そう、母はいつでもこんなふうに静かに微笑んでいる人で、人を悪様に言うような人ではないのだ。
例え、それが己の人格を否定し壊し病気に追い込んだ憎い身内であっても、それは変わらないのだろう。
にこにこと笑う母親は、確かに完璧とは言えないかも知れないけれど、けれどそこまで貶められる存在ではない筈だ。
「それ、虐めだと思うなあ……だって、ママは別に悪い事をしてた訳じゃないでしょう。のんびりは性格で、でもその性格自体を否定したらママの居場所がないじゃない。あたしは、ママの性格好きだよ。ちょっとのんびり過ぎて偶に困るけど、でもそれが弱点とは思わない」
リコの母親は放任主義というよりも、子供の自発的行為を拒否しないタイプの養育者だった。
本当に危険な時は、危険な理由を話して子供と一緒に成長するような。
リコの母は愚かなのだろう。それは確かに彼女の一面だ。しかし彼女は子供を一度だって馬鹿にしなかった。一緒に、成長してくれた。
我が強く何でも自分でやりたいリコは、こののんびり屋の母だからこそのびのびと育てたと思っている。
「あたしだってずっと子供じゃない。成長するんだし、ママと一緒に足りない部分を考えて実行出来る。あたしがこの性格なのはママのお陰だと思うよ。だっていつもママはあたしを認めてくれて、あたしの失敗や成功を一緒に喜んでくれる。色々言わないところも、どっしり構えてるみたいで好きだもん。あたしは……」
そう言いながら、頭の中に浮かんだのは友人の顔だ。
友人もまたのんびり屋で少しばかり鈍臭いところがあるものの、そこが愛嬌とリコは思っている。
リコは、壁越しの友人ごと今、母を抱きしめたい気持ちで一杯だった。
「あたしと一緒に──同じ目線で悩んでくれる、ママが好き」
「あらあら、嬉しいわ」
リコは母親の隣に座るとぴったりと横にくっついた。あたたかい、母の安心する匂い。かつては幼いリコにも感じていたおだやかな感覚が、リコの荒ぶる気持ちを抑えてくれる。
「うーん、でもなあ。サトルおじさんって……ちょっと意外だったな。もっと部下を褒めて育てるタイプかと」
「あら、ママがダメだからきつく指導していただけよ、きっと。兄さん、ご友人や仲間を褒めるのは殊の外得意だったもの」
「友人や、仲間?」
「そう。いろんな方の話を聞いたわ。商売で大成功した社長さん、誰もが知る流行曲を流行らせたアイドル、売れっ子漫画家さん……兄が認めた人達は、とても眩しかった」
「ええっと、それって……」
もしかして、とリコは思った。兄でなく大成した見ず知らずの人と、常に母は比べられていた?
それは無茶だろう、と思う。だってそれは、十代ののんびり屋の少女の目指す所でもないし、比べるものでもない筈だ。母は、まだ自分が何をするかを選び取る段階だった頃だろうから。
「そういった、大成した人達と比べてわたしは怠け者だ、って。そう考えると、向上心のとても強い人だったのでしょうね。兄さんにもいい所は一杯あるのよ。わたしとはきっと合わなかっただけで。ねえ、リコは兄さんを好きなままでいてね」
当然、サトルからも話を聞かなければ不平等なので話半分で聞いておくが、しかしそれでも酷くはないか。
未熟で多感な少女を最初から型に押し込めようとするなら、それは害悪でしかない。
だからリコは、こう答えた。
「それはちょっと難しい……かな。ママっ子だもん、あたし」
「あら……困ったわね」
母親は困り顔で、けれどうれしそうにリコを抱きしめた。
リコは思う。
『ママは確かにダメなとこがあるけど、でもこうやって抱きしめてから、声を掛けてあげれば良かったのに。一緒に頑張ろうって思わせてくれれば良かったのだろうに、どうしてサトルおじさんはママから自信を奪って自分の思う理想の型に嵌めてしまおうだなんて思ったんだろう? 人を自分のいいように操るなんて、ダメだ』 と。
そして、新たな疑問が浮かぶ。マナの自信を奪っているのは誰なのだろう。誰が彼女に、多くの人の中で孤独を覚えるようにまで、彼女を病ませてしまったのか……。
リコは決めた。
とりあえず、明日はマナをセーフスーツ越しでいいから抱きしめよう。
そして、マナのいいところを一杯、びっくりするぐらい褒めるのだ。
だってマナは言ったのだ。リコだけがプラスティック以外のフィルターを掛けずに見られると。
──それはきっと、親友だからだと信じたい。
<終>
【あたしの】隔てられた世界/【彼女の】変わらぬ世界 兎希メグ @megusyosetu
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