270_丑

「トイレ、行ってくるね」

もう冷めてしまった鰻重はまだ半分ほど残っている。

母がトイレに行くということは、もう食べないという合図だ。


僕は先に会計を済ませようとレジに向かった。

レジ横のテレビでは、ちょうど有名鰻屋の特集をやっているようだった。

この地域、この道、見たことがある。あの店だ。

私は思わず手が伸び、テレビを消してしまった。


近くで見ていた、蕎麦を啜る中年のおじさんに怒鳴られてしまったが、

僕は必死で頭を下げる。何度も何度も。


「どうした?」


店の奥のトイレから出てきた母を見て、おじさんの声が止まった。


「いや、テレビの音量を上げようと思ったら消してしまったんだ。おじさん、すみませんでした。」

「…ああ、いいよもう」


「支払っておくから、先に外に出ててよ」

「そう、ありがとう」


母が店を出たのを確認した後、店主とおじさんに再度頭を下げ、

テレビを点け直して店を後にした。




病院へ戻る帰り道、母の気分は少し落ち込んでいる。


「あのお店の鰻は味が変わってしまってダメだね。もうじき潰れるよ」


僕はただ、そうだねと言った。


本当は分かっているんじゃないか。

嘘だとバレているんじゃないか。

そんな思いをかき消したかった。


「病院に戻る前に、近くの公園にでも寄ろうか」


僕は母の手を取り、来た道とは違う道へ歩み始めた。


母の握り返す力がいつもと違っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る