かくも生き辛い世の中よ
夢渡
知性体間保安対策部
朝礼と連絡事項を確認し終えると各々が業務を開始する為に持ち場へ移動する。
型に嵌った社会人の営みだが自分にとってはようやく漕ぎつけた社会復帰の第一歩、是が非でも定年までの安定した生活を味合わせて欲しい。
「
先輩事務員の指示にどもり返事でリストを受け取り機材の倉庫へ足早に向かう。大量に並べられた資料群を抜けて新設されたエリアには大量の計測機器、これが自分の仕事道具。
必要な機器を専用のカートへ載せて道中すれ違う職員には出来るだけ視線を合わせる様にして会釈をする。同居人から教わった最低限の処世術だ。
「八番でお待ちのお客様ー」
電子版に表示された番号をそのまま読み上げ自分の
訪れたのは先の事務員で手にはまんまるなシャーレが握られいる。彼女は客席の前にそっとそれを置くとつかつかと自分の持ち場へ戻っていった。
客席に何故と数年前の自分ならばこの時点でいじめ認定し即日辞表も書かずに引きこもりそうではあるが、これは決してそういった類のものではない。置かれたシャーレを手に取ると容器内で培養されつつあるお客様を専用の顕微鏡へと移し覗き込む。
『知性体間保安対策部 福祉課 相談係』
これこそが自分の仕事であり彼らはれっきとした客であり数年前急遽起ち上げられた窓口である。
事の発端は十数年前、飼われていたペットかなんかが急に喋り出した事から始まる。それだけならば世間を賑わせる一大ニュースで研究科たちはこぞってペットに飛びつくだろうが、これが世界同時に多発したからさあ大変。喋る動物たちの情報は瞬く間に拡散されSNSや掲示板はパンク寸前、突然に知的生命体へと昇華させられた動物たちは自身の変化に当惑した。
パニックの最中誰かが喜ばしい事だと謳ったがそう容易い事では無いと誰しもがすぐに理解す事となる。
あらゆるライフラインの機能不全。後に『
『アタラシイハンショクチガホシイ』
彼らは増えた仲間を巧みに移動させ特定のパターンで言語化している。出来立てほやほやの微生物言語マニュアルを片手に解読を終えると顕微鏡に付属されているキーボードでゆっくりと文字を打ち、一定の電気信号を彼らに浴びせて住宅管理課への引継ぎを行う。どの客も口頭での会話が可能ではあるのだが、正しく伝える為には適切な装置を有さねばならない事もある。最近の研究では彼らの知性は体外から生じている可能性が高いらしく言語統一化が示唆されているが、一利用者としてはただただ学者様に頭が上がらない。
微生物のゆっくりとした対応に時間をとられるとあっという間に昼休憩となり、立ち上がると指信号で椅子と机に労いの言葉をかけて先輩職員への引継ぎを済ませる。知性を得た当初こそ混乱した彼らは荒れ狂っていたが、物たちは基本的に大きな損傷をしない限りは物静かで付き合いやすい。他の知性体にも言える事だが生き方は当然、倫理や道徳感も違っているのだろう。そんな事を考えながら中庭のベンチで昼食をとっていると、いつの間にか犬が此方の様子を窺っていた。
「福祉課の方ですよね」
「あ、はいそうですけど、どうされました」
「聞いてくださいよ──あ、失礼お名前は」
「斎藤ですけど」
「聞いてくださいよ斎藤さん。私の彼女が、彼女がッ」
「お、落ち着いて下さい。そういった話は窓口で!」
「手続きに一月もかかるじゃないですか!」
そう、本当にその程度かかる──しかも最短でだ。たかが相談でとお思いだろうがこれには機能不全を防ぐ役割がある。
色々あって人類は新たな隣人と共存する道を選んだまではよかったのだがなにせ数が数。八百万という数が霞んでしまうほどの個の発現は、いかに一種族として地上に君臨する人類といえど管理する事は容易くない。もとより人類間ですら問題が絶えないのだから、他種族の管理まで一手に人が行えば現場の人間はこぞって投身自殺を図るだろう。
そこで人類は各種族に同意を求めた。彼らが人の社会の中で生きる事を望むのか否か、簡単に言えば市民権を希望するかどうかである。希望する者は一市民として権利を認められた上で人からの保護を受ける。
ただしこれには多くのテストとため息のでる量の同意書が必要で、人から見てもあまりに酷な手続き。結果としてそれらを通過して権利を獲得したのは全体の数パーセントに満たない程度で、多くの者が慣れ親しんだ自然界の法へと帰していった。
たかが数パーセントされどそれほどに増えた個の暴力。挙句多種多様の人では無い彼らは各々で全く違った問題を提示するのだから、これを人と同じく事務処理していたのでは窓口をどれだけ増やそうと役所がパンクしてしまうのだ。
だからこその
「そうは言われましても規則ですので──というか休憩中」
「婚約までしていた相手なんです、一昨日には小さいながらも式場を見て回ってドレスも試着して……それなのに今日突然別れましょうって!」
聞く耳持たない失恋犬、こちらとしても例外を作るのは御法度なので聞く耳なんて持ちたくないのだが、いくら引き剥がそうとしても頭をぐいぐい押し付けてくる。
しまいには嗚咽の端から犬特有の鳴き声が漏れはじめ、慌てた自分は両手で口輪作り強引に口を塞いだ。
「ふぁにするんでふか」
「お腹空いてませんか、空いてますよね。こんな時は食べて飲むのが一番ですよ!」
殆ど手のつけていない弁当を失恋犬の眼前へ押し付けて強引にでも鳴くのをやめて貰わねば、バレれば自分の首が跳びかねない。
犬も腹は減っていたのか、口車に乗せられてやむ無くといった様子で弁当箱へ首を突っ込む。器用にばらんやアルミ容器を分けて食べるのを見ていると、今度は自分の腹が鳴く……泣きそうだった。
「いやー人向けの食事は味が濃くていいですな!」
「それは良かった──で、落ち着きましたか?」
「落ち着いたとは?」
このバカもとい失恋犬、本当に食べてさっきまでの事を忘れたらしい。首を捻る姿は愛嬌のある姿だが、今の自分には殺意しか沸いてこない。
だがしばらくしてようやく思い出したのか、耳をピンと立てると先ほどとはうってかわって牙を剥き出しに怒り心頭といった様子で喉を鳴らす。
「そうでした、あの雌犬! 去り際に別の雄の匂いを振り撒いてやがったんです。あの匂いは三丁目のドーベルマンに違いありません。きっと血統なんかに釣られて尻を振ったんですよ!」
「ま、まぁまぁ落ち着いて」
「いいえ許せません、こうなったら徹底抗戦ですよ裁判ですよ。精神的苦痛による慰謝料をふんだくってやりますよ!」
スイッチの切り替わった犬はひとしきり元彼女への悪態をつくと、颯爽と背を向け戦う為の準備へ向かう。
その姿は勇ましく雑種などとは思えない出で立ちだったが、どう気取ったところで負け犬の遠吠えにはかわりない。
とはいえそんな負け犬根性が妙に人間臭く感じたのか、一種の共感を覚え応援したいと思う事も嘘ではない。
「斎藤さんお昼ご馳走さまでした、また来ます」
そんな彼の決意を揺るがさない為にも、明日からは屋内で食べよう──誓って。
人類は共存を選び彼らもまたそれに応え歩み寄ってくれている。おかげで社会不適合者だった自分でも公務員なんて大層な役職を頂けた。
だが何も良い事だけとは限らない。食べ物の殆どは彼らの同意と一定の条件下で頂く事になってしまったし、不法投棄は殺人と同じ。当然互いに好意的ではな者たちはいつ争いを起こすのか分かったものではない。
今でこそ知性体の先導者として人が手綱を握っているが、今回の失恋犬の様にいずれ本当の共存を迫られるだろう。
「なんだ、結局人と変わらないじゃないか」
対話が出来ないからこその円満だったそれらは愛猫家を殺猫者に豹変させるし、文字通り美女と野獣のカップルを生む。
だけどそれは人だけだった頃と一体何が違うというのか……そんな柄でもない事を考えながら帰路についていると、あっという間に家の前までたどり着いていた。
「ただいまー」
ただ一つ、数十年前には問題視されていた幾つかの精神病と、とある死に方は忽然と姿を消した。
隣人は何処にでも居るのだから──
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