第4話 いろんな意味で末期

「藤本さん、おはようございます! 今日も笑顔が素敵ですね!」

「森さん、おはようございます! 朝から日直を頑張って偉いですね!」

「佐々木さん、おはようございます! 駆けっこで一番になって凄いですね!」


 秋津が赴任されてから数週間が経ったある日のこと。騒々しいほど元気な挨拶と賛美の言葉が飛び交う校内は、昼過ぎになっても活気に満ちていた。

 子どもたちは誰かと顔を合わせる度に元気な声で頭を下げると、なにかしら相手の長所を指摘しては褒めるのを繰り返す。別れ際には人差し指と薬指と小指を折り、親指と中指を立てた手を突き出してなにかの合図を送った。


「うへー外で転びまくって手ぇ泥だらけ」

「体育楽しいんだけど汚れるのがなー」


 手洗い場にいた男子二人は手の汚れを水で洗い流しながら雑談すると、そのまま水が出っ放しの蛇口を上に向けて顔を近づける。

 鼻頭を水につけるや、思いっきり鼻孔で水を吸い上げた。

 鼻を通った水はやがて口内に到達すると、男子は頭痛に耐えるようにギュッと目を瞑ったまま舌を突き出し、口に溜まった水をオエッと吐き出す。


「うっ……くぅあ~やっぱ痛ってぇ! 目のとこツーンってきたわ!」

「でも先生が、空気の通り道は埃以外にも、世の中の汚いものにいっぱい触れて体に入る部分だから、いつも綺麗にしないといけないって言ってたしなぁ。なんか粘膜? ってやつも鍛えられて、体にいいみたいだし」

「沁みるのは利いてる証拠だって言ってたしね。傷消毒したら痛いのと同じだって」

「なんか石鹸水で洗うのもいいらしいぜ! 俺試してみよ!」


 いったいどこまで信じているのだろうか。子どもたちはなんの根拠も信憑性もない話を疑いもせず、異常極まりない行為を平然とやってのけた。


「知識の礎に司る民ー、我が母校に昇る誓いの暁ー」

「さーざーれー、いーしーのー! いーわーおーとーなぁーりてぇー!」

「私たちは日本人です! 清く正しい世界に誇る日本国民です!」


 片や他クラスやグループからは誰かの指揮の下合唱が行われており、元気な声量が響いて来る。挙句には、わざわざ己を自国の国民であり、名誉と誇りを持っていることを宣言するという、奇妙な発声まで聞こえてくる始末だ。

 そんな異様な空間の中、決して揺らぐことのない自己を確固たる意志で保っていた一人の少女は、心底気疲れした様子で廊下をふらついていた。


(な、なに、この気持ち悪い空間……? どいつもこいつも変なことしてるし、そこら中から校歌や国歌が聞こえてきてマジきっついんだけど。つーかキモッ!)


 咲はがっくりと肩を落とすと、常軌を逸した周囲の生徒たちを奇異の目で見ながら、自身のクラスへ向かおうとトボトボと歩いていた。

 気が触れている可能性の高い生徒とは距離を取りながら、それでも変な勧誘に遭遇しないよう、常に周囲を警戒しながら、なるべく気配を消して移動する。


「ひっ!」


 と、教室に入ろうとすれば、ドアから数人の生徒がでんぐり返しをしながらぞろぞろと廊下に出て来た。咲は短く悲鳴を上げるとザッと距離を取る。


「も、もう嫌こんな学校……本気で気が狂いそう……っ」

「おはようございマッスル!」

「エアァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!?」


 背後から大声で挨拶をされると咲は奇妙な悲鳴を上げ、驚いて飛び上がった。そのまま逃げるような勢いで前方に突進し、ズドンと音を立てて壁に衝突する。


「咲ちゃんは今日も可愛くてえっちちちち!」

「……ま……真名ぁ……っ」


 ぶつけた顔面を抑えながら、咲は背後にいる真名を恨めしそうに睨みつけた。

 当人の本人はというと、長所なのか褒めているのかよくわからないことを言いながら両手を頬に当て、高揚した様子で一人変な方向にテンションを上げている。その口には棒つきキャンディを咥えていた。


「はぁーんドジっ子咲ちゃんも鈍臭くて滑稽だよぉ!」

「それ全然褒めてないから! てかなんで学校にお菓子持ってきてんの!?」

「そんな怒らないでよーぅ。なんかこの頃咲ちゃんお疲れみたいだったから、真名ちゃんなりに手取り足取り腰取りリードして、体の力抜けよ? って感じで下半身解してあげようと思っただけなのぉ」

「え……。私、そんなに疲れた感じだった……?」


 今まで自覚がなかった咲は、指摘されたことで不意に肩が重くなった気がした。

 初めて自分の体調に気づいたことによる影響なのだろう。そういえばそうかもと虚脱感を覚えて目を前にやるや、すぐ思い当たって嘆息した。


「ああ……確かに疲れてるかもね。ずっとこんな状態だし」


 周りには未だに謎の行動を取ったり合唱を続ける生徒たちがいた。咲はそんな生徒たちに珍獣を見るような目を向けると、ドン引きしながら傍観する。

 そんな咲とは真逆に、真名は楽しげな表情で首を傾げた。


「えーそう? なんかみんな楽しそうにしてていいじゃん。元気な挨拶するとみんな笑顔になるし気分いいよっ。咲ちゃんも一緒に混ざればいいのに」

「絶対にヤダ。私そもそも集団行動とか好きじゃないし、さすがにあそこまで行くと宗教っぽくてキモい。あんな頭のおかしい連中と関わりたくないし無理」

「食わず嫌いなんて勿体ないよ咲ちゃん。一回だけ混ざってみよ? 私も咲ちゃんと遊びたいしさ。ね、一回。一回だけだから一緒にやってみようよ。ねえ咲ちゃんお願い一回! ほんとにこれ一回だけだから。一回だけヤらせて?」

「あ、凄い。これだけ周りが変だと、今の真名の方がまだマシに見える」

「うわーん! 咲ちゃんが虐めるー!」


 普段真名に振り回されている咲が、仕返しとばかりに意地悪を言ったときだった。ガラリと教室のドアが開いて、ビシッとスーツを着こなした男性教師が入ってくる。

 相手の顔を見るなり咲はあからさまに苦々しい表情になった。嫌悪感を抱いている人間の登場に、精神的なグロテスクなものを感じて気分が悪くなる。

 当の本人は何食わぬ顔で教卓に歩いて行く。その後ろには複数の子どもたちを引き連れており、皆一様に教師を慕うように周りを囲んでにこやかな笑みを浮かべていた。

 そんな強烈な存在感を放つ教師の登場に、他の生徒たちは弾かれたようにハッと顔を上げると、条件反射さながらに一斉に教卓へと駆けだし――


「秋津先生! おはようございます!」

「荷物持ちます!」

「ねえねえ聞いて先生! さっきね、校庭で四葉のクローバー見つけて」

「先生大好き!」


 まるで大スターが登場したように異常なほど好意を示しながら群がる生徒たち。すぐに秋津の周りは何十人もの生徒たちに占拠されてしまった。

 しかし咲の目には、単に餌につられた豚が集っているようにしか見えず、家畜と化したクラスメイトたちが評価欲しさに愛嬌を振り撒いているようにしか見えなかった。

 秋津はと言えばご満悦な様子でしたり顔をしており、ときおり「こらこら、引っ張ると歩けないって」などと笑いながら、ノロノロと黒板の前へと移動する。


「うっ、気持悪っ。やっぱ無理だわ」

「おやおや? もしかして咲ちゃん、ああいうノリは苦手な感じで?」


 一人咲がぼそりと呟くと真名が飴を転がしながら詰め寄る。咲は顔を歪めた。


「だってあれ誰がどう見ても変でしょ。あいつ絶対ロリコンじゃん。性格も十分キツいんだけど、やっぱ一番ヤバいのはあいつの授業で……」


 と、咲が話している途中で予冷が鳴る。


「ほらもう予冷鳴ったよ。みんな席に着いて」


 秋津に集っていた者たちは自分たちの慕う教師からそう言われると、パブロフの犬並みの条件反射で席に座る。廊下にいた生徒たちもすでに各教室に戻っていた。

 小学生にしては異様なほど規律が取れた行動もまた、咲にとっては洗脳された軍人的な気持ち悪さを催させる。


「って、なんでここにいるの? あんたこのクラスじゃないでしょ」

「今日はここでお勉強したい気分なのです」


 当然のように隣の席に座る真名に咲がジロリと目を向けると、真名はお得意のぶりっこをして、胸の前で両手をキュッと握った。

 実際気紛れで行動する真名の性格を知っていた咲は、別段怪しむことはなく、代わりに呆れたようにふうと息を吐いた。


「気紛れにもほどがあるでしょ……元々隣にいた人どこやったの?」

「適当に後ろの席とか」


 言いながら真名は振り返りもせず、ざっくりと後方を指差す。


「はー、ったく。ほんといいよね真名は、精神操作で周りの人操りまくって好きなときに自由に動けるんだから、お気楽にいろいろやれて」

「咲ちゃんも自由にやりたいなら真名ちゃんが一肌脱ぎますが」

「服を捲るな。あとそれは遠慮しとく。そっち側になったらいろいろと人として終わりな気がするから」

「ブッフォ! 周囲に馴染めてないくせに今更真人間ぶるとか」

「おい今なんつった! 笑ったかおい!?」

「ほらそこ。もう授業始めるんだから静かにね」


 机をぶっ叩いて咲が声を荒げると、すかさず秋津が叱咤した。

 秋津に対して不快感を抱いていた咲は一際気持ち悪そうに顔を歪めると、心底気分が悪そうに押し黙る。それは軽蔑している相手に取る行動そのものだった。


「はいじゃあこれから授業を始めて行くんですが、その前に。今日は月曜日ということでね、授業を始める前に今週のテーマ、今秋自分はどう頑張っていくかを何人かに発表してもらいたいと思います」


 こちらを一瞥したかと思えば、秋津は大きな声で発破をかけると、自分の方に全員の視線を誘導した。これは秋津が授業を開始するときによく用いる手口だ。


「目標と言っても別に難しく考えないでください。なんでもいいんです。大切なのは実際に口に出すことだから、今日はその練習をしましょう。この目標を口に出すってね、実は物凄く大事なことなんですよ」


 スイッチが入ったのか熱弁は勢いを増していく。

 秋津は饒舌に喋りながら黒板に向き合った。そして顔だけはこちらを見たままチョークを手に取ると、黒板でチョークの先端をカッカッと削るようにぶつけ、大雑把にでかでかと『目標』と板書した。

 だがせっかく書かれた文字は汚く、とてもじゃないが解読に時間がかかる。恐らく読ませるために書いたのではないのだろう。

 しかし生徒たちは違った。秋津の話を真剣に聞いていたクラスメイトたちはノートを机に広げると、急いで黒板に書かれた蛇ののたくったような文字を書き写していく。

 なにより奇妙だったのがそのノート。その表紙は皆一様に同じものを使っており、そこからノートが事前に配られたものであることは容易に想像できた。

 意図的に統一された学習長に咲が奇異の目を向けて忌んでいると、早速生徒たちの様子に気づいた秋津が鋭い指摘を入れる。


「あ、みなさん別に今書いたものはノートに取らなくていいですよ。僕がみなさんに最初に配ったそのノートは、あくまでもみなさんが僕の授業を聞いて、その話の中で必要と思ったものをメモするために渡したものであって、僕が書いたものを書き写すためのものじゃないです。単に書かれたものを写すだけなら必要ありません。なので必要ないと思った人は使わなくて結構ですよ。まあ、書きたいなら書いてもいいんですけど」


 あくまでもにこやかに、軽い口調で注意と弁解をする秋津。

 だが口ではそんなことを言いながらも、子どもたちが呆気に取られながら、それでも一生懸命ノートに記述する姿を見て、秋津は密かにほくそ笑んだ。

 その何気ない反応に、咲もまた嫌悪感を覚える。

 元から笑顔の仮面を被っている人物のため、注意して観察していなければその些細な変化には気づかない。すでに秋津に偏見を持っていた咲だけが即座に見抜けた。


(ほんと胡散臭いなぁ……。てかいつまで無駄話するんだろ?)


 咲が言われた通り白紙のノートにまったくなにも書かぬまま、一丁前にそれらしいことを言う秋津を気持ち悪がっていると、ようやく秋津は黒板に向き直って続きを話す。それももう十分に必要ないと思うのだが。


「国語の授業で音読ってやったことあると思うんだけど、あれをイメージしてくれるといいです。国語以外にも勉強をするときは声に出して読むように教える先生もいると思うんですけど、実は声に出すことは勉強のやる気をアップさせたり、自分の脳に思い込ませることができるんですよ。言葉には力があるんです」


 続けて最初に書いた『目標』の文字をグルグルと丸で囲むと、その横に『音読』や『言葉には力がある』などの言葉をつけ加えた。

 相変わらず汚い文字を必死に書き写す生徒たち。実際に頭に入っているかは別として。


「もうみんなもね、他のクラスや先生たちから僕が挨拶を大切にしてるって話を聞いてるんじゃないかな。さっきも廊下でね、みんな元気に挨拶や相手を褒めてましたけど。あれは自分の脳にかけるお呪いみたいなもので、今みんなの持ってる力を何十倍にも何百倍にも引き出すことができるんです。こういう脳の性質を心理学や脳科学ではプラシーボ効果とかピグマリオンミーティングいろいろ言われてますけど、これは実際に証明されているんですね。だからそれをね、みんなにも実感してほしいってことで今週のテーマを発表してもらいたいと思います。今出せる全力を先生にぶつけてください」


 怪しい専門用語を用いた長い説明の末、ようやく本題に入った。

 だがそれも、やっと前置きが終わっただけで入口に立っておらず、授業前のスピーチがこれから始まるという事実に咲は打ち震える。地獄はこれからだった。

 しかもすぐに発表に移るわけじゃない。ここでまた秋津の悪い癖が出る。


「そうね、じゃあ……今回は初めてということで、自分の目標を5個言ってみようか」


 すぐに本題に入ればいいものを、秋津はいらぬことを言って咲の神経を逆なでするようなことを提案した。これには他の生徒たちも動揺を見せる。


「あ、少ない? なら10個にしてもいいよ?」


 秋津なりにユーモアを利かせたつもりなのだろう。だがその冗談では流せないほど寒くて致命的なギャグセンスは、咲の神経を逆撫でするだけだった。

 そんな咲の怒りとは裏腹に、周囲はクスクスと小さく笑っていた。半分は愛想笑いみたいなものだったが、その微妙な空気感が憎たらしくも場を和ませてしまう。

 これも秋津のテクニックの一つなのか。ストレスを募らせる咲とは反対に周囲の緊張が解けてしまうと、再び秋津は鬱陶しいほど熱く情熱的に語る。


「ここでできないとか自分には無理とか思っている人が何人かいると思うんですけど。でもそういう気持ちや思いを口に出してしまうと、今度はその無理だってことが現実になっちゃうんですよ。さっきも僕、言葉には力があるって言いましたよね? そうなんです。できないって言うからできなくなってしまうんです。だからむしろここで『自分にはできる!』『絶対目標を叶えてやるぞ!』って自分に何度も言い聞かせることで潜在意識に刷り込ませて、自分の夢や目標が実現できるようになるんですよ」

(まだ続くか。早く授業始めてよ)

「まあといってもね、最初はどうしても緊張してしまうと思うので、今回は特別な方法を使って目標宣言をしてもらいたいと思います」


 言いながら秋津は教卓のすぐ隣に設置してあった教師用の事務机に移動すると、引き出しから袋を取り出す。自然生徒たちの視線は袋へと釘づけになった。

 この時点で事務机の前に席を構えた生徒たちは、袋の中から微かに香る独特な匂いに気づいていただろう。そんな疑心暗鬼の視線の中、秋津は袋の中身を晒す。

 現れたのは、よく薬品の入れ物などで用いられる、大きな茶色い瓶だった。

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