第3話 言ってはいけない一言

 あまりに強く閉められた反動でドアが半開きになると、ハムスターは弾かれたように宙に跳ねて、ぼとりと床に落ちた。

 いったい、どういう挟まり方をすればそうなるのか。ハムスターは折れた全身の骨ごと体が歪な形に曲がると、裂けた腹からドクドクと血が流れ出していた。

 全身は大きな痣で覆われて変色し、吐血した口元とお尻の両方から贓物がはみ出している。目玉も片方が飛び出し、その瞳は内出血で赤く染まっていた。

 即死じゃなかったのだろう。ハムスターは今なお床で小さく痙攣しながら、鼻をすんすんと鳴らし、折れ曲がった片足をピクピクさせている。


「……あれ? え、ハムスター? なんでここに?」


 他の生徒たちが呆然とする中、野々花は正気に戻ると、怯えながら床に落ちたハムスターを見て首を傾げた。

 が、その疑問は、狂ったような絶叫によって掻き消される。


「うわあああぁあぁああああぁあぁあああぁあああぁぁあああぁあぁぁぁぁ!!」


 永井は泣き叫ぶと、生徒たちを乱暴に押し退けてハムスターに駆け寄った。

 跪くと戸惑いながらハムスターに手を伸ばし、指先を小刻みに戦慄かせる。


「なんで……やだ、やだやだなんで!? どうしよう血が、ねえティッシュ! 誰かティッシュ持ってきて! 早くねえ! え? え? どうしよう……っ」


 永井は混乱しながら叫ぶと、ようやくハムスターを手に取り、はみ出てしまった腸を戻そうと、きゅっと押し戻した。

 だが凄まじい圧迫で内側から破裂した傷口は、弁のような構造となり、指で押した程度ではどうしても仕舞いきれない。


「はいこれ! 持って来たぞっ」


 すぐに友人がティッシュを持ってきてくれた。永井は一気に何枚も掴み取ると、傷口の出血をすべて吸い取るように、流れ続ける血液を拭き続ける。

 だが残念なことに、先にハムスターの方が力尽きてしまう。

 先程まで痙攣していた足はだらんとし、完全に脱力して呼吸も止まっていた。


「う、うぅ……うえええぇぇえぇぇえええっ!」


 ハムスターが息絶えたことを確認すると、永井は泣き崩れた。

 血だらけの両手でボロボロ零れる涙を拭うと、顔を赤く染めながら咽ぶ。


「死んじゃったあああぁぁぁ……っ。な、なんでぇ!? うえっ、えぇぇえええぇぇっ……」


 目の前で小さな命が壮絶な死を遂げた光景は、生徒たちを絶句させた。

 そして先程までクラス中を急き立てるほどに大切に思っていたペットを亡くした永井に同情し、重い沈黙が流れる。

 そんなお通夜ムードについて行けず、呆然とする一人を除いて。


「え……。な、なに? どういうこと?」


 教室を離れていた野々花だけが、状況が掴めず困惑していた。

 すると野々花の心境に気づいた女子たちが、真っ青な顔で口を開く。


「野々花ちゃん。そのハムスター、永井君の大切なペットだったんだよ……?」

「そ、そうなの?」

「野々花ちゃん、早く永井君に謝った方がいいんじゃない?」

「え……は、はああああっ!? なんで私が謝るの!? 意味わかんないッ!!」


 謝罪を促されると、野々花は不本意とばかりに大声を上げた。

 あまりに驚愕に満ちた声は周りを凍りつかせる。この状況で少しも物怖じせず、罪悪感の湧かない野々花に、さすがの友人たちも唖然とした。


「なんでって……だって野々花ちゃんが思いっきりドアを閉めたから、ハムスターが……」

「そんなの知らない! 私悪くないし!」

「永井君の大切なペットだったんだよ?」

「だからなに? だってネズミだと思ったんだもんっ。しょうがないじゃん!」


 平常なら、例え自分が悪いと思っていなくとも、面目上は謝罪の一つでもするのが少女たちの常識だった。

 しかし野々花は今、それを覆さんとばかりに拒否する。

 そして野々花は自分を擁護するため、その矛先を被害者――永井へと向けた。


「だいたい、なんで学校にペット持ってきてんの? それでこんなことになって、自業自得だよね。永井君が悪いじゃん。そのくらい大切じゃなかったってことでしょ?」

「勝手にランドセルの中に入ってたんだよ!!」

「……っ!」


 物凄い剣幕にクラス内がピリついた。

 そして誰よりも、野々花が一番びくりと震え上がる。

 永井は怒りと憎しみに満ちた顔を野々花に向けた。その双眸は、目元を擦った際についたハムスターの血痕で、恐ろしい汚れ方をしている。

 そしてお椀型にされた手の中に、歪な形をした血だらけのハムスターの死骸を乗せながら、野々花をきっと睨みつけた。


「お前が殺したんだ……人殺しと同じだ。絶対に許さねーぞ……ッ!」

「ひ……っ」


 殺意に満ちた眼光に野々花は尻込みする。

 だが、まだ成熟しきっていない、小さな見栄とプライドで固められた子どもの精神は、沸々と湧き上がる反感を抑えられない。

 そして野々花は、決して言ってはいけない一言を放ってしまう。


「なによ、たかがネズミ一匹死んだくらいで騒いじゃって。だったらまた新しいの飼えばいいじゃんっ。そういう生き物、お金出せばいくらでも買えるんでしょ?」

「ふっ――ざけんなあああああああぁぁぁぁぁぁッ!!」


 その言葉に、ついに永井は怒髪天を衝いた。

 永井は我を忘れてハムスターを落とすと、歯を剥き出して癇癪を起こす。

 怒りで耳まで真っ赤にすると、怒鳴りながら野々花に掴みかかった。


「きゃあああああ!?」

「ヤバいぞ、永井がキレた! 誰か早く先生呼びに行け!」

「すげーマジ切れじゃん! あっははは、みんな離れろ! 巻き込まれるぞ!」

「おいやめろって永井っ、落ち着け! 暴力はマズいって!」

「やっちまえ永井! いけ! 殴れ!」

「うわああああああああああああああああ!」


 悲鳴を上げる者、状況を楽しむ者、騒ぐ者、永井を止めようと掴みかかる者、わざと煽って場を盛り上げる者、急いで教室を飛び出して担任を呼びに行く者。

 各々がそれぞれの反応を示す中、タガが外れた永井は野々花の髪の毛を引っ張ってその場に転ばせる。それからめちゃくちゃに叩くと、爪を立てて野々花を引っ掻き回した。

 野々花は頭皮や体中の痛みに喚き散らすと、自らも永井を殴り返しながら、どうにか距離を取ろうと涙目で必死に抵抗する。


「痛い痛い、痛いって! 髪引っ張らないでよ、やめてってば! わかった弁償すればいいんでしょ!? それいくらだったのっ? 同じの買うから言ってよ!」

「ふざけんな! 弁償とかじゃねーんだよッ! 同じのなんかないんだ! 俺の家族を返せよ、この動物殺し! 死んで償え! お前なんか殺してやる! 死ね死ねっ、死ねえぇぇ!」


 命を軽んじる野々花の発言は火に油を注ぎ、更に永井をヒートアップさせる。

 最早誰にも手をつけられず、事態が悪化の一途を辿る、そのときだった。


「沙織先生呼んできた! 先生早く、こっち!」

「これはなんの騒ぎ!? 二人ともやめなさい!」


 生徒と一緒に、沙織と呼ばれた担任教師の女性が駆け込んできた。

 沙織は取っ組み合いになっている永井と野々花を見るや、急いで間に入る。


「永井君やめなさい! 殴っちゃダメ!」

「うっせー離せクソババア! 触るんじゃねぇよ!」

「……っ!?」


 沙織に羽交い絞めにされると、永井は振り返って怒鳴り散らした。

 その双眸を捉えた瞬間、沙織はぞっとして硬直する。

 永井の顔はハムスターの鮮血に塗れ、両手は真っ赤に染まっていた。

 次いで、視界の端で転がっているハムスターの死骸を見つける。

 そのあまりにも無残で恐ろしい惨状に、沙織は息を呑んで絶句した。

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