ネルドリップ
モリナガ チヨコ
第1話 珈琲屋
武蔵境から是政に伸びる電車に乗って1つ目の駅に降り立つと、小さな商店街がある。
時代が止まったような商店街の始まりにそれはあった。古いアパートの一階に枠だけ残されたようなガランとした空間があり昼間は通り過ぎてしまうほど目立たない。しかし、陽の傾くころになると、ガラスの向こうに見えた大きな横倒しの板が実はカウンターだったことに気づく。
カウンターの中にはニット帽をかぶった細身の若い男の人がひとり。陽が落ちて暗くなる頃に店内に明かりが灯る。『灯る』というのがしっくりくるほどのあかりの下に浮かぶのは、行儀良く間隔を開けて並ぶ5脚の椅子。
どうもこの店が気になり、横目で見ながら通り過ぎることを繰り返し。
とうとうその重い扉を開ける日が訪れた。珍しくまだ誰も座っていない店内を覗いていると、中から扉が開き店主が人懐っこいような笑顔で応じてくれたので、「今、座れますか?」と聞いてみた。靴を脱いで板の間へ上がりこむ。店に一歩入っただけで何故だか空気が違う。すべてのものに、丁寧に接しなければいけないような不思議な緊張感があるのだ。
お好きな席へ。と促され、手前から2番目の席に座った。
店内をぐるり見回すと、奥には古い硝子戸があり、その向こうはアパートといった感じの部屋があった。
「珈琲屋をやるために、ほとんどセルフビルドで改装したんです」「へぇ〜」と返しながら小さなメニューの冊子を開くと、いくつかの約束事が書いてあった。
・3人以上のご来店はご遠慮ください。
・時間に余裕のない方はご遠慮ください。
・珈琲を入れる間は話しかけないようにお願いします。
・お子様連れの入店はお断りしています。
戸惑いながら顔を上げると、店主がカチッとヤカンを火にかけるところだった。
シンプルなガスコンロはまさにお湯を沸かすためだけに存在し、小さなシンクも業務用の冷蔵庫も珈琲のためだけに備わったというようにシンプルで、おそらく店主がこだわり選んだ物なのだろうと想像する。
珈琲が飲みたい気持ちよりも、中が見たい気持ちで入ってきてしまった事を、僕は反省するのだった。
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