第11話
江ノ島から徒歩20分。三月には少しもったいないくらいの青空の下、左右に広がる相模湾を眺めながら江ノ島弁天橋を渡り、国道134号線下の地下通路を通って西浜方面へ抜ける。それからしばらく道なりに足を進めると、向かって左側には白い砂浜とブルーシートで覆われたいくつもの屋台が姿を現した。流石にこんな時期に遊泳している人はいないと思っていたけれど、カメラ片手に砂浜を散策している観光客の姿はそれなりに多く、各々が自分のベストショットを求めて仕切りにシャッターを切っている様子は、なんだかすごくかっこよく見えた。最近は、ミラーレス一眼なんて言う初心者でも比較的手を出しやすいカメラが増えてきていると聞く。就職してある程度お金に余裕が出来たら、購入してみるのもいいかもしれない。
そんなことを考えている間に、僕たちは目的の新江ノ島水族館へと到着した。
正面入り口にはクラゲのオブジェが添えられたゲートが設置され、来場者たちを瞬く間に海の世界へと引きずり込んでいく。
「あたしたちも早く行こ」
「そうだね」
水族館内に入場するには、まず外のチケット売り場で入場券を購入する必要があった。僕は入場券購入の列に並ぶ他の客たちに倣って、いくつかあるうちの一つに並ぶと、前方の入場料金表に目を凝らした。
「『大人 2500円』、『高校生 1700円』……だってさ」
「へー……。もしかして、七海の奢り?」
「ははっ、まさか」
こっちは水族館の入場料が思ったよりも高くて、内心すごく焦ってるっていうのに、他人の分まで払えるわけがない。正直、今からでも別の観光スポットに足を運んだ方がいいんじゃないかとすら思ってる。でも、そんなこと言いだしたら、奈加はきっと僕を許さないだろう。
勘違いしないでほしいのだけれど、僕は別に彼女にどう思われてもかまわないと思っている。……ただ、僕の行動や言葉によって誰かがひどく傷つくようなことはしたくない。
なぜなら他でもない僕自身が、罪悪感で圧し潰されてしまいそうになるから。
そんなことをうだうだと考えている間にも列は進み、やがて僕たちの番がやってきた。
「ようこそ、『えのすい』へ。二名様でよろしかったですか?」
窓の向こうからスピーカーを通して尋ねてくる女性スタッフに向かって、僕は肯定の言葉を返す。
「そうです」
「ちなみに、二名様とも学生さん……で、よろしかったでしょうか?」
「えっ、あぁ、いや……」
そんないたって自然で当たり前な質問の返答を少し濁らせながら、僕はスクールバッグの内ポケットから高校の生徒手帳を取り出す。
二日前、僕はめでたく高校を卒業した。だから、厳密に言えば、僕は今高校生じゃない。だけど、この生徒手帳の有効期限は三月末まで。ぎりぎり高校生料金での入場が認められる。
僕はしばらく考えた末、自分の中に存在する天秤に料金とプライドを乗せて出た答えを窓越しの女性スタッフに提示した。
「……はい、高校生ですね。では、学生証お返しします」
この鎌倉旅行は、大人の旅じゃない。これから大人になる〝子供〟の旅だ。少しくらいズルをしてもまだ許される。そんな見苦しい言い訳を自分の中で展開しながら、僕は隣に立つ奈加から顔を背けるように下を向く。
「お連れの方も学生さんですか?」
学生かどうかを確認するやり取りの中で、まさかこれほどの葛藤が繰り広げられていただなんて、この女性スタッフに分かるはずもない。僕は誰にも聞こえないように小さく息を吐いてから顔を上げ、その問いに答えようと口を開いた。
——だけど、僕の口からその問いに対する言葉が出ることはなかった。
「ちがいます」
隣に立つ奈加の口から、一切の躊躇を感じさせない真っすぐな声が響く。同時に、僕と女性スタッフの視線が彼女に向いた。
「あたし、学生じゃないので」
まるで、今までに何度も同じ返答をしてきたかのように、奈加は一切表情を変えないでそう答えた。僕は開いたままの口を静かに閉じる。
——そうだった。彼女は、学生じゃないんだった。
昨日の夕食の席で、僕は彼女から確かにその事実を聞いた。別に忘れていたわけじゃない。
……それなら、どうして僕はこんなにも、彼女の発言に神経質になっているんだろう。
僕は自分の財布から高校生料金1700円を取り出しながら、それを考える。そうしてふと隣に目を向けると、奈加が自分の財布から大人料金の2500円を取り出しているところだった。僕はそれを見て確信する。
そうか。僕は悔しいんだ。
「大人になりたくない」という奈加が定められたルールに従って大人料金を支払い、「大人になりたい」と願う僕が高校生料金を支払っている。
自分で考え、決断した結果のはずなのに、『料金』という目に見える形で自らが子供のままであることを証明してしまった事実に苛立っているんだ。
全く、なんて自分勝手で子供っぽい理由なんだろう。こんな僕が恥ずかしげもなく「早く大人になりたい」だなんて理想を掲げてると思うと、本当に馬鹿らしくて笑えて来る。
……あぁ、今すぐにでもこの場から消え去ってしまいたい。
そんなことを思いながらも、僕は料金だけが異なり、他はすべて奈加と同じ入場券と館内パンフレットを手に取る。
「七海、どうしたの? 顔、怖いよ?」
受け取った入場券とパンフレットを大事そうに抱える奈加は、そう言って僕の顔をそっと覗き込む。自然と互いの目が合った。
僕はそんな彼女の大きな瞳に映り込む、僕の知らない『僕』を見つめて、ふと我に返る。
「……あぁ、ごめん。なんでもないよ」
これ以上、彼女の前でみっともない顔は見せられない。
彼女に心配されるたびに自分自身の幼さを思い知らされ、僕の心の醜さを嫌というほど理解させられる。そんなのは、もうごめんだ。
僕は精一杯の作り笑顔を奈加に向ける。
「料金も支払ったことだし、早く見て周ろう。あんまりだらだらしてると、全部見終える前に夜になっちゃうかもしれない」
「確かに、外から見た感じ相当広そうだしね。じゃあ、行こ」
「うん」
僕はどこまでも無邪気でガラス玉みたいに澄んだ瞳の奈加に手を引かれながら、新江ノ島水族館の入り口へと向かう。入場口の傍では、チケット売り場同様に施設のスタッフが待機していて、入場券の確認を行っていた。僕たちは先ほど購入した入場券をスタッフに見せ、そのまま館内の奥へと進む。
「わぁー! みて七海! ここ、海の中だよ!」
館内に入って、まず僕たちの目に飛び込んできたのは、紙で作られたクラゲのオブジェだった。それも奈加と同じか、それ以上あるような特大サイズのやつ。
確か、こういうのを『ペーパークラフト』って言うんだったかな。傘みたいな頭の部分とか触手の部分がとても細かく作られている。商品として扱えば、相当な額になるんじゃないだろうか。それに、奈加が言っていたように、ここはまるで海の中みたいだ。天井から糸で吊るされたクラゲのオブジェに海中を思わせるブルーのライトが当てられ、クラゲの影がゆらゆらと小さく揺れ動いている。
入場して数分。それどころか、まだ一匹も本物の海洋生物を見ていないにもかかわらず、奈加のテンションは急上昇していた。
「ねぇねぇ、七海」
「なに?」
僕は内緒話でもするみたいに囁きながら、人の肩をバシバシと叩く奈加に問いかける。
「あたしたちも、あれやろうよ」
「〝あれ〟?」
そう言って奈加が指差す方向に目を向けると、そこには入り口から続く10mほどの人の列が出来ていた。一体何事かと思い、列を辿ってその先頭を確認すると、優に3mはありそうな巨大水槽の前で写真撮影が行われているところだった。うっかりクラゲのオブジェに気を取られて、後ろにこんな大きな水槽があることに気づかなかった。
僕は一度水槽から目を離し、列の最後尾に顔を向ける。
……うん。今から並んでも、そんなに時間はかからなそうだ。
僕は今一度、奈加の方に顔を向けて口を開く。
「いいね」
「やった! じゃあ、早く並ぼう!」
胸の前で小さくガッツポーズを決める奈加は、そう言って跳ねるように列の最後尾に着いた。
僕の見立て通り、列が進むのにそれほど時間はかからず、5分ほどで僕たちの番が回ってきた。
「『えのすい』へようこそ! お二人はカップルですか?」
首からいかにも重厚そうな一眼レフカメラをぶら下げた女性スタッフが、僕たちに白いクラゲのぬいぐるみを手渡しながらそう問いかけた。
僕はそれを素直に受け取りながら言葉を返す。
「違います」
「そうでーす!」
お互いの主張が激しい食い違いを起こしていることなど気にも留めない様子の女性スタッフは、快活な笑みを浮かべながら撮影の準備に入る。
自分から聞いておいて無反応ってのは、大人としてどうなんだ。というか、隣の死にたがり無邪気少女は、何を当たり前みたいな顔して出鱈目言ってるんだろう。
そんなことを思っている間に撮影の準備は整ったようで、女性スタッフは僕たちに向けてシャッター合図を出した。
「それじゃあ撮りますねー。——はい、イワシ!」
意味不明な合図に困惑する暇もなく、強烈なフラッシュが僕らを襲う。
「はーい、お疲れ様でした。撮影された写真は、このまままっすぐ進んだところの受付カウンターで購入できますので、ぜひ記念に持ち帰ってくださいね!」
一瞬で撮影を終えた僕たちは、手に抱えたぬいぐるみをスタッフに返し、自分たちの荷物を持って言われた通り受付カウンターへと進んだ。
撮影された写真は特製の写真立てに入れられて販売されているらしく、僕たちは一枚ずつ撮影された写真を購入した。
「あっはははっ! 七海ってば、すごい顔してる!」
受け取った写真を見て大笑いする奈加をみて、僕も購入した写真に目を向ける。
……うん、まぁ、奈加が笑うのも無理はない。強烈なフラッシュのせいで両目は半開きだし、口元に関しては精一杯作ったはずの笑顔が失敗して、ひどく歪んでいる。これが卒業アルバムに載せる写真じゃなくて本当に良かった。
僕は奈加に笑われたことによる恥ずかしさよりも、大勢の人たちの手元に一生残るであろう写真が、これじゃなかったことにホッと安堵の息を漏らしながら、撮影した写真をスクールバックのポケットにそっと仕舞い込んだ。
「それじゃあ、そろそろしっかり館内を見て周ろうか」
「うん。そうだね」
そうして僕と奈加は、真っすぐに続く薄暗い通路を隣り合って歩きながら、幻想的な海の世界へゆっくり足を踏み入れていった。
最初の展示コーナーでは、相模湾で暮らす魚たちをテーマにした水槽が種類ごとに並んで展示されていた。その中には、昨日の昼に食べたあのしらすたちもいた。なんでも、ここ新江ノ島水族館は、世界で初めてしらすの生体常設展示を行ったらしく、えのすいの目玉展示といっても過言ではないんじゃないかと僕は密かに思った。そもそも生きているしらすを見たこと自体今日が初めてだったので、僕も奈加ほどじゃないにしても少し胸が高鳴ってしまった。
そして何よりも迫力があったのが、メインホールに存在する相模湾大水槽だ。
写真撮影の時に見た水槽の二倍はありそうな超巨大水槽の中で、大小さまざまな海洋生物が悠々と泳ぎ回る姿は圧巻の一言に尽きた。それと、迫力のせいもあってか他の水槽に比べて人の数がだいぶ多い。できればもう少し近くで眺めたいけれど、先頭に行くのは無理そうだ。
そんなことを思っていると、巨大水槽の正面にピンマイクをつけた男性スタッフが現れ、足を止めて見物する来場者たちに向けて挨拶を始めた。どうやら、これから何かのイベントが始まるらしい。せっかくだし、少し見て行こう。
「ねぇ、奈加。これから何か始まるみたいだよ」
僕はそれまで隣に立っていた奈加にそう声を掛ける。だけど、いくら待っても彼女からの反応がない。疑問に思いつつ、ふと彼女の立っていた方に目を向けると、いつの間にか奈加の姿がなくなっているのに気が付いた。
「奈加……?」
僕は彼女の名を呼びながら辺りを見回す。すると、皆が注目している方向とは真逆の、あまり人気のない小さな水槽の前で一人佇んでいる奈加を見つけた。
はぐれて迷子になったわけじゃないと分かって、ホッと安堵の息を吐きながら僕は奈加に近づく。
「何見てるの?」
「…………」
奈加は真後ろで盛り上がる観客たちには一切興味を示さないといった様子で、じっと目の前の水槽を眺めていた。
「後ろで何か面白そうなことやってるみたいだけど、奈加は行かなくていいの?」
「……んー」
さっきまでの奈加なら、この手のイベントには真っ先に食いついて最前列で話を聞いていただろう。それが今はどうだ。まるで関心がないみたいに……というか、目の前の水槽しか視界に入っていないような感じで微動だにせず佇んでいる。
……一体、彼女は何をそんな真剣に見ているんだろう。
そんなこと思っていると、奈加の唇が小さく動いた。
「——この子をね、見てたんだ」
「この子……?」
そう言って、水槽の奥へと向けられた奈加の瞳を辿って、僕も水槽内に目を向ける。すると、岩陰の隙間に白くて小さな魚が一匹隠れているのが見えた。
「カンムリベラ……っていうんだってさ。ほら、ここ」
白くて細いガラス細工みたいな奈加の指が示す箇所に目を向ける。確かに、水槽の真下部分に魚の名称と簡単な解説文が載っていた。
僕はそれを心の中で読み上げる。
カンムリベラ。幼魚は体色が灰色から白っぽく、頭部に黒色点、体側の背部には橙色斑が二つ存在する。成長するとこれらは消え、頭部が白っぽく、後半は黒く変色する。大型個体では緑色となり、体側に青緑色の横帯が表れる。成長に合わせて姿を変える珍しい魚の一つである。
解説を読み終えた僕は、再び視線を水槽へと向ける。
白くて小さな体に、自分の個性を主張するかのようなユニークで愛らしい斑点模様を浮かばせて、限られた水槽内を舞うように泳ぐカンムリベラの幼魚。時折、何かを言いたげに口をパクパクと動かすその様は、人間の赤ん坊を連想させる。だけど、それ以外にこの魚に特別何かを感じるということはない。
奈加は一体、何を思ってこの魚を見つめているのだろう。
僕は再度問いかける。
「それで、この魚がどうかしたの?」
「んー……まぁ、ちょっとね」
なんだかイマイチはっきりとしない奈加の言葉に首を傾げていると、それに続けるように奈加がゆっくりと言葉を発した。
「なんかさ、似てるなーって思って」
「似てる?」
「うん。……この子と、あたしがね」
最初、僕にはそれがなんだかとても意味深な言葉に聞こえたけれど、次第に彼女の言いたいことがなんとなく理解できてきた。
奈加はさらに続ける。
「子供の頃は、こんなにも鮮やかで真っ白な部分がまだたくさんあるのに、大人になるにつれて色はどんどん濁って、白い部分が失われていく。それってなんだか、人間みたいだと思わない? 子供の頃はさ、自分の見ているもの全部がまるでダイヤモンドみたいにキラキラと輝いて見えて、自分もその輝きの一部になれるんだなって嬉しく思ってたけど、だんだんと大人に近づくにつれて、それがダイヤモンドなんかじゃなく、ただの鍍金まみれの錆びた鉄屑だってわかっちゃう絶望に、すごく似てる気がする。……白から黒に自分が塗り替わっていく。……それって、やっぱり怖いよ」
奈加は、決して水槽からは目を離さないで言葉を発し続ける。背後では、どうやら魚たちのエサやりが始まったようで、一気に喧騒が大きくなった。
「しかもさ、この子たちは多分、自分の身体に起こってるそんな大きな変化に気づいてないんだよ。あたしたちから見れば一目で分かる変化なのに、自分だけ、それに気づいてない」
「……どういうこと?」
僕は薄闇の中、青い光で微かに照らされた彼女の横顔にそう問いかける。
背後で絶えず聴こえるスタッフの陽気な声や観客の騒めきが、霧の中に溶けていくかのようにだんだんと遠ざかっていった。
奈加は小さな手のひらをそっと水槽に添えて、決して声を震わせないようにゆっくりとそれに答える。
「……自分が気づいていないだけで、自分を構成している大事なものが明らかに変化してる。そして、自分を染め上げていた色も、知らない間に全く別の色に変わってる。子供と大人の境目が誰にもはっきりとはわからないように、ゆっくりと、少しずつ、でも確かに変化してる。……今の、あたしみたいに」
そんな奈加の話を聞いて、僕は自分の体温がぐっと下がっていくのを感じた。まるで、僕の心臓だけが海の底に落ちていってしまうような感覚。光がどんどんと遠退いて、ゆっくりと暗闇に沈んでいく。そんな、今まで感じたことのない恐怖と不安が僕の心を襲った。
でも大丈夫。原因はわかってる。
僕は無意識のうちに止めていた息を吐き出して、彼女にかけるべき言葉を模索する。たぶん、僕が今感じている恐怖や不安は、彼女にかける言葉次第で撥ね退けることが出来る。
だから僕は必死に思考し、正解をなんとか手繰り寄せようと海中で思い切り藻掻く。
「——ねぇ、七海」
そんな中、ふと彼女に名を呼ばれた。僕は思考を停止して、彼女の瞳を見る。
「なに?」
僕以上に怯えた表情で、縋るような瞳で、彼女は僕に尋ねる。
「……あたし、まだ、子供に見える……?」
それが、何を意味する問いかけなのかは十分理解していた。
僕の返答次第で、彼女の人生が大きく変わるということも理解していた。
だから、僕はこう返す。
「——あぁ、見えるよ」
とびっきりの優しい笑顔を張り付けて、世界一下手くそな嘘で言葉を固める。
だけど、彼女はそんな僕の返答に満足してくれたみたいで、「ふふっ」と小さな笑みを浮かべると、まるで優しいものを見るような眼をして、僕に言った。
「——よかった」
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