第7話

 「ねぇ、知ってる? タラバガニって、実はカニじゃないんだってさ」

 「そうなんだ。それは驚きだね」

 「でしょ! で、実際は何の仲間だと思う?」

 「さぁ、何だろう」

 「あれさ、ヤドカリの仲間らしいよ。ウケるよねー!」

 「あはは、確かに」

 「……あ、もしかして今、『カニ』と『確かに』掛けた? いいじゃんいいじゃん! 面白いよ七海」

 「……ははっ、それはどうも」

 蟹を食べるとき、人は無口になるっていうけれど、こと桐野さんに限っては一切そんなことはなかった。


 結局レストランで夕食を食べることになった僕は、「どうしてもカニが食べたい」という桐野さんの強い要望により、店員さんにお願いして個室の座敷部屋へと案内してもらうこととなった。レストラン内には僕たちを含めても三、四組ほどしか客はおらず、時間を待つことなく席に着くことが出来た。

 「あ、蟹会席二人前お願いします」

 席に着くなり、桐野さんは僕の要望を聞くことなく勝手に注文を始めた。

 「僕、蟹が食べたいなんて一言も言ってないけど」

 「せっかく来たんだから、良いもの食べておかないとダメでしょ。それとも、七海はカニ嫌いなの?」

 「いや、そういうわけじゃないけど……」

 「じゃあ、蟹会席二人前で」

 そうして桐野さんにピースサインを向けられた女性店員は「かしこまりました」と軽く得食をして厨房へと戻っていく。

 まぁ、桐野さんが奢ってくれるって言葉を素直に信じるなら、確かに良いものを食べた方が得ではある。そんな風に考えて、僕はやがて席に運ばれてきた大きな蟹を美味しくいただくことにした。それにしても、金額を気にしないで食べる蟹がこんなにも美味しいものだなんて……。一応、昼食に名物のしらす丼は食べたけど、それだけでこの鎌倉旅行を終えるのはもったいなかった。桐野さんに出逢わなければ、僕はこのレストランの存在すら知ることなく、コンビニ飯を食べ続けていたことだろう。そこに関してだけは、やっぱり感謝しないといけないのかもしれない。

 そんなことを考えながら、次々と運ばれてくる蟹料理に舌鼓を打っていた僕だったが、テーブルを挟んで正面に座る桐野さんの止まることのない蟹雑学が、そんな僕の感謝の気持ちを薄れさせていた。

 彼女は慣れた手つきで目の前に置かれた一杯の蟹の脚を次々もぎ取ると、カニフォークと呼ばれる細長い鉤状の器具を使って器用に身を取り出し、それを口へと運ぶ。その動作が僕にはまるでベルトコンベアに乗せられた部品を淡々と組み立てる職人のように見えて、感心した。この滑らかさは、普段からカニを食べていないとなかなか身につくものではない気がする。

 ……本当に、彼女は何者なんだろう。

 「わー! みてみて七海。こんなに身が詰まってる。……そして美味い! 甘い! やっぱカニ最高!」

 僕は、そんな心の底から夕食を堪能している桐野さんに思い切って声を掛ける。 

 「ねぇ」

 「ん、何? もしかして、もうお腹いっぱい? 大丈夫。残ったらあたしが食べてあげるから」

 「そうじゃなくてさ、さっきお互いのこと話すって言ったじゃん」

 ……僕は、目の前に並べられた豪華な料理なんかよりも、正面で満面の笑みを浮かべる桐野奈加という少女のことがずっと気になっていた。

 彼女は何の目的があってこんな時期に一人で旅をしているのか。

 一体どこから来て、どこへ向かおうとしているのか。

 始めて言葉を交わしたあの瞬間、彼女の瞳には一体何が映っていたのか。

 家族以外の人間に対して、一切の興味を持たずに生きてきたこの僕が、初めて人に対して興味を抱いている。その原因が一体何なのか、どうしても知りたいと思った。

 すると、それまで忙しなく動いていた桐野さんの手と口がぴたりと動きを止めた。しかしそれもほんの数秒のことで、彼女は再びカニの身分け作業に移ると少し困ったような表情で「……あー、それね」と呟いた。

 「……あたしのことを話すのは別にいいけど、その前に七海のことをもっと教えてくれない? そのあとで、ちゃんとあたしも自分のこと話すからさ」

 なんだか詐欺の常套句みたいで素直に承諾していいものかと迷ったけれど、心の内側を駆け巡る好奇心には抗えず、僕は静かに頷きを返した。

 「わかった、話すよ」

 「うん。ありがと」

 「それで? まずは何から話せばいいのかな」

 僕は緊張を紛らわす目的も兼ねて、グラスに入った水を少しだけ口に含む。

 「んー、そうだなぁ。……じゃあ、まず七海はどこから来たのか教えてよ」

 「山形だよ。それも凄く田舎の方」

 「山形かぁ。……そっちの方は通ってこなかったなー」

 「えっ?」

 最後の桐野さんの呟きが少し気になって、思わず声を上げる。

 「あぁ、ごめん、気にしないで。……それで、七海はどうして一人旅してんの?」

 ……どうして。その理由を正直に話したとして、桐野さんはどう思うだろう。つまらない理由だと笑われてしまうだろうか。

 「七海?」

 「あぁ、……うん」

 沈黙の中で、あれこれ思考を繰り返して僕は口を開く。

 「……まぁ、色々見て周りたくてさ。ほら、海とか」

 「ふーん。でも、それって今じゃなくてもよくない? 海なら普通夏でしょ」

 あんまり深く突っ込まれないように誤魔化そうとしたのがいけなかった。観光客の少ないこの時期に海を見に来る人が全くいないわけじゃないとは思うけど、それが一般的かと聞かれたら僕だって首を傾げる。だから、桐野さんがそこに疑問を持つのは当然のことだ。

 僕はグラスの表面についた水滴が徐々に滴り落ちていく様子を眺めながら、静かに呼吸を繰り返して言う。

 「実は僕、来月から社会人になるんだ。昨日がちょうど高校の卒業式でさ、卒業旅行ってわけじゃないけど、就職する前に出来るだけいろんなものを見ておきたいと思って、ろくに予定も立てずにここまで来ちゃったんだ」

 「やっぱり、七海年上だったんだ」

 「えっ」

 「あたし、こう見えてまだ16なんだよねー。大人っぽいでしょ」

 「ははっ、そうなんだ……」

 歳が近そうだとは思ってたけど、桐野さんが年下だとは思わなかった。同い年か、少し年上くらいだと思ってた。

 「ってか、七海ってせっかちだね。別に旅行なんていつしても変わらないのにさ」

年齢的に僕の方が上だと分かったはずなのに、桐野さんは平気で僕を呼び捨てにしてくる。まぁ、呼び捨てにされたくらいで怒ったりは流石にしないけど、やっぱり距離の詰め方が異常だなとは思う。

だけど、彼女の発した一言によって、そんなことすらもどうでもよくなった。

 「……変わるよ」

 「え?」

 「……モノの見え方は、全部同じなんかじゃない」

 自分の口をついて出たその言葉の意味を理解した時にはもう、言い訳が出来る状態ではなくなっていた。

 「つまり、どういうこと?」

 桐野さんの表情から笑みが消える。

 僕は自分の発言を後悔しながら、意を決して言葉を続けた。

 「……僕は、ずっと大人に憧れていたんだ。あらゆる物事を自分で選択し、誰に左右されるわけでもなく自分の生きたいように人生を歩むことが出来る、そんな大人に——」

 「…………」

 「物心ついた時から、早く大人になりたいと思って今日まで過ごしてきた。大人になれば、今まで思うように出来なかったことも、きっと自分一人で何とかすることが出来る。そう信じて今日まで生きてきた。……そして、来月からは僕もようやく社会に出て、周りに認めてもらうことが出来る。ずっと憧れていた大人になることが出来るんだ。だけど……」

 「だけど……、なに?」

 そう言って桐野さんは、再び口を閉ざして話の続きを待つ。

 「だけど、大人になる前にもう少しだけ、子供の目線で物事を見て周りたいと思ったんだ。子供と大人じゃ、世界の見え方がまるで違う。大人には、今の僕たちが見ている世界の色が分からないし、逆に僕たちには大人たちが見ている世界の色を知ることが出来ない。——だから、僕がまだ子供であるうちに、自分の周りの世界がどんな風に彩られているのか見ておきたいと、そう思ったんだ」

 僕は正面に座る桐野さんには目を向けず、グラスに移った自分の虚像だけをじっと見つめて言った。

 桐野さんは、僕の話を聞いてどう思うだろう。やっぱり、つまらない理由だと笑うだろうか。それとも、それこそ幼稚な考えだと呆れてしまうだろうか。

 僕はグラスに入った氷が解けていく様子を眺めながら、彼女からの言葉を待つ。

 すると僕の正面に座る桐野さんは、それまで膝に置いていた手を目の前の蟹脚へ伸ばし、呟くように言った。

 「そっか、七海はそっち側なんだね」

 「えっ?」

 それはまるで、僕に対してではなく自分自身に話しかけているように聞こえた。それから桐野さんは、そんな僕の疑問の声を無視するかのように再び蟹料理に舌鼓を打ち始めると、さっきまでの真剣な表情が嘘だったかのようにへらへらとした笑みを浮かべて僕に言った。

 「まぁ、七海のことは大体わかったよ。とりあえず、カニ食べたら? あ、この茶わん蒸しもかなり美味しいよ。これにも贅沢なほどカニが使われてて、もう最高……!」

 「……今の話を聞いて、何も思わないの? つまらないだとか、幼稚だとか……桐野さんは、そういう風に思ったんじゃないの?」

 「いや、全然」

 「……本当に?」

 「うん。だってさ、それはあくまで七海自身の考えでしょ? それにあたしが何か言うのって違くない?」 

 正直意外だった。彼女のことだから、てっきり何か文句を言ってくるんだと思っていた。

 だけど、それは僕の間違いだった。

 彼女は、僕が思っているよりしっかりと自分の考えを持っている人間らしい。

 「だから、あたしは何も言わない。……どう? これで納得した?」

 そう言って幸せそうな顔をして茶わん蒸しを堪能する桐野さんを見つめながら、僕は静かに頷きを返す。

 「よし。じゃあ、今度は七海の番。なんでも訊いてくれていいよ。スリーサイズくらいなら教えてあげる」

 「訊かないから安心してくれていいよ」

 僕はニタニタと揶揄するような笑みを浮かべてこっちを見つめる桐野さんにそう言い返すと、少し間をおいてから口を開いた。

 「桐野さんは——」

 「奈加でいいよ」

 「えっ」

 「あたし、名字で呼ばれるのあんまり好きじゃないんだよね。それに、あたしだけが呼び捨てにしてるの、なんか感じ悪いじゃん」

 「別に僕はそんなこと思ってないけど」

 「あたしが嫌なの」

 これまで誰かを呼び捨てにしたことがない僕にとって、それは少し難しいお願いだった。もし、それをしてしまったら、いよいよ僕の中の価値観が狂ってしまいそうだと思った。

 だけど、彼女の有無を言わさぬ強い瞳を向けられてしまっては、拒絶しようにも上手く断れる気がしない。

 僕はほんの少しの間、自分の中で葛藤を繰り返し、それから彼女に尋ねた。

 「……奈加は——」

 「うん。何?」

 「どこから、ここに来たの?」

 「出身は北海道だよ。でも、その質問に正確に答えるとするなら福島かな」

 「つまり、どういうこと?」

 上手く理解が出来ずに僕は首を傾げる。

 すると奈加は、パーカーのポケットからピンクのカバーがついたスマートフォンを取り出し、画面を僕の方へと向けてきた。

 「あたし、旅をしてるんだよね。北から南まで、行きたいと思ったところに行く。そんな風に一人旅してるの。……で、これがこの間まで滞在してた福島の写真」

 画面には色とりどりにライトアップされた鍾乳石や白くそびえ立つ天守閣、赤い牛のような小さな置物や叉焼がいくつも乗ったラーメンの写真など、スライド形式で次々と写真が表示されていく。

 「ちなみに、その前は宮城にいたよ。本場の牛タンめっちゃ美味しかった! イルミネーションも凄く綺麗でさー……」

 そう言って福島に続いて宮城で撮影した写真を、旅の思い出と一緒に見せてくる彼女に向かって、僕はふと疑問に思ったことを尋ねる。

 「キミ、さっき16歳って言ってたよね。高校はどうしたの? それにお金だって……。一体どこからそんなに出てくるんだよ」

 初めからただの少女ではないとは思っていたけれど、この『桐野奈加』という人間について知れば知るほど、訊きたいことが増えていく。まるで渦に呑み込まれていくみたいだ。

 そんな僕に向かって彼女は告げる。

 「……ねぇ、七海。世の中の16歳がみんな高校に通ってると思ったら大間違いだよ。それに、お金に関してはもちろん働いて稼いだに決まってるじゃん」

 「そう、だったんだ」

 「あははっ、すごい顔! でも覚えておいて。七海が思ってるより、世の中にはいろんな人がいるってことをさ」

 「……わかった」

 彼女が発したその言葉をすんなりと受け入れたわけじゃない。ただ、これ以上深く詮索することは、僕にしていいことじゃないと本能でそう感じた。だから、それ以上この話題について尋ねることはやめることに決めた。

 それから僕は、嘘みたいににこやかな笑みを浮かべ続ける彼女に、どうしても訊いておきたかったことを尋ねた。

 「あのさ」

 「ん? なになに?」

 「——キミは、どうして旅をしているの?」


 もし、ここで「ただの趣味だよ」と言われたら、そこで僕からの質問は終わりにしようと思っていた。たかが数日、共に生活するだけの相手のことなんて、よく考えてみればどうだっていい。別に、彼女のことを深く知れたからと言って、何か僕に得があるわけでもない。

 この鎌倉で彼女と過ごす残りの時間を適当に消費して、お互い、あとはいつも通りの日常に戻る。……それが一番だと、僕は思っていた。

 ——だけど彼女から返ってきた言葉は、そんな僕の理想を容易く粉々に打ち砕くものだった。


 「あたしさ、死に場所を探してるの」

 「なんだって?」

 間髪入れずに聞き返す。自分の耳が正常かどうか確かめるために。

 「だからさ、死に場所を探してるんだってば」

 やっぱり聞き間違いじゃなかった。僕は震える唇で言葉を探す。

 「……へぇ、かっこいいね。武道家みたいだ」

 「あははっ、なにそれ。それじゃあ、マンガの主人公みたいじゃん」

 「違うの? それじゃあ、一体何の冗談? 僕、死に場所を求めて旅をしてる人なんて、漫画かアニメでしか見たことないんだけど」

 予想の斜め上を行く発言に驚きはしたけど、冷静になって考えてみれば普通は何かの比喩か少し痛い妄想だという答えに行き着く。

 だけど、今、僕の目の前にいるこの少女は、少なくても僕の知る『普通』には当てはまらないタイプの人間なんだと、このたかが数時間で嫌というほど思い知らされてしまった。

だから、その後の彼女の発言にも一切の嘘や深い意味はなく全て真実なのだと、僕は知っていた。……そう、知っていたんだ。

 それから彼女は、当たり前みたいな顔をしながら僕に言った。

 「冗談でも何でもないよ。あたしは、近いうちに死ぬの」

 「……どうして」

 ほとんど掠れて声にならない問いかけが彼女に向けられる。

 「んー、どうして……かぁ」

 奈加は食事の手を止めることなく少し考えた後で、僕の問いに対する言葉を返した。

 「あたしさ、大人になりたくないんだ。ずっと子供のままでいたい。……でも、それが無理だってのは、あたしだってわかってる。人はいつか、大人にならなくちゃいけない。ずっと子供のままじゃいられない。だからあたしは、子供でいられるうちに自分の人生を終わりにすることにしたの」


 ——大人になりたくない。

 それは、僕の願いとはまるで逆側に位置している言葉だった。

 そこで気が付く。さっき彼女が、ちらりと口にした言葉の意味を——。


 『そっか、七海はそっち側なんだね』


 奈加は僕よりも先に、自分たちが正反対の理想を持っていることに気が付いていた。

 そして、そんな僕の理想を聞いた上で、彼女は何も言わないことを選択した。

 それが一体どういう意味を持つのか、今になって分かった。

 僕は再び彼女に問う。

 「そうじゃない。どうして、そこで死ぬなんて考えに至るんだ。大人になることの何がそんなに嫌なんだ」

 「大人に憧れる七海に言っても理解できないと思うよ?」

 「それでもいい。一体何がキミをそこまで駆り立てるのか、僕は知りたい」

 「ふーん……まぁいいけどさ」


 奈加は手に持ったスマホをポケットの中にしまい込むと、結露したグラスの表面をその白く細い指先でそっとなぞりながら口を開いた。

 「あたしはね、七海。『大人になる』って、汚いものを見てみぬふり出来るようになることだと思ってるんだ」

 「……見てみぬふり」

 「それまで自分の世界を彩っていたものが、実はすごく汚くておぞましいものだって気づくこと。そして、そんな汚いもの、おぞましいもの、理不尽なものをどうにか受け入れて生活していく事が、大人に課せられた義務だとあたしは思ってる。

 でも、それっておかしいじゃん。それまで純粋で真っ白だった自分自身を黒く汚さないと、世界に受け入れてもらえないなんてさ。……少なくても、あたしはそんな人生送りたくない。自分を形成している世界が実は酷く歪んでいて、醜いものだったなんて気づきたくない。だから、あたしは自分が〝それ〟に気づいてしまう前に、この真っ白な人生に終わりを告げようと思ったの」

 そう言って彼女は顔を上げると、正面に座る僕に目を向ける。

 そして、同時に理解した。

 初めて彼女に出逢ったあの時、そのまっすぐな瞳に一体何が映っていたのかを。


 僕は、まるで希望を語るみたいに明るく話す彼女に、何と言葉をかけるのが正解なのかをひたすら考える。すると、そんな僕を見て奈加がケラケラと笑い出した。

 「でも、ただ死ぬだけじゃさ、まるで大人が見ている世界に絶望したみたいでなんかかっこ悪いじゃん? せめて最期くらいは、あたしが一番綺麗だと思えるものをこの眼に移しながら死にたいの。あたしが旅をしてるのも、その瞬間を探すため。……だからさっき言ったでしょ? 『死に場所を探してる』ってさ」

 そう言って彼女は再びテーブルの上の料理に手を伸ばすと、まるでこの瞬間が人生で一番幸せだとでも言うかのように、信じられないくらいやわらかな表情を僕に見せた。

 「まぁ、まずは日本中を周ってみたいよね。あたしの知らない場所。知らない景色。知らない出逢いを探してさ。……それでもし、あたしが死んでもいいと思えるような景色が見つからなかったら、今度は世界。いろんな国のいろんな景色を見て周って、その瞬間を探すの。

 ……ひょっとしたら、明日にでもあたしはその瞬間を手に入れることが出来るかもしれない。そう考えるとなんだかすごくワクワクしてこない?」

 そんな彼女の問いを受けて、僕は静かに瞼を閉じる。


 大人になることを何よりも拒む彼女が、明日を待ち望みにしている。死ぬために旅を続けているはずの彼女が、未来の話をして笑っている。

 それが僕には何だか恐ろしくも可笑しく思えて、つい笑ってしまった。

 「ん、なに? どうしたの?」

 「……あぁ、いや——」

 僕は顔を上げ、彼女のまっすぐな瞳を見つめて言う。

 「本当に、漫画の主人公みたいだと思ってね」

 「ははっ、なにそれ。……ってそれより、早く食べなよ。このカニ雑炊、死ぬほど美味しいから!」

 「うん、いただくよ」


 こうして僕たちは、自分たちが何のために旅をしているのかを話し合い、そして、目の前に並ぶごちそうをゆっくりと咀嚼するように、お互いのことをほんの少しだけ理解し合った。

彼女が僕の理想に対して口を出さなかったように、僕も彼女の理想について何も言わない。言いたいことは全部、料理と一緒に飲み込んでしまえばいい。


 僕は、まだ白い湯気が立っている蟹雑炊をレンゲで一口掬い、口へ運ぶ。


 あぁ、本当に——

 「……美味しいね」

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