第6話

 ホテルに到着するなり、桐野さんはフロントに立つホテルマンに向かって「この人と同室で」と僕を指さしながら短く告げると、まるで一仕事終えたとでも言うかのように「ふぅ」と大きく息を吐き、エントランスに置かれた革張りのソファーに深く腰をかけた。

 「おかえりなさいませ……」

 あまりの唐突さに遅れて反応を示した中年のホテルマンは、どこかの国の王様にでもなったつもりでふかふかのソファーに体を沈める桐野さんと、真っ黒な雨雲を頭からすっぽりとかぶったようにどんよりとした表情を浮かばせる僕を交互に見比べたのち、困惑した面持ちでカウンターの引き出しから宿泊受付用の書類を一枚取り出した。

 「……では、こちらの方にサインを」

 「サイン? あー、それ、七海が書いといて」

 そう言って桐野さんは背負っていたリュックサックから小さなポーチを取り出すと、それを僕に向かって勢いよく投げ渡した。反射で何とかキャッチはしたものの、これは桐野さんが自分で記入しなければ何の意味も発しない。僕は受け取ったポーチを一度カウンターにおいて、彼女に言う。

 「僕は桐野さんじゃないから、この書類にサインすることはできないよ」

 「えー、じゃあ今日から七海があたしでいいよ。代わりにあたしが七海になるからさ」

 「馬鹿なこと言ってないで、早くこっちに来てこれ書いてよ」

 「……もー、仕方ないなぁ。はいはい、わかったよ。書けばいいんでしょ、書けば」

 桐野さんはあからさまに面倒くさそうな態度でソファーから腰を上げると、ふらふらとカウンターの前までやってきて渡された書類に個人情報を記入していった。他人の個人情報を盗み見る趣味はないので、桐野さんが書き終えるまでエントランスの天井をぼーっと眺めていると、必要事項を書き終えた書類を受け取ったホテルマンが口を開いた。

 「何泊のご予定でしょうか?」

 「うーん、そうだなぁ……。じゃあとりあえず二泊で」

 おっと、今のは聞き間違いかな? 僕はすかさず口をはさむ。

 「ねぇ、ちょっと。泊まるのは今晩だけって約束じゃなかった?」

 「一泊も二泊も大して変わらないって。……まったく、七海は細かいこと気にするんだね。そんなんじゃ、これから生きていけないよ」

 どうして僕が説教されてるみたいになってるんだ。おかしいのは明らかに桐野さんの方なのに。

 そう言ってやりたい気持ちをぐっと抑えて肩を落とす。

 「……わかったよ。何泊でもすればいい」

 ——そう。僕が憧れる『大人』はこんなことでいちいち怒ったりはしない。

 どんな時も冷静かつ寛容で、自分の感情を優先することはしない。だからこれでいい。

 僕は巧みに彫刻が施されたエントランスの天井を見上げて一度深呼吸すると、二泊分の宿泊費を支払う桐野さんの横顔に目を向けた。

 どうして彼女は、ほとんど初対面と変わらない僕にここまで接しようとしてくるんだろう。一体どんな環境で過ごせば、彼女のような人間が出来上がるんだろう。

 ……彼女に〝恐れ〟は無いんだろうか——?

 疑問はいくらでも湧いてくるけれど、彼女の横顔からその答えを導き出すのは難しいみたいだ。

 「それでは、ごゆっくりお過ごしください」

 気が付くと桐野さんの宿泊受付は既に完了していて、当の本人は一早くエレベーターホールへと向かっていた。

 「七海、何してんの? 早くいくよ」

 僕はまたしても彼女の後ろをついていく形で止まっていたエレベーターに乗り込むと、ボタンを押して部屋のある二階へ上がる。そこからは僕が先頭を歩き、彼女を部屋まで案内した。

 「ここ?」

 「うん」

 僕はポケットに入ったルームキーを使って部屋の扉を開ける。

 「あぁ、そうだ。一応言っておくけど、僕の睡眠の邪魔だけはしないでね」

 「はいはい、分かってるって。出来るだけ静かにしておくからさ」

 そう言って桐野さんは目元と口を三日月のように細くしならせると、僕の後ろに続いて部屋の中へと入った。僕はルームキーをカードスイッチに挿し込み、真っ暗な室内を照らす。

 「おー、結構広いんだね。それに窓からの景色も綺麗じゃん」

 「うん。まぁ、ツインルームだからね。それに、海の見えるところに泊まりたいと思ってたから」

 「七海は海が好きなんだね」

 「まぁね。それより夕食は? お腹空いてるんでしょ」

 僕はベッドの上にスクールバッグを手放すと、背負ったリュックサックを置くこともせず、部屋の大窓から見える景色を食い入るように眺める桐野さんに向かって声を掛ける。

 「あ、そうそう! 早く食べに行こうよ。確か一階にレストランあったよね」

 「レストラン? そんなのあったっけ?」

 「あったよ。……七海、自分の泊まってるホテルなのになんで知らないの?」

 身体さえ休められればそれでいいと思ってました……なんて言ったら、また何か言われるに違いない。僕は下手くそな笑いでなんとかその質問を誤魔化して言う。

 「じゃあ、今夜はそこで食べよう」

 ……本当は今晩もコンビニで済ませようと考えてたんだけどな。

 僕はベッドの上のスクールバッグから白いビニール袋を取り出し、それを冷蔵庫にしまった。実は桐野さんと出会う前に、駅の近くのコンビニで買っておいたんだけど、まぁ仕方ない。明日の朝にでも食べよう。

僕は再びスクールバッグを肩にかけると、洋食にするか和食にするか一人でぶつぶつと悩みこんでいる桐野さんに声を掛け、一緒に部屋を出た。

 それからエレベーターで一階に戻ってくると、確かにエレベーターホールのすぐ傍にレストランは存在した。だけど、入り口に置いてあるメニュー表を見て、僕の脚はぴたりと動きを止めた。


 ハヤシライス(1200円)、ヒレステーキ(3300円)、蟹会席(6500円)……。

 

 「どうしたの? 早く入ろうよ」

 「どうしたのって……、ちゃんとメニュー見た?」

 「メニュー? あぁ、確かにどれも美味しそうだよね。特にカニ! 海が近いからきっと新鮮だよ」

 いや、全然違う。別に料理の良し悪しを気にしてる訳じゃない。そりゃあ、当然美味しいとは思うけど、 今僕が気にしてるのはもっと別のことだ。どうやら桐野さんにはそれが伝わっていないらしい。

 「いや、そうじゃなくて。値段見てよ、値段。僕こんなの払えないよ」

 「え? 値段? そんなこと気にしてたの?」

 「そんなことって……」

 「心配しなくてもあたしが奢ってあげるよ。一応、部屋貸してくれたお礼ってことでね」

 全く予想していなかった申し出に、僕は口を開けたまま硬直してしまった。

 奢ってくれるのは素直にありがたいと思う。だけど、僕たちはさっきに初めて言葉を交わした程度の仲に過ぎない。僕はこれまでの人生で歳の近い友達に何かを奢ったことも、奢られたこともない。だからはっきりとは言えないけれど、普通、高価なものを相手に奢るのってもっと親しい間柄の人間がすることで、もう少し躊躇ったりするもんじゃないのか? 

 それに、僕が桐野さんに僕の部屋に泊まろうとする理由を聞いた時、彼女は「誰かと同室の方が安く済むから」と言ったはずだ。もし、こんな高級な料理を僕に奢れるだけのお金を持っているなら、初めから部屋に泊めようとは微塵も思わなかった。

 僕は文字通り頭を抱えて尋ねる。

 「キミは一体何なんだ……」

 「あー、そういえば、まだお互いのこと全然話してなかったね。……それじゃあ、そこら辺のことも踏まえて、早く夕食にしよ」

 そう言って桐野さんは、風船みたいに軽やかな足取りでレストランの中へと入っていった。

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