平和な泥沼家

ブリモヤシ

第1話 ナスカンの謎

 事務所で仕事をしていると、妻から電話があった。予想した通り、小リスのチョビが逃げ出したのだった。

 私は、すぐ行く、と言い、事務所から歩いて五分ほどの自宅マンションへ戻った。

 学校が春休みに入るちょっと前に、娘に買ってやったシマリスがチョビという。それがしょっちゅう檻から脱走するので困っていた。息子にも買ってやり、そっちの名前はニコルという。都合二匹のシマリスが、リビングの窓際に並べた古い鳥かごの中に、それぞれ一匹ずついるわけだが、なぜか脱走するのはチョビの方だけだった。

 もちろん、対策は立ててきた。シマリスというのは手先が相当器用らしく、上下にスライドする扉を簡単に持ち上げてしまう。それじゃあ、というので扉を紐で縛っておけば、その紐を噛み切って脱走してしまう。脱走するのはたいてい昼間で、私は事務所にいるので、妻と息子と娘だけで捕まえようとするのだが、捕まらず、その度に私が呼び出されることになる。一度や二度ならいいが、今日で四日連続だ。こう続くと仕事も落ち着いてできない。だから、先日、ナスカンを付けた。

 ナスカンは、ネックレスの鎖の端についた留め金のような金具で、開いたり閉じたりする小さな輪っかが二つ繋がっている。これで鳥かごの扉をロックすれば、リスだろうが何だろうが絶対に逃げない……とペットショップの女主人が太鼓判を押したのだ。

 それでも逃げたとなると……

 私は、娘の満里恵にせがまれてリスを買ってやったことを、後悔し始めていた。

 家の扉を開けるとさっそく、「あそこだ!」「こっちだ!」という家族の嬌声が聞こえた。

 やはり逃げたのだ。……あの女主人もあてにならない。

 私はリビングに入り、家族と一緒にチョビを追いかけた。マガジンラックにつまずいて派手に転んだ後、なんとかチョビを捕虫網で捕らえた。

 今日は一度の転倒で済んだ……とホッとしながら、捕虫網の口を絞るようにして持ち、チョビを中に入れたまま鳥かごまで運んだ。

「おい俊樹」と息子の名を呼ぶ。檻をあけてくれ、と言って鳥かごに顔を向けた時、おや?

 ナスカンがかかっていた。

 上下にスライドする扉はハガキほどの大きさで、鳥かご本体と同じ細い鉄の格子でできている。その一番下の鉄線と、鳥かご本体の横棒の両方を、一つ輪の中に入れて、ナスカンがかかっていたのだ。

 逃げたのはチョビではなく、ニコルの方か、と思い、隣の鳥かごを見た。ニコルは元気に反復横跳びをしていた。

 やはりチョビだ

 となると、チョビはナスカンを開けずに、脱走したことになる。

「おい、これ」ナスカンのかかった扉を上下にガチャガチャやっていると、みんなが集まった。

 妻の郁子がナスカンに気づき、大きな目でパチパチと瞬きをして薄笑いを浮かべた。

「どういうこと?」

 チョビが扉以外のところから逃げたのだ、と説明しかけて私はやめた。妻は、私の説明というものを最後まで聞いたためしがない。テレビの天気予報を見ていて、寒冷前線と温暖前線の違いが分からないというから説明してやったら、途中から「うるさいから黙ってて」と言って機嫌を悪くしたのは最近の例だ。

「ほんとにぃ?」

 長男の俊樹は疑い深そうに言い、鳥かごに手を伸ばした。そして、私と同じように、ナスカンのかかった扉をガチャガチャやって開かないことを確かめた。

 扉から出たのでなければ、どこから?

 それが問題だった。

 鳥かごは、高さ四十センチほどの木製のCDラックの上に載っている。私は、片手にチョビを入れた捕虫網をひきずり、もう一方の手で、鳥かごの三角屋根の頂点にあるフックを持ち、かご全体を浮かせて回し、格子を点検した。黄緑の塗料はほとんど剥げ、赤黒い錆が出ていたが、鉄の格子が切れているようなことはなく、リスが抜け出せる隙間はなかった。

「ふむ……」家族の手前、とりあえず何度か頷いて顔を上げると、次女の満里恵と目が合い、続いて俊樹と目が合い、郁子と目が合った。一家の主としては、当然、何か言わなければならない。家族は、脱走の謎を明かす見事な解答を期待している。

「これは脱出マジックだな。チョビはマジシャンだったんだ。あはは……」

 息子と妻は目を逸らし、娘はプッと吹き出した。

「でも、どうやって出たんだろう?」俊樹は冷静に言い、ナスカンのかかった扉をガチャガチャやった。

「うるさいぞ。そんなことしてないで、早くそこを開けろ」

 俊樹は、不満そうに私を一瞥すると、ナスカンを外した。

 最近の俊樹は、こういう冷たい目で私を睨むことがよくあった。高校生にもなって、やっと反抗期を迎えたらしい。

 さっきから手の中でもぞもぞ動いているチョビを檻に入れ、扉にナスカンをかけ直した。チョビは鼻をひくつかせてエサ箱の臭いを嗅いでから、元気よくいつもの反復横跳びをはじめた。

「また自分で開けたのかしら?」妻が言った。

「いや、おそらくそれはないだろう」私は辛抱強く妻に合わせた。

 ナスカンは閉じたままだったのだ、などと説明して、妻を不機嫌にさせる気はない。一度不機嫌になると、妻はなかなか直らない。結婚生活も十年以上になると、そのへんのコツが分かってくる。

「やっぱりリス用の檻じゃないとダメなんじゃない? ペットショップの人が言ってたじゃない、鳥かごじゃだめだって」妻は言う。

「いや、これで大丈夫だ」と私。「だいたい、リス用の檻なんかを勧めるのは、店が儲けたいからに決まってるだろう。鳥かごと大して違わないくせに、リス用、と名前をつけて、高いものを買わせようとしているだけだ」お前のようにホイホイ買う人がいるのだ……という続きは呑み込んだ。

 新しい檻に買い替えたくない理由は、もうひとつある。この鳥かごには愛着があるのだ。私が若い頃、東京に出てきて一人暮らしをしていた時、淋しさを紛らせてくれた手乗り文鳥が住んでいた鳥かごなのだ。錆だらけで、壊れた格子のつなぎ目をハンダで修理した跡があちこちにある、見栄えの悪い檻だったが、できれば子供たちにも使い続けて欲しかった。

「満里恵はどうだい? この鳥かごで、いいだろ?」私は聞いた。

 満里恵はさっきからずっと私を見ていたらしく、待ち構えていたようにコクンとうなずいた。

「しかし、どうやって出たのかなぁ」俊樹は、ナスカンのかかった扉をしつこくガチャガチャやっている。

「ほんと、不思議なこともあるもんねぇ」

 どこまで分かっているのか分からない郁子が、そう言い残してキッチンへ戻ると、なんとなく一件落着したような雰囲気になり、娘も息子も自分たちの部屋へ入った。

 私が事務所へ戻ると、電話が鳴っていた。得意先からかと思い、慌てて出ると、妻からだった。

 チョビがまた逃げ出していた。

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