第3話 少女と、黒猫
少女と黒猫は、お互いに一言も言葉を発さないまま、白く伸びる道を歩いていた。
なんだか、気まずい感じがした。
サキは悩んだ。人の言葉を操る猫など当然見たことがないので、人として接するべきか、猫として接するべきか分からなかったのだ。
迷った末、サキは黒猫に駆け寄り……
くしゃくしゃと撫でまわしてみることにした。猫として接することにしたのだ。
「なんだてめェ、急に! 手ェ離せ、ぐ……ぐぉ」
黒猫はびくっと身を震わせたが、サキが喉元を撫でてやると、やがて黒猫は目を細め、なすがままになった。どうやらうまくいったようだ。
サキは、ほっと胸を撫で下した。
ゴロゴロと喉を鳴らして撫でられている姿を見ると、この子も案外普通の猫と変わらない。
ヨミが見ていたら、軽快に笑い飛ばしてしまいそうだな、と思った。
しばらくじゃれていると、先ほどまでのもやついた気持ちが少し楽になった。
一通り撫でると、サキは満足して、再び歩き出した。
また、先ほどの沈黙に戻るのも気が引けたので、今度は自分から話しかけてみることにした。
「ねぇ黒猫さん。そういえばあなた、なんて名前なの?」
「名前なんてねェよ」
黒猫の口ぶりは、ぶっきらぼうだった。
「そうなの? ほんとに名前、ないの?」
「そんなもの、無くても困んねェからな……」
「でもほら、今、私は困ってるよ。なんて呼べばいいかわからない」
黒猫は立ち止まり、サキのほうに振り向いて座った。
「お前、結構しゃべるんだな……」
サキはきょとん、として黒猫を見つめた。
そういえば、さっきまで、よくわからない状況と、ヨミの迫力になんとなく気圧されて無意識に緊張してしまっていた。
だが不思議と、この黒猫相手だとあまり緊張しなかった。
「ちゃんと戻れるって方法があるって考えたらなんだか元気出てきちゃった。それにヨミさんと話すのって、なんだか緊張するんだもん。それで、なんて呼んだらいい?」
「そうかい。まあ、俺のことは好きなように呼んでくれや……」
そう言うと、黒猫は再び歩き出した。
そばを歩きながら、サキは指を折り、黒猫に似合いそうな名前をいくつか考えた。
「
どの名前も、いつか自分がペットを飼うときが来た時のためにサキがひっそりとあたためておいた、とっておきの名前たちだった。
しかし黒猫の反応はというと、それはそっけないものだった。
「嬢ちゃん、センスってもんがねェんだな……」
サキはムキになって他にも様々な名前を出した。しかし、どれもしっくりとこない。悩み切った挙句、もっともシンプルな名前を選ぶことにした。
「それじゃあ、クゥちゃん! 黒猫だからクゥちゃん。どう、いいと思わない?」
「クゥって、さっきまでのよりはいくらかマシだがよ……」
「お、今までと違う反応。気に入ってくれたんだね」
「もうそれでいい。勝手にしろ……」
サキは、小さいチッ、という小さい音を聞いた。なんとこの猫は舌打ちまでできるのだ。
「クゥちゃん、よろしくね!」
サキは、クゥの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「てめぇも、変わったやつだな……」
今度はそこまで抵抗はなかった。
その後もサキとクゥは歩き続けた。
いつまで歩くのか、とサキが根を上げようとしたちょうどその時、クゥが立ち止まった。
「こいつを見な」
クゥは、サキの腰の高さほどの白い木の横に座った。
その木の、曲がりくねった幹は、盆栽のように見事だった。
しかし、葉ひとつない枝を見ていると、どこか空恐ろしさを感じるのだった。
「こいつはな、ここに迷い込ンだ奴の末路さ……」
クゥが爪先で幹をトントンとつつく。
クゥの言葉に、鳥肌が立った。
分かれた枝や、地上にむき出している太い根を見ていると、どこか人間の四肢のように思え、サキは空恐ろしさを感じた。
「あんまり居すぎるとな、魂がここに根付いちまうんだ。そして、生きることも死ぬこともできなくなる」
サキは目を閉じた。瞼の裏で、ヨミの暗い表情を思い出した。
あのとき、ヨミが自分を殺そうとした理由が、サキにはなんとなく分かった気がした。
いつか自分もこうなってしまうのだろうか。そう思うと、気が急いた。
「こいつらの魂は現世を離れたまま、ここで腰を落ちつけちまってんだ。こうなっちまうと、現世も、あの世も、どっちにも行けねぇ。ただここで、朽ちるのを待つだけさ……」
「じゃあ、ずっとここにいたら、わたしも……」
サキは、無意識のうちに、ガサガサに乾燥した、木の幹に触れていた。
サキが木に触れた瞬間、目の前がくらんだ。
そして、見たことのない景色が、走馬灯のように過ぎ去って見えた。
狭く、散らかった部屋。
部屋のあちこちに散乱した、丸められた紙切れ。
畳張りの薄汚れた床。
そして、目の前の原稿用紙がある。
右手が勝手に動き、筆が走る。
そして、筆はすぐに止まった。
自分のものではない、おそらく男性の、嗚咽が聞こえる
咳の音がする。血の匂いがする。書きかけの原稿用紙が血で汚れた――
サキは見えた景色を振り払うように、頭を振った。
まるで一瞬、魂が入れ替わってしまったかのようだった。
サキは、クゥに見えた景色を話してみた。
「……夢破れた作家の最期ってか? そいつは多分、無念のまま死んでいった奴の魂なんだろうな」
そう言ってクゥは、あくびをしながら再び歩き始めた。
「まぁ、ここにくるやつなんて、そんな奴らばっかりだ。気にすんな」
(こんな人たち、ばっかり……?)
ここには、こんなに悲しい記憶を持った人たちしかいないということなのだろうか。
なぜ、自分はここにいるのだろう。
答えが出てきそうで、出てこない。
喉の奥に何かがつっかえてしまっているような、そんな居心地の悪さを、サキは感じていた。
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