境界の迷い人
キリン🐘
第1話 迷える少女
気が付くと、サキの目の前には灰色の、開けた景色が広がっていた。
見渡す限りいっぱいに、白く、細い道が伸びている。
道の端っこから下をのぞくと、雲のようなものが敷き詰められていて下が見えず、頭上を見上げると味気のない灰色の空が覆っている。
「まるで、エッシャーみたい……」
目の前に広がる景色を見たサキは、数学の授業で習った画家の名前を思い出した。
マウリッツ・エッシャーは平面でしか描けないような特殊な空間を描いた、独創的な画家の名前。
サキがその名前を思い出したのは、目の前に広がる景色が、エッシャーの作品を思い出させたからだった。
道は上下左右に曲がりくねっていて、あちこちで絡まりあっている。
時折、階段のようなものは散見されるが、それが降りる階段なのか、昇る階段なのかはよく分からない。
そんな、なんとも表現しにくい、不思議な空間だった。
恐ろしいものであふれた危険な場所、というわけではなかったが、目の前に広がる景色と、ただ一人立っている自分を思うと、サキは不安になった。
「大戸サキ、18歳、高校生、体力には自信あり、顔は、そこそこ……。あ、来週、ハナコとカフェ行く予定入れてたんだった」
不安を振り払うように、ひとつひとつ、記憶をたどりながら呟いた。
なぜ自分が、今ここにいるかは分からなかったが、自分のことについてはなんとか思い出せた。
ふと、サキは、自分が学校の制服を着ていることに気づいた。オーソドックスなセーラー服。腰の部分は少し巻かれており、スカートの丈が短くなるように工夫されている、いつもの慣れた着こなしだった。
「そうだ。ここの風景、書き残しておきたいかも」
セーラー服の胸ポケットにあるノートをみて、そう思い立った。
サキは、印象深いものに出会ったとき、アイデアが浮かんだときなど、心に残したいものをノートに書き留めるようにしているのだ。
それに、なにかしていたほうが、気が紛れる。
サキはセーラー服の胸ポケットから、小さなノートと、ボールペンをとり出した。
「嬢ちゃん、ちょっといいかい」
「ひゃい!」
ノートを開こうとしたとき、突然背後から声をかけられた。
サキは驚き、手に持ったノートを取り落しそうになった。
それから、背筋を硬直させながら、ゆっくりと振り返った。
振り返ると、視線の先には着物を着た女が立っていた。
女は、派手な着物を着ていた。それも、黒と赤と金色の、派手な着物。
着崩した胸元からは、ほっそりとした鎖骨がのぞいていた。
「な、なんでしょうか」
サキはたどたどしく言葉をつないだ。
「嬢ちゃんって、たぶん私のことだよね?」
サキは着物の女に向き直り、答えた。
そうすると胸にすうっと空気が通ったような気分がした。
訳も分からない、誰もいない空間に一人放りだされて、気が滅入りそうだったのだ。
話せそうな相手が現れたおかげで、それまでの胸の閉塞感はいくらか楽になっていた。
「そう。あんただよ」
着物の女はどきっとするほど美しく、着物の間から見える肌は、生気を感じさせないほど白かった。
サキは取り出したばかりのノートを、胸ポケットにそっとしまった。
話す傍らで手に何か持っているのも、失礼な気がしたのだ。
「ちょっと手を見せてみな」
「手って、なんですか急に。というより、誰……」
話し相手が現れて安心したとはいっても、初対面であることに変わりはない。
しかも相手は、まるで見た目からして怪しさが全身から滲み出ているような女だった。
いきなり言うことを聞くのは、不用心な気がした。
「誰、か。そうだねぇ……。『ヨミ』とでも名乗っておこうかね。ま、そんなことはどうでもいいさ」
そういうと、ヨミはちょいちょいとサキの手を指差し、手を差し出すように促した。
「俺は眠てェんだ……、さっさと言うこと聞いてくれやァ……」
不意に、男の声が聞こえた。ガラガラのだみ声。
今まで気が付かなかったが、なんとほかにも人がいたのだ!
しかし、サキは周囲を見回してみたが、ヨミ以外に声の主に当てはまりそうな人を見つけることができなかった。
「何キョロキョロしてんだ嬢ちゃんよォ……」
今度は足元から声がした。
サキが下に視線を向けると、そこには黒猫がいた。じっとこちらを見つめている。
「そう、今、目ェ合ったろ。俺だよ俺」
サキは、目を疑った。なんと真っ黒な猫がしゃべりだしたのだ。ようやく話せる人を見つけたと思ったら、話せる猫も同時に現れたのだ。
「あんた、余計なこと言うんじゃないよ。この子がビビっちまうだろうが」
ヨミが子供を叱るように、ぴしゃり、と言った。
「まどろっこしィんだよ、さっさとしろや……」
黒猫はそういうと、少し離れたところで丸くなってしまった。
サキはそのやり取りを信じられないものを見る気持ちで見たが、やがて、すっと手を差し出した。
人のことばを操る猫、という現実離れしたものを見てしまった以上、ここは自分の常識の及ぶ場所ではないのだということを察したのだ。
それになぜだか、二人の会話を聞いていると、少なくとも自分を陥れようとしているのではないと、そう思えた。
「よしよし、いい子だねぇ」
ヨミは、差し出された手を握り、そして黙った。ヨミの手は、はっとするほど冷たい手だった。
「……やっぱり、か」
ヨミがため息をつく。
なにが「やっぱり」なのだろうか。やっぱりというからには、今の事態を想定していたのだろうか。この女性は、一体何がそんなに腑に落ちたのだろう。
答えのない問答がサキの頭をぐるぐると廻った。
「いいかい。よく聞きな」
ヨミは握ったサキの手を優しく放した。
「あんたはもう、生きちゃあいない。……かといって、死んでもいないがね」
サキは固まった。発せられた言葉を飲み込むことができなかったからだ。
ヨミの言葉が、意味を持ってサキの胸におりてくるのはもう少し時間が経ってからだった。
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