酔う本
天橋文緒
第1話 完結
世界的に革新的な発明が生まれた。
それは、読むだけでお酒を飲んでいるように酔っぱらってしまう文字だ。
一つの文字が偶然発見され、それから数千の文字も見つかった。
文字の組み合わせで複雑なバリエーションが生まれ、数多くの「酔う本」が生まれた。
今では、お酒を飲む人のほうが少なくなってしまっている。
「酔う本」は価格が非常に安かった。
ただ文字を印刷するだけで済むからだ。
さらに従来のお酒と比べアルコールによる体への悪影響が少ない。
しかし、一部の人達は「酔う本」が苦手だった。
年齢が高くなるほど、その傾向が顕著となっていた。
「お父さんもお酒なんか飲まないで「酔う本」に変えてくれないかしらね」
テーブルにビール瓶とグラスを置きながら、今年還暦を迎える妻が苦笑交じりに言った。
子供たちが成人し、家には私と妻の二人きりだ。
ビールを注いだグラスを妻に差し出しながら、言った。
「たまには晩酌に付き合ってくれよ」
「私は新しい「酔う本」があるからいらないわ」
テーブルの向かいの椅子に妻は座り、手に持った「酔う本」の表紙を見せた。
妻は掛けていた眼鏡の位置を直し、ページをめくり始めた。
「酔う本」が一般的になる前は、二人でよく飲んだものだった。
しばしの時間が経った。
私はビール瓶一本を空け、妻はコクコクと頭を前後に揺らしていた。
寝入った妻の手に深い皺が刻まれていることに、今さらながら気づいた。
随分と長い間一緒にいたなあ、と物思いにふける。
ふと妻がどんなものを読んでいるか興味が湧いた。
どれ、「酔う本」を私も試してみようかな。
「……。」
読み進めている内に、どんどん酔っぱらってきた。
だが、それ以上に――。
「目が痛いな」
思わず口に出た。
妻は単純に視力が悪いため眼鏡をしているが、私は年々老眼が悪化してしまっている。
ビールによる酔いも、「酔う本」による酔いもすっかり醒めてしまった。
私はいつの間にかずれていた老眼鏡をかけ直し、「酔う本」を閉じた。
世界中に普及した「酔う本」だが、一部の人達は苦手だった。
酔う文字には欠点があったのだ。
それは老眼鏡をかけている人にとっては、気持ち良く酔う前に目の痛みが先に来てしまうものだった。
酔う本 天橋文緒 @amhshmo1995
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