虚構世界の夢現境門
千珠沢煌也
序 章 召喚は外なる存在を招くもの
それは路地裏であった。
夕焼けの日差しも建物に遮られ、夜の帳が下りずともその奥は暗闇が大口を開けていた。
額から頬、顎へと伝って何かが滴る。汗かと思って拭ってみれば、ぬるりと嫌な感触があった。
赤い。
手を濡らすそれが、汗ではなく血であると気付くのにそう時間はかからなかった。
それがポタポタと地面に落ちていくのを一瞥すると、
残りの不良は、足元に転がっている不良を除けばあと二人。しかし侮ることなかれ。腐っても相手は召喚士。無能力の自分は同じ土俵にすら立てていないのだ。
鉄の匂いがする。
息が荒い。視界が霞む。足はダメージの影響か力が入らず、重心も安定しない。
それでも。
「……───まだだ」
虚勢でも蛮勇でも構わない。ただこの時だけ、足の震えが止まるのならば何でも良い。
「こんなところで負けられない。俺は
「……
スキンヘッドの不良が忌々しげに呟いた。
知ったことかと心の中で吐き捨てる。
無力上等。元より武器は
ならば粋がれ。
せめて強がれ。
力で押されたとしても、その意志だけは貫き通せ。
「来いよ間抜け共」
一度緩んだ力を引き締める。
改めて両手で拳を作り、ズタボロの体を引きずるように臨戦態勢を取り直す。
「テメェら全員薙ぎ倒してやるから、精々歯ァ食いしばれ……ッ!!」
「……で、不良に絡まれている女の子を助けるために無策で突っ込んでそのザマと?」
時は六月二六日。新学期が始まってしばらく経ち、大半の人間は新しい生活にも慣れ始めた時期である。
放課後の職員室で、神和の目には絶望の色がどんよりと浮かんでいた。ただえさえ深海のような深い青色の瞳をしているのに、今日は輪をかけて真っ暗だ。外から生徒の声は聞こえてこないのも気分を沈める一因になっているかもしれない。
『どこにでもいる平凡な高校生』
白いブラウスに黒いタイツスカート。服装だけ見れば敏腕な女教師そのものだが、低身長と童顔がミスマッチすぎて先生よりも先にコスプレという単語が思い浮かぶ。
そんな先生はわざわざ上から見下ろすために机の上に立っている辺り、どうやら上から言葉をぶつけることに重点を置いているらしい。教師なのに机の上に立つのは如何なものかとも思うのだが、碌な目に合わないのが目に見えているので口にはしない。
そして、神和も神和でボロボロであった。顔や腕に目立つような傷はもう残っていないものの、シャツやズボンなどで隠れている部分には未だに包帯が巻かれている。
しかもこれは一度や二度ではない。もはや不良に関するイベントは、絡まれている人を助けに行って喧嘩になるか、因縁をつけられて喧嘩になるかのどちらかだ。最近は後者が主になっているのも
だからこそ、彼女はその心意気は褒めるとともに解決手段について毎度ありがたく注意してくれるのだが、当の本人は一向に直す気配がない。
そして、キレると周囲の温度が五度下がるという逸話が比喩表現ではない雉郷先生は、例に漏れず職員室を凍えさせていた。おそらく職員の何人かは寒さで震えている。ちょっと耳を澄ませば、歯をカチカチさせている音が聞こえるし。
「まったく。
「は、ははは……。三人くらいならいけっかなぁって思ったんですけd
「あ?」
「すみませんなんでもないです」
視線が更に冷たくなった。それと同時に後ろに何か見え始めた。
黒い肌に、左前で着用している黒い和服。無造作に伸びた髪の間からは、鬼の仮面が覗いている。
鬼女だ。ちなみに性別は体のシルエット(主に胸)で判断した。判断材料がそこしかないとも言う。
しかも、それが八人。
揃いも揃って雉郷先生の陰からこちらを睨みつけている。しかも全員漏れなくドス黒いオーラをまとっているおまけ付きだ。物理的に目を逸らしたらそれはそれで怒られるので、『あぁ、怒っている人の後ろに厳つい顔をした仏像が見えるっていうイメージはこんな風なんだぁ』と全力で現実逃避することにした。
「……はぁ。まぁ一応貴方も無事みたいですし、彼女からも感謝していると聞いているのでこの件は取り敢えず置いておくのです」
『一応』と『取り敢えず』を強く言っている辺り絶対に根に持っている。だってその証拠に雉郷先生の顔が無表情に見える鬼の形相から変わっていないのだ。
「ところで神和くん。相変わらずバイトと喧嘩に明け暮れている毎日を送っているようですね」
「なんか悪意のある言い方に聞こえますけど……まぁ、その通りです」
「生活費を稼ぐためにバイトをする……結構なのです。困っている人を助けるために不良と喧嘩をする……まぁこれも百歩譲って良いでしょう」
神和の現状を並べ、雉郷先生は一度区切ってから言った。
「さて、期末試験が迫っていますが少しでも勉強をしていますか?」
「してないですが多分おそらくきっとなんとかなると思います」
根拠もないのにお気楽な発言をしたのがまずかったらしい。
目の前で雷が落ちた。
これもまた比喩ではなく、物理的に。
さて、『どこにでもいる平凡な高校生』だけどちょっと、いやかなり……だいぶ
学生の本分は勉強である。
死ぬかと思った。
おかわりと言わんばかりに数発の落雷が追加され、鼓膜を貫通するような大音量を叩きつけられたのだ。全身マナーモード。神和はこの時、落雷に怯える犬や猫の気持ちを理解した。
因みに、あの後正座をさせられみっちりと叱られた。小一時間くらいかかったかと思ったがどうやら一〇分程度しか経っていないらしい。主観的な時間の感じ方はこういう時理不尽だ。
「アンタ、もうちょっと穏便に済ませることは出来なかったの……?」
「
「まぁね」
職員室の向かい側、廊下の壁に背中を預けていたのは幼馴染の
陽依の身長は女子高生にしては少し高い。頭の天辺が神和の目線にあるくらいだ。化粧に頼らなくても美人と感じる整った顔立ちに、艶のある黒髪をツーサイドアップでまとめている。
勉学と部活動を両立させる文武両道。おまけにクラス委員長もこなす優等生。非の打ち所がない、とはこのことだろう。なお、不良と路地裏バトルを繰り広げていた時に助けてくれたのも彼女の『弓』のおかげである。
陽依は髪をくるくると指で弄りながら校庭の方へ視線を移す。先程雷が落ちた場所の一つだ。真っ黒焦げどころか大穴が開いている。
「にしても……あれだけ大きな雷が落ちてよく壊れないよな、ここの設備。パソコンとか一つや二つは逝ってそうなもんだが」
「そこら辺は理事長が特注品を仕入れてるらしいわよ。まぁこの学園は召喚魔術を授業に取り込むくらい積極的だから、設備もそれに耐えられるものじゃないとね」
「修復作業も早いしなー。この前も半壊した校舎が一晩で直ってたし」
私立
召喚魔術を対象とした研究施設は数多く存在するが、その中でも教育機関と研究機関を兼ねた唯一の学校法人。
東京西部に位置する学園であり、中等部と高等部があるため規模は広大だ。これだけでも結構びっくりだが、姉妹校が国内どころか世界中に存在する。まさかの
現代文や数学といった普通科の教科以外にも、『使役術』という名称で召喚魔術が時間割りに組み込まれている。千差万別である召喚獣の能力に合わせて、専攻する分野が変わる仕組みになっているのだ。
無償で提供される学生寮に、学園が提示する学力と出席日数の条件を満たせば無料になる授業料、召喚獣の性能に比例して給付される奨学金制度などなど。おそらく、生徒が自由に学ぶために立ち塞がる障害を全て取り除いた教育機関だ。
(設備が特注、修復速度も尋常ではないとすると、この学園ってもしかしてオーバーテクノロジーを抱えまくる秘密組織なんかと繋がってるんじゃないか? ……やめよう。
そんな少年の適当な思考は、幼馴染の何気ない一言で現実に引き戻された。
「それで? テスト勉強やってないんだって?」
「……………………はい」
「一応、理由を聞いておこうかしら」
「バイトですっかり……頭の中からすぽーんと……」
横からため息が聞こえてきた。やれやれという感じではなく、雰囲気的にダメな子を見た時の反応に近い。実際にやられると相当メンタルに来るあれだ。
「……アンタ、バイトのシフト結構入れてる上に、それ以外は喧嘩ばっかでロクに時間も取れてないんでしょ? 少しずつでも良いから勉強しなきゃ中間の二の舞になるわよ」
ご尤もである。
この不良少年は試験前に毎回似たような状況になるのだ。焦燥感でてんやわんやしているところを優等生の幼馴染に救ってもらい、なんとか試験を凌ぎきるところまでがお約束である。猿の方がまだ学習能力があると思う。
……正直言って、陽依の授業は下手な先生より分かりやすかった。それはもう、神和に勉強を教えるために準備をしてくれていたのではないかと思うほど。なお『家庭教師』に時間を割きすぎて陽依自身の点数がガクッと落ちた時には流石の当人も苦笑いしていたし、次の試験ではしれっと満点を取ってきて名誉を挽回してきた。自分の幼馴染はすごいのだ。
「ま、今回も頼ってくれれば協力するわよ。アンタに先輩とか呼ばれたくないし」
「いや流石にそれはないだろ。……ないよな?」
優しい幼馴染は笑顔であった。
「追試は定期テストより簡単らしいわよ」
「始まる前から諦めないでくれよクラス委員長ォ!」
短く笑われた。どこまでが冗談だったのか分からないが心臓に悪いのでやめてほしい。
「おっ、終わっていたか。今回もすごい落雷だったな。この調子で行けば避雷針の規模で世界を狙えるぞ」
「んな訳ねーだろダラズ。ってか大佐、そっちこそどうした?」
「同志に普及するためにエロゲを持ってきたのがバレた。今からその説教だ」
変態とエンカウントした。
持ち込み発言に関しては陽依に軽くドン引きされているが、彼も神和の同級生であり悪友だ。
筋肉質を通り越してムキムキの肉体を持ち、背も神和より頭一個分くらい高い。絵に描いたような巨漢である。また、特筆すべきはいつも頭に何か被り物をしている点だ。目の部分だけくり抜いた通販サイトのダンボールなんかを被っていることが大半だが、季節に合わせてかぼちゃやら獅子舞も被る。因みに今日は山羊だった。
漫画アニメゲームに影響されて、作品に出てきたことを調べては実践してを繰り返し、今や全知全能と噂されるほどの
だが完璧は存在しない。そんな変態大佐にも弱点がある。
「因みに誰にバレたんだ?」
「…………………………………………………………………………………………雉郷先生」
それは女性。
大人だろうと子どもだろうと女性に意識を向けられたらフリーズする。陽依とは比較的まともに会話できるが、それでもちょっと睨まれただけで抜け殻のようになるのだ。気絶して数時間目を覚まさないなんてこともザラである。
「生きて帰れよ……」
「俺、この説教が終わったら家で撮り貯めたアニメ消化するんだ……」
「それダメなヤツじゃん……」
大佐はこちらを振り向かないままサムズアップして職員室に入っていった。
今の雉郷先生は誰かさんのせいでそれなりに気が立っている。五分も保てば上出来だろう。
陽依が鞄を神和に差し出した。説教でまた雷が落ちるのが目に見えるからだろうか。どこか少し急かすようにとある場所を指差した。
「ほら、行くんでしょ『補習』。付き合うわよ」
やや落ちかけた夕日が校舎を照らしている。
神和が受ける『補習』とは、先生がでーんと構えて、生徒が教科書やらノートやらとにらめっこしながら勉強するイメージがあるあの補習ではない。
そもそも『補習』の科目が通常科目ではないのだ。
それは、この学園及びその姉妹校でのみ取り扱う特殊科目。
素質や血筋に関係なく誰にでも扱える魔術であり、最後まで科学で証明できなかった唯一の超常。
即ち、召喚魔術。
だが、召喚魔術の存在は別段秘匿されているわけではない。魔術の使用に必要な手順はインターネットで誰でも閲覧することが出来るのだ。
「一応、召喚魔術について復習しておきましょうか」
目的は暇つぶしだろう。儀式場が別棟にある関係でそれなりに歩く必要がある。普通は入学当初に使用してそれっきりであるため、頻繁に訪れることは想定されていないのだ。
「召喚魔術には『力』が流れている土地、召喚の門として機能する魔法陣、召喚獣を喚ぶための詠唱が必要よ。召喚獣は術者に最も縁がある超常的存在……まぁ例として挙げるなら妖怪とか神様ね」
「で、召喚獣と契約するとその力を自由に行使できる召喚士になれる、と」
「そういうこと。なんだ、ちゃんと分かってるじゃない。復習する必要なかったわね」
この手法は現時点で最も信用できる条件であり、事実、この手法を確立させたこの学園で失敗した例は聞いたことがない。
「ま、どうやら例外は存在するらしいけど」
「やめろ泣くぞ」
情けない脅し文句が漏れるのも無理はない。神和は一度も召喚に成功していないのだ。
因みに、最初に召喚魔術を実行したのは中学に上がった時である。詠唱を終えた後に起きた僅かな衝撃波以外何も起こらなかった。監督役の教員と揃ってぽかーんと虚空を見ていたことを今でも覚えている。
それ以降も『補習』と称して召喚魔術を試しているのだが、発動する気配すらない。これはもう奇跡的な確率で神和の召喚に不具合が起きているか、召喚獣側から『ごめんちょっと無理』と拒絶されているかの二択である。
「なぁ陽依ぃー。何で俺だけ召喚できないんだと思うー?」
「さぁね。気合が足りないからとか?」
「お前は召喚する時気合入れたりしたのかよ」
「全然」
「ですよね……」
そう、例に漏れず隣を歩く陽依も立派な召喚士なのだ。召喚獣は
……なんか考えていたら悲しくなってきた。別のことを考えることにしよう。
「にしても、今日の雉郷先生の寄り道授業よく分からなかったなぁ」
大佐の格好からも何となく察せるだろうが、この学園の校則は緩いところが幾つかある。学習範囲を終えていれば余った授業時間で何をしても良いというのもその一つだ。もちろん他のクラスに迷惑をかけないだとか、一応分類上は授業であるため課題をやってはいけないだとか、そういうルールに則ることが前提の話になるが。
その中で、教師側が唐突に別分野の授業を始めることがあるのだ。無論強制ではない。興味がなければ別に聞かなくても怒られない。邪魔さえしなければ、居眠りやボードゲームをしても構わないのだ。そんな脱線前提の授業のことを、生徒の間では密かに『寄り道授業』という俗称で呼ばれている。雉郷先生の寄り道授業の科目は概念や思想などを引っ括めた『哲学』であり、過去には『シュレディンガーの猫』や『ラプラスの悪魔』などを説明されたことがあった。今回の議題は確か『万物照応』だったはずだ。
雉郷先生的には知見を広げて将来に役立ててほしいといった想いがあるのかもしれないが、一高校生である神和にとってはやはり『なんのこっちゃ』である。
ふと、陽依の方に視線を戻す。
「……何だその意外そうな顔は」
「だっていつも寝てるじゃない」
「流石に昨日の今日で寝られるほど肝は据わってないです」
不良と大乱闘から雉郷先生の説教までの流れはお約束だ。
ただでさえ言いたいことが山ほどあるというのに、そんな状態の雉郷先生の前で堂々と寝たらどんな目に合うか想像もつかない。ひょっとしたら、本当にあの雷を脳天に落とされるかもしれない。……大袈裟だと言い切れないのが恐ろしい。
「何だっけ、確か違った考え方があるとかなんとか」
「想像を膨らませたってだけだと思うけどね。あの話し方だと、理論自体は雉郷先生の持論っぽいし」
万物照応。
あらゆる事象は他全てと感応し、照応しているとされる理論。
どんな些細なことであっても、それは世界の何かしらの本性や能力の一端であるといわれている……らしい。こういった思想は世界各地でも見られるようで、例として説明された『マクロコスモスとミクロコスモス』や『梵我一如』も、確かに似ているかもと感じた。特に『マクロコスモスとミクロコスモス』は、科学の発展によりその神秘性を失っているものの、錬金術や占星術などにおいて重要視されていた理論だったようだ。
雉郷先生の持論は、今思い出しても突拍子もない理論だった気がする。
『イメージするのが難しいですか? ではもっと身近なもので例えてみるのです』
雉郷先生は、くるくるとチョークを回しながら、まるで歌うように続ける。
『貴方たちの中にも一人や二人、空想の世界を作り出したことくらいあるでしょう? あぁ、
言い換えるのであればifの世界。今見ている世界を基準に、『もしかしたら』を前提とした仮想の世界。
『私は、それらの世界は確かに存在していると考えているのです。しかし我々は人間で、神話に登場するような神様ではありません。ですからその世界は安定せず、妄想で終わってしまうのです』
力が足りないとも言えるのだろう。神ではない自分たちにとって、それは『夢』でしかない。人間の見る夢は、目が覚めた時に消えてしまう。記憶に残らないものも多いし、残ったとしても短い期間で忘れてしまうものがほとんどだ。
『───では逆に、それら全てを安定させることが出来る存在がいるとしたら? 私達にとっては頭の中で描く妄想でしかない世界を、現実で実現し、運営し、管理している者がいるとしたら?』
誰もが頭の中で空想世界を思い描くように、自分たちの世界も何者かに定められているかもしれない、ということなのだろう。
証明なんて出来ない。この理論も雉郷先生の持論であり、やはり『万物照応』の理論から想像を膨らませただけと考えたほうがしっくり来る。
この仮説を信じろとは言わなかった。本人も信じられないような話であると理解していたのかもしれない。
だから、その時はこう締めくくったのだ。
『そうやって考え方を変えて、視野を広げることが重要なのです。ただ凝り固まって、一つの見方しか出来ないままでは、いつか足をすくわれますよ』
……思い返してみても『なんのこっちゃ』から変わらなかった。
だいたいそれなら最初から『視野の狭い見方はダメなのです』と言えば良いのに、何で宇宙やらリンクやらの小難しい単語ばかり並べていたのだろう。おかげで頭の中はぐちゃぐちゃである。
「……うーん」
「陽依?」
腕を組む幼馴染は少し眉をひそめながら、
「それよりもテスト勉強した方が建設的だったんじゃない?」
「……ちょうど自分でもそう思い始めてきたところです」
話が一段落したからか、もう一つ思い出したことがあった。
「そういえば聞き忘れてたけど、よく俺があそこにいるって分かったな。勘か?」
「まさか。偶々帰り途中で声をかけられてね、多分アンタが助けた子よ。で、その子が教えてくれた場所の周辺を片っ端から調べていったの」
場所を案内させなかったのは陽依の優しさだろう。不良に絡まれて傷心しているだろうに、もう一度同じ場所に戻れというのは酷である。そのため、神和が気になったのはそこではなく、
「……あそこって相当路地裏あったと思うんだけど」
「そ、だから虱潰し。アンタだって昔、そうやって私のこと見つけてくれたじゃない?」
「確かにそうだけど……っと」
目的地に到着した。
まるで豆腐のような石造りの建造物。神和の『補習』教室だ。
巨大な門が静かに佇み、来訪者が戸を開けるのを待っている。
「やっぱり駄目な気がしてきたよお姉ちゃん」
「取ってつけたように姉呼ばわりしない。気持ち悪いわよ」
冗談半分で泣きついたら容赦なく一刀両断されたので観念して扉を開く。
それなりに年季が入っているため、扉はやや重い。
体重をかけながら押し開けると、内装が露わとなった。
私立明星魔導学園の代名詞。召喚魔術の儀式場。
といっても
あるのは中央に刻まれた大きな魔法陣。そして、それを囲むように転々と設置してある篝火台だけである。
篝火台に灯る火は周囲を淡く照らしており、静謐な室内を不気味に演出している。しかし見渡せば目に入る換気用の穴がその雰囲気を見事にぶち壊していた。篝火台に至っても理事長が『雰囲気が出るから』と適当に置いただけであって、特にこれといった意味はない。設備や機材は軒並み特注のくせに肝心の召喚魔術はこの有様だ。何か色々雑である。
「ほら、ここで見ていてあげるから行ってきなさい」
頼れるお姉ちゃん(同い年)に背中を押され、諦め半分で陣の前に立つ。
期待はない。自信もない。半ば惰性で続けていることは間違いない。
それでも、と思ってしまう。
『もしかしたら』を捨てられない。
だから。
静かに目を閉じ、意識を集中させる。
「───五大の素、五行の元。秘匿されし七大神秘、人が束ねし奇跡をここに。
唱えるだけで空気が変わり、風もないのに炎が揺れる。
激しい運動をした後に感じるような血液の流れとも違う、言葉では説明できない何かが体の中を走り回っているような感覚があった。
「───杯の探索、石の創造、聖なる祈り。終わりなき旅の
召喚魔術を行使する際に何度も感じた奇妙な感覚。もはや親しみすらある現象であっても、その感覚に慣れることはない。
「───我は天の恵みに叛逆し、迫る災禍に反骨す。其は夢幻の郷にて
そして、告げる。
本来であれば詠唱中に悟るはずの、召喚獣の真名も分からないまま。
「汝の名は『4xil4s』。流出せし神威を以て、我が意思を示せ!!」
直後だった。
魔法陣が反応し、一陣の風が吹き荒ぶ。
灯火は消え、舞い上がった塵埃に視界を奪われた。
……知らない現象だった。
召喚獣の名前を告げた時、声にノイズが走り、自分でも何を言っていたのか分からなかった。そもそも人の言葉であったかさえ定かではない。そんな曖昧な状態のまま、視界が晴れるのを待つ。
顕れた存在を見て、神和は言葉を失った。
魔法陣の上。空中に、『それ』は佇むように浮遊している。
『それ』は人型だった。
『それ』は一三の翼を携えていた。
白く長い髪と、髪色とは対照的に黒い軍服。クロスされたベルトからは赤い腰布が垂れており、鎧のような強剛なブーツを履いていた。
その目もまた異質であった。本来白いはずの部分は深淵のように真っ黒で、瞳は炎のように爛々と燃えている。
顔立ちは一言で美しいと表現でき、顔だけでなく体のシルエットに至るまで男にも女にも見えた。中性的というわけではなく、男と言われたら男に見え、女と言われたら女に見えるという曖昧な印象という意味でだ。
浮いているので正確には分からないが、それでも神和より身長は高い。一九〇程度はあるのではないだろうか。
神々しさと禍々しさ。その両方が入り混じっており、形容するための表現が浮かんでは泡が弾けるように消えていく。どんな単語を並べても、どれもしっくりこなかった。
神ではない。天使の類だとも思えない。
しかし強引に、そして端的にまとめるとするならば。
(悪魔、なのか……?)
『名を名乗れ、人間』
「ん、えっ!?」
『獣』の声が思考に線を引く。
機嫌を損ねたかとも思ったが、何故か言葉の節々に感情を感じない。
『名を名乗れと言ったのだ』
「……神和。神和終耶だ」
『……コウナギ……?』
その時明確に、黒い『悪魔』は眉をひそめた。そしてぐっと、腰を折るようにして顔を寄せる。どうやらこちらの顔を確認しているらしい。一通り神和を観察すると、元の姿勢に戻っていった。
『
「真名って、漢字の名前のことか?」
「かしらね。生徒手帳でも見せてあげれば?」
いつの間にか神和の隣に移動していた陽依から自分の学生鞄を受け取ると、その中から生徒手帳を取り出して『召喚獣』に提示する。
『…………成程。下げて構わん』
「何か分かったのか……?」
『貴様が気にすることではない。さて、私の力を欲する謂れを聞こうか』
「えっ」
「えっ」
『ん?』
神和どころか陽依まで固まった。
召喚魔術が授業として扱われる以上、基本的な知識は持っている。既に風化した知識の中では、召喚する際の呪文詠唱時に召喚獣の真名を
召喚獣の能力は契約の完了とともに理解するため、意思疎通を必要としない。召喚獣が心を持たず、それに伴って感情や意思も持たないと謂われているのも理由の一つかもしれないが。
しかし、それとは別に召喚獣と会話が成立したという前例は聞いたことがない。詳しい内容は知らないが、過去に行われた召喚獣とのコミュニケーションはどれも失敗しているのだろう。
前例のないイレギュラーであった。
「聞くのか? 召喚獣が、そんなことを……?」
『愚問だな。「
「それは……」
『下らん感性だな。私が虚影に倣う義理などないだろうに』
確かに言う通りではある。理由がいかなるものであれ、神和の召喚獣はそういうものなのだと納得するしかない。今ここで契約せずにお引取りいただいても、目の前の悪魔らしき存在以外が召喚に応じるとも限らない。
ともなれば、やることは一つしかない。
「……分かった、言うよ」
『ヤツ』の顔は変わらない。
地上より少し離れたところから、人間を見下ろし、見定めている。
『───では問おう。何故力を欲する。今ここで、貴様の真我を示すが良い』
どうせこの先も行動を共にするのだ。いずれ知られることではあるし、隠すようなことでもない。
だから。
「俺は───」
邪悪な眼光に立ち向かうように。
その願いを宣言する。
「俺は、ヒーローになりたいんだ」
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