第二十八話 振り返る場所は遥か遠くに

「さあ、帰ろう」


 自身のトガのドレープで包み込むようにしてサリオンを促す声音が既に甘かった。この場から連れ帰る高揚を隠そうともしていない。だから余計に気恥ずかしい。サリオンは俯いた。

 公娼の大ホールに、大階段に、二階の廊下の手摺てすりから身を乗り出す群集に、どんな顔を晒せばいいのかわからない。

 今、レナがどんな思いでいるのかを考えれば、引き結んだ唇が折り曲がる。

 けれども甘美に囁かれるたび、サリオンの唇が花開く。形のいい白い歯を覗かせる唇は官能的に紅く色づき、群集を魅了する。

 そんなサリオンを誰の目からも隠したい。見惚れていいのは自分だけ。

 アルベルトは敵の陣でも見据えるように尖った目をして威嚇する。ただ、サリオンは玄関近くでひしめく人からミハエルを見出すと、かろうじて顔を上げ、無言のうちに会釈した。不安しかないこの先の王宮で彼に再会できるよう、祈るように彼を見た。


「足元に気をつけろ」


 門前に横づけされた馬車に先に乗り込んだアルベルトが身を屈め、サリオンに手を伸べた。踏み台は御者ぎょしゃうやうやしくランプで照らしている。側面の鉄の手摺りを掴んで上れば転倒などするはずもない。にも関わらず、自分の手を取れ、頼れと言う。


「……ありがとう」


 サリオンは消え入りそうな小声で礼を述べ、差し伸べられた掌に手を重ね、力強く握られる。ぐいと中に引き入れられ、クッションの効いた座席にいざなわれた。広々とした四人掛けの座席の後部に二人で並び、隙間なく体を密着させ合い、温もりを確かめ合う。

 程なく御者に扉を閉じられ、御者台に戻った男が二頭の馬にむちをくれ、馬車が動き出す。車輪が軋む音を立て、規則正しい馬の蹄鉄の音がする。

 皇帝を乗せた馬車の前後左右に、鉄の鎧で身を固めた衛兵が付く。物々しい行幸の一員となったサリオンは、思わず窓辺に身を寄せて、ガラスの窓に手をついた。


 レナ。

 俺はお前を愛していた。

 二人でここに連れて来られたその夜から、レナは客を取らされた。奴隷のΩは感情もなければ意思もない。βやαに快感だけをもたらす玩具にされたお前を心から愛していた。偽善者でもいい。裏切り者でも咎人とがびとでもいい。誰に何と言われても、俺はお前を愛していた。

 髙い塀に囲われた、堅牢な城塞にも似た公娼が見る間に遠退く。長かった夜が明け、王宮を頂く連峰が黄金色の輝きを放っている。

 野飼いの鶏鳴けいめいあかつきしらせている。

 

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