第二十三話


「キケロか? 俺だ。サリオンだ」


六階建ての最上階まで急な階段を昇り切り、

廊下の突き当たりのドアの前で囁いた。

ノックはしない。

ドアといっても粗悪な戸板だ。来訪を声だけで知らせることができるのだ。


程なくドアが押し開かれて、

三日月のように顎のしゃくれた細面の老人が顔を出す。

先の尖った鼻の脇にはヒヨコ豆そっくりのイボ(キケロ)がある。

彼を訪ねる多くの人がそう呼ぶように、

サリオンもキケロの愛称でしか彼を呼ばない。本名を知る必要がないからだ。


腰が曲がったキケロは小柄なサリオンを上目使いに一瞥した。

そして、入れと目顔で合図する。

サリオンが入ると同時に、背後でドアが閉じられた。


キケロの家は高層住宅の屋根裏の一角だ。

天井には傾斜があり、身体を屈めないと歩けない。

椅子もテーブルもベッドもないため、サリオンは湿った板張りの床に直に座り、

キケロは早速テラコッタ製の壺の中を漁り出す。

両開きの窓も板戸で閉めきられた狭い室内を照らしているのは、

獣脂ロウソクの手燭だけ。

その手燭も床に置かれていた。


「ほら」

 

振り返ったキケロがサリオンに麻布袋を差し出した。

雫のように膨らんだ袋の中身は、

キケロが薬草を数種類調合した経口型の避妊薬だ。


「ありがとう。いつも助かる」

 

サリオンは貫頭衣の内ポケットから財布代わりの布袋を出し、

キケロの骨ばった掌に銀貨を数枚乗せてやる。

取引はこれで終了だ。

天井の梁に頭をぶつけないよう中腰になったサリオンは、

そのまま屋根裏部屋を後にした。


妊娠できないサリオンには、公娼から避妊薬は支給されない。

帝国の王侯貴族の跡継ぎをもうけるための道具として買われた公娼の男娼にも、

避妊薬は渡されない。本来ならば呑むことも許されない。


もし服用が発覚したら、レナは公的機関の公娼で、

するべき仕事を怠ったとして逮捕されてしまうだろう。

それでもアルベルトの子供以外は頑として拒むレナの意を汲み、

サリオンは月に数回街に出て、秘密裏に薬を調達する。

 

以前は深夜に仕事を終えてから、館の外の公共浴場で疲れを癒し、

貧民窟の立ち呑み屋で腹ごなしを済ませたついでに、

貧民窟の男娼達が買い求めている避妊薬を、サリオンも売人達から買っていた。

彼等とは立ち呑み屋で肩を並べて飯を食い、

テーブルの下で物と金の交換もした。


しかし、アルベルトが護衛まで連れて来たせいで、

サリオンは貧民窟の住人に皇帝の『知己ちき』だと知れ渡ってしまっていた。

あえて貧民屈での淫行を楽しむような王侯貴族の放蕩息子だったのだと、

誤解した輩も多いだろう。

以来、貧民窟へは行っていない。

わざわざ強盗してくれ、誘拐してくれと振れ回るような愚行だからだ。


仕方なくサリオンは懇意にしていた売人から、別の売人の情報を買い、

やがてキケロに辿りついた。

キケロの経口薬で死亡したΩの噂は聞かないこと。

そしてβの居住区に住んではいるが、

ひとつ角を曲がった途端に現れる、

薄暗い裏路地に面した高層住宅の屋根裏部屋で、取引できる利点も大きい。


「それじゃ」


と、だけ言い、サリオンはキケロの部屋のドアを閉めた。

後は誰にも見つからないよう、公館に戻れさえすれば役目は終わる。

サリオンは階段へ向かう足を速めた。

ひとつしかない階段までの廊下を直進する間、

各部屋ごとの生活音が否応なしに聞こえてくる。

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