第十五話


「申し訳ございません。水差しのワインが少なくなってしまいました。注ぎ足してまいります」


サリオンは洗練された口調と所作で告げるなり、

イアコブの手をすり抜けて臥台から立ち、何事もなかった声音で微笑んだ。

持っていた銀の水差しには充分ワインは残っている。席を離れる口実だ。

腹の中は煮えくり返っていようとも、

作り笑いは故国での男娼時代に身につけた一種の『芸』だ。


公娼では、売り物の男娼以外の下男とは関係を持ってはならない規律がある。

にも関わらず、挿入さえしなければ『関係した』とは言えないと、

都合良く解釈する客も稀にいる。その典型がイアコブだ。


こうした客は自分の理屈が正論で、こちらの主張に貸す耳はない。

今までも時には直接的に、または暗にそれとなく忠告してきたつもりだが、

この先どんなに釘を刺しても無駄だと、サリオンは判断した。


「こちらにもワインを」

 

広間を忙しく歩き回る給仕係の下男を呼び寄せ、

ワインの残る水差しを手渡しながら耳打ちもする。


「厨房からワインをどんどん運んで来てくれ」

「わかりました」


腰高テーブルに水差しが置かれ、

給仕の下男は栓の空いた瓶からワインを注ぎ入れた。

空になった数本の瓶を手に下げて、広間を出ていく給仕係と入れ替わるように、

別の下男が入って来た。

彼もまた他国から奴隷として連行されたΩの一人だ。

長身で肌や髪は浅黒く、目鼻立ちがはっきりしている精悍な印象の青年だ。

 

サリオンがレナに付き添うことができない間、

レナに言いつけられた用事を受ける下男でもある。

サリオンは自分の方から彼の元へと駆け寄った。

側付きの代行は日によって変わるものの、

一度はレナに召し使われたことがある者に限られる。

レナの化粧の好みなど、ある程度承知している者達が代わりに付くよう、

サリオンが事前に手配するのだ。


「クリストファー様は退室をされ、イアコブ様をお迎えするレナ様の支度も整いました」

 

長身の下男は腰を屈め、サリオンにしか聞こえないよう声を潜めて報告した。


一晩に複数の客がついた場合、直近の客の退室時間は次の客には知らされない。

房事において伽が短い、長いは、考えようでは早漏等々の隠語にもなる。

客の名誉を損なう意味合いに変容する。

そのため、前の客が帰った時刻は、次の客にはわからせないよう配慮する。


サリオンのように昼三男娼に特化した側付きは、

前の客が床入りしてから退室するまで、次の客の宴席の相手をする。

その間、レナに臨時についた年かさの下男が顧客の退室時間に居室を訪れ、

客を見送り、正面玄関の見番役に退室時間を報告する。


その一方で、年少の下男達は次の客を迎えるために、

ベッドのリネンを取り換えたり、レナの入浴や化粧や身支度などの世話をする。

床引けした客も公娼内の浴場を用いて帰るが、

下男に案内されるのは客専用の浴場だ。


客は退室時間を迎えた時点で、買った男娼との接触は冷徹なまでに奪われる。

次客を迎える準備が整うと、その旨を饗宴の間まで告げに来る。

後は同じ手順のくり返しだ。

饗宴が終了したら、側付きが客を部屋まで誘って、男娼は客と床入りする。


「レナ様には、そのまま居室で待機して頂くよう伝えてくれ。デザートが運ばれて来たら、改めて呼びに行かせると」

「わかりました」


互いに囁き合った後、聡明さを匂わせる奴隷の下男は従順に退室した。

サリオンは広間に飾られた大理石の彫像の陰に回り込み、

緩みかけた腰帯を締め直しながら歯噛みする。

結び目も易々やすやすほどけないほど硬くした。


イアコブがクリストファーより身分も高く、

家柄も申し分ない上層階級の貴族でも、品があるとは限らない。

こんな下衆なαには、少しでもレナを近づけたくない。

自分が代わりを引き受ける。


サリオンは深呼吸して二、三度肩を上下させ、『廻し』の仮面を装備した。

下世話で悪趣味な客の饗宴が終了するまで、

イアコブとの息詰まる攻防戦が待っている。


彫像の陰から出た時には、柔和な微笑みを満面にたたえ、

サリオンは腰高テーブルの上に置かれた銀の水差しを抱え上げた。

中にはワインが並々補充されている。


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