籠の鳥は謳わない
若槻きいろ
第1話 籠の鳥は謳わない
言葉を綴る手は止まない。
陽を受けてペン先とクリップの金属が鏡みたいに反射する。
最初は力加減がわからずぐしゃぐしゃになった字も、今や自分の一部のように自由自在だ。
あなたがいなくなって、もうどれくらい経っただろう。あなたに宛てた日々の些事は、山となって当の昔に物語といって差し支えない。
ながいながい時間だった。
この結末になんとなしの予想を抱きながら、今日もあなたがくれた万年筆を手に取る。
これが壊れてしまうのか、それとも私が壊れるほうが先か。
我慢比べにも似た心持で、私は空白の紙に臨んだ。
私は人生を物語だと言った。
本で語られる人たちは、その人たちの人生で他人の私にはただの物語だった。まばゆくて輝かしい。時に鬱々としていて血生臭ささえある。よいこともわるいことも、本の中では絵空事に等しい。
そういう私に、あなたは言うのだ。
ならば、僕は本となろう。きみが好きな、きっと夢中になれるそれに、と。
意味が分からない。人は生身で本になれないのよ、と滔々と聞かせてもあなたはどこ吹く風だった。それでも、なって見せる、と。一度決めたら頑固者で融通が利かないのはとうに知っていた。
「きっとみせてあげるから」
閉じ込められた塔の中、薄暗く星が彩る窓の傍で、内緒話をするみたいに。
この土地によく似た砂色の髪がさらりと揺れる。そしてあなたの瞳のアンバーがたのしげにきらきらとひかるものだから、私は惚けてこくんと頷いてしまった。でも、仕方なかった。
ここにはもう、新しい本がなかったのだ。山とあった本はみな、物心がついた時からすべて読み切ってしまっていた。
ここは退屈だ。塔の周囲にはオアシスがあるけれど、少し歩けば近寄りたくない小さな村とその向こうは地平線まで先が見えない砂漠だ。
特別だからとここに閉じ込められた。私がいる限り、ここのオアシスの緑が絶えることはない。ここは最低限の衣食住が保証されただけの、小さな鳥籠なのだ。
あなたは私の手を取り緩く握る。じとりとかき始める汗に気づかれない様、するりと私は手を引っ込めた。
ああ、なんて惜しいことをしてしまったのだろう?
何も疑わぬその瞳は曇ることを知らない。
離れる時の、あなたの顔を覚えてる。
でもなんて言っていたのかは覚えていない。
ゆっくり動く唇だけが鮮明に記憶に焼き付いている。
いちばん大事なはずなのに。
そうやって、あなたは行ってしまった。
万年筆を指に乗せくるりと回す。勢いをつけて、それはポトンと指から離れた。含まれていたインクが紙に染みて跡となる。指先にも掠って付いてしまったそれを億劫な気になりながら擦って消すことを試みる。結局、ついたまま取れたりしなかった。
使い慣れた紙束をぽつぽつとけがしていく様をぼぅ、と眺める。あなたがくれた、遺した一つの。
あなたがいなくなる前、くれたのは一つの万年筆だった。ペン先と金具はあなたに一番近い色。黒い胴は何かの石で出来ていて、蔦のような花模様があった。この辺りでは入手するのも困難だろうそれは、あなたが元々持っていたものだった。
そんなものを、と私は思ったが、あなたは他にあげられるものがないからと私に託した。
お守りなんだ、とあなたは云った。
ならばずっと持っていればよかったのに。
なにもしない日々は退屈で私を侵す。鳥は空を飛ぶのに、私はここから動かぬままだ。
一緒に行けば違ったのだろうか。あなたが来る少し前に戻っただけなのに、とてもとても退屈で死にそうだった。
けれども村の人には近づきたくなかった。
村の住民は私に近づかない。汚れてしまっては困るから。
村の住民は私に多くの関与をしない。時代錯誤な彼らは、私の姿に神性を見ているから。ただすこし特殊な私を自分たちと同じと見ないのだ。
だから私が何をしようと、自分たちの平穏が続くならば何も言わない。ここからでさえしなければ何も言わない。
過去に、私に差し出したのは食事を運ぶ係の子どもとあなただけだった。
あなたも当時、食事係のお子と変わらぬ齢の子だった。私に差し出された子であることは、何も説明を受けなくても分かった。
あなたはこの土地の人間とは違う、異なった容姿をしていた。砂色の髪は軽やかに。光の加減で色味が多少変わる、珍しい黄玉に近い琥珀色の瞳。透けるほど白い肌は私に少し似ている。なんせ、この土地の人間はこぞってよく焼けたライ麦パンのような色なのだ。
それでも、私と同じ新緑の髪と瞳を持つ者はいなかった。外界との間を許す窓から見える、月に一度来るキャラバンの人々にも似た風な者はいなかった。つまり、唯一者。村全体が傾倒するのも無理はなかった。
私は気づけばここにいたし、この塔に閉じ込められていた。どうやら私がいる傍には植物が豊かになるらしい。そう気づいたのは、塔に入れられたと知って何年か経った後だった。
そのことを教えてくれたのはあなただった。
なぜここから出ないのだ、とあなたは私に問うた。
義理などない。食事だって村から分け与えられなくとも自分で採りに行ける。そう、どこへだって行けるのだ。ほんとうなら。
けれど私には出てゆくだけの理由がなかった。利用されているのは知っていたし、このままではあの村は私にどんどん依存していくだろうことも分かっていた。
「ここを出たとして、私の居場所は他の何処にある?」
結局のところ、知らないことの多い私には宛てなく彷徨うだけのやる気がなかった。
利用されるのならとことんされよう。ただしこちらも要求するのみだ。
「でも、ここじゃあ謳えないよ」
こんな狭い場所では、と。そう言うあなたは何だか悔しそうだった。砂漠の大地は乾いた風と押し付けるような熱風が押し寄せる。窓辺から一斉に入っては、駆け巡って天井へ狼煙のように吹き荒れた。
出会った頃より背が伸び、その顔は精悍さを増した。もうお子などとは呼べない。そのうち新しい食事係に代わることだろう。馴染みがいなくなるのは、すこし惜しい気もした。
「僕は、君が自由に飛び立つ様を見たい。心の思うまま、自由にはばたくのを」
でもきっと、今のままじゃあ駄目なんだ、と。翳りを知らない琥珀はきらめく。私のいっとう好きな宝石。私はそれを見れるだけでよかったのに。
境目が曖昧な季節が一回りして、とうとうあなたが食事係から外される日が来た。
「君が、自分の物語を綴れるように願ってる」
それが出来たら、と声が途切れる。もうとっくに私の背を抜いたあなたは。
「 」
風がなんとも強かった。髪が視界を遮った。鳥が一斉に羽ばたいて、耳に届いたのは飛び立つ羽音だけだった。
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