伸び

四百文寺 嘘築

一.

「ならば君はこの美しい大樹を見て、何も思わないと?」


 サウナを野に放ったような暑さ、八月。僕は大いなる力によって、クーラーの効いた部屋から引きずり出されていた。夏休みの恩恵を受けて、平穏に暮らしていたところを無理やりにだ。


「思いませんよ、そんなこと。発酵した樹液のにおいと、肌にへばりつく湿気に気が滅入るのみです」


 僕を外へと引きずり出した大いなる力その人が、特に面白いこともなく、ボーッとしていたところへ、くだらない質問をしてきたので、一切の同意の余地なく否定した。夏は嫌いだし、加えて言うなら外に出るのも、暑いのも嫌いだ。そもそも、熱中症だなんだ、クーラーは我慢せずにかけろだなんだといわれる世の中である。そんな中、ジメジメと不快な真夏の熱気に自ら飛び込んでいくなど、手のこんだ自殺でしかない。


「そうか、それは残念だ」


 言葉の割には、張り付いたような鉄仮面を少しも歪ませることなく、口のみを動かしてつまらなそうに答える様子に、心底うんざりした。もちろん短い付き合いではない。この人の鉄仮面と、変人ぶりには慣れっこだ。しかし、一人で勝手に変人をしているのと、僕を巻き込んで変人をするのでは、僕にかかる負担が天と地の差になる。とはいえ、そんなうんざりする気持ちも、ここ最近はすぐに消えて「勝手な奴め」と、すぐに切り替えられるようになってしまった。もちろん、だからと言って巻き込まれて嬉しいわけではないが。


 ふと上を見上げると、覆いかぶさるような木々の隙間から、夕暮れを知らせる橙色の空が見えた。


 目の前の大樹や、頭上の木々からもわかる通り、僕たちは現代社会の乗っかったコンクリートジャングルではなく、臭い土の乗っかった学校の裏山にいる。裏山とはいえども、学校の敷地ではないので、校則に「入るべからず」などの記載はない。しかしながら、スズメバチやヘビ、はたまた危険人物など、出会ってしまうと厄介な連中がたびたび目撃されている。にもかかわらず、面白半分や怖いもの見たさで入っていく学生が絶えないので、教師陣は頭を悩ませているようだ。


 そんなお世辞にも安全とは言い難いこの場所に、なぜ連れられてきたのか、僕はまだ知らない。まさか、この無駄に偉そうな大樹を僕に見せるためとは言うまいが。


「先輩、そろそろなんでこんな所に連れてこられたのか、聞いてもいいですかね?」

 口を開いたその時、彼女は大きく跳躍し、巨大な根の上へと登った。


 マングローブのように、とは言わずとも、よく似た様相を呈するそれは、どうやら長い年月をかけて周りの土が流失したことで、地表に近い部分の根が露出し、剥き出しになっているらしい。さっきは「何も思わない」と返答したものの、改めて見てみれば美しいと言えるかもしれないと、少し反省する。


 先輩はそのまま僕の問いかけも無視して、苔むした根の上でバランスを整え、大きくしゃがみ込む。そして、大樹をぐるりと円状に幹を囲む根の、ちょうど自分が立っている次のものへと狙いを定め、また跳躍した。


 白のセーラー服が、緑の中を踊る。


 次々と根を渡っていく姿が幹で隠れた頃、僕は大きくため息を吐いた。そんなため息も、森林いっぱいに愛を叫ぶセミたちの声ですぐにかき消され、うやむやに溶けていく。


 不意に、ぴょんぴょんと根を渡っていった腰まで届くような長い黒髪が、脳裏でチラチラと光る。実際に眩しかったわけでもないのに、反射的に目を瞑った。


 美人でも不細工でもない顔立ち、高くも低くもない身長、良くも悪くもないルックス、問題ありの人格。どうやら僕はそれら全てに、つまりは彼女に、心底惚れているらしい。


 きっかけというきっかけはなかった。けれども、同じ高校の同じ文芸部所属、僕たち二人以外は籍を置いているだけの幽霊部員ともなれば、思春期真っ盛りの僕が唯一まともに接することができる女性である彼女に惚れるのは、よくよく考えれば時間の問題とも言えるかもしれない。まあ、ほとんどの幽霊部員たちは、彼女の突飛すぎる行動に恐れをなして、消えていったわけだが。


「でも、よりにもよってそれが学校一有名な変人なんてなあ……」


 僕の諦めのような独り言は先ほどのため息と同様、セミたちの声にかき消され――

「私のことがどうかしたか?」

――なかった。

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