隣の彼女

悪ッ鬼ー

目が映すもの


「君は何で入院してるの?」


 それが、僕の入院生活で最初に発した言葉だった。

 その言葉の向かう先は僕の隣のベッドの子。


「何でもないの。ただ、やっぱり何でもない」


 『ただ』何なのだろう。とても気にはなったが、視覚を失った絶望で聞く気力なんて無かった。

 今の自分には、彼女が話してくれるのをただ待つ事しか出来ないのだ。

 それから何時間経っただろうか。視覚が無いせいで時計も確認が出来ない。

 ずっと、ずっと待った。親を。あの憎い親を。だが飽く迄も親だ。自分を心配している。そう信じていた。

 ―————来ない。

 思わず涙を流してしまった。孤独とはこんなにも辛いものなのかと。

 ふと、右手に柔らかな感触が伝わった。


「大丈夫?」


 隣の女の子だった。

 彼女の手は冷たいが、心と涙腺を熱くするだけの力は宿っていた。


「孤独は寂しい、それは私も一緒だよ」


 ここで、僕は寂しいのは自分だけじゃないと気付いた。

 同時に、『ただ』の続きの言葉は、何となくだが察することが出来た。

 この子も寂しがっている。目には見えないが、彼女が悲しく微笑んでいるのが脳裏に浮かぶ。


「そうだ、本を読んであげる。目が見えないなら本も読めないでしょ?」


 彼女は、僕の暇を潰してあげようとしているのか、それとも僕の心の穴を埋めようとしてくれているのか。

 僕は前者でも後者でも嬉しかった。そして僕は、その日を境に彼女に恋をした。

 小さい身ながら、彼女への妄想は大きく膨らむ。

 声は風鈴のように、静かで透き通っている。手も華奢で、指の一本一本折れそうな程細い。そして何よりも優しい。僕のお姉さんの様な存在。

 どのような顔をし、どのような体格なのかを想像するのが、僕の楽しみの一つと成ってしまったのだ。

 いつも本を読んでくれたり、自分の将来の夢を聞かせてくれる。それは、どのような娯楽にも引けを取らない魅力があった。

 だがある時、僕にとって不幸な話が入ってきてしまった。


「君の両親が君を見捨て、どこかに引っ越したようだ。残念だが、君は別の病院に移動してもらう事になった」


 それを聞き、今まで楽しかった彼女との思い出が一気に頭に流れる。視界が無いため、それは鮮明に流れた。

 もう、涙が止まらなかった。

 見捨てられたことに嘆いているのではない。もう、彼女に会えないと思うと、不思議と涙が溢れ出て来てしまうのだ。


「嫌だ。行きたくない。僕は、ここにいたい―――――」


「そうわがまま言ってもねぇ。お金が入らないんじゃ、この病院は君を養ってはいけないよ」


 自分のこの身勝手なわがままが許されるはずないのは分かっている。だが、意地でも残りたい理由があるのだ。

 愛情を知らなかった自分が、初めて人のぬくもりを知ることが出来たのだ。彼女のおかげで。

 親からも見捨てられ、大好きな彼女にも会えない。自分はそれでも生きたいと思えるだろうか。いや、思えるはずもない。

 だが、闇の中に一筋の大きな光が注ぎ込み僕を照らした。


「お金が有れば良いんですよね」


 その正体は彼女の声だ。


「で、ですが、管理費用や食事費用など、高額ですよ。いくらあなたとは言え、そんな大金を動かすなど無理があるのでは―――――」


「いえ、出来ます。私の弟の様な存在の為なら、いくらでも病院に支払います」


 僕は泣くことしかできないのだろうか。彼女の言葉で、また泣いてしまった。

 彼女の声を聞き、自分は大好きな子の前で泣いている事を知った。だから、今回は噛みしめ、彼女と医師の戦いを残された聴覚で聞く。


「わ、解りました。では、親御様に話を通しておきます」


 僕はここに残って良いと安堵した。だがそれも束の間。


「何を勝手に大事な資産を、こんな見ず知らずの汚らしい餓鬼にくれようとしているんだ」


 その声は部屋を駆け巡る。

 初めて聞く威圧的な声。それは怒声とは違い、まるで地の底から聞こえるかのように低い声だった。

 一瞬で場の時が止まる。静止した時間を再び進めるのは、止めた本人だった。

 革靴が床を叩く音は、僕達の秒針を動かす。

 姿は良く分からない。だが、自分の親とは別の意味で恐い人物だと言う事だけは感じ取れる。


「お前の言う金も、私が働き溜めた金だ。お前が使う権利はない」


 威圧的な声に対し、僕以外にも、この部屋にいる人間は全員脅えた。


「何とか言ってみたらどうだ。それでも私の娘かね」


 圧制するその声は、強張っていた彼女の口を開かせた。


「私には守りたい人が出来たのです。だから、私が最後を迎えるまで―――――」


「馬鹿なことを言うな!」


 彼女の発言を遮り怒声が響く。


「一人の親として、お前に言う。お前自身は私たちの宝物だ。お前が言いたいのは移植の件であろう?」


 移植と言う単語が耳に入った。

 僕の目を移植で治すことが出来る。そう、内心歓喜してしまった。そんな自分が憎くなるなんて、この時の僕自身は思ってもいなかった。


「はい。私の目を、その子に移植させてください」


 頭の中が真っ白になった。彼女は自分の目を使い、僕の目を治そうと言っているのだ。

 そうしたら、次は彼女の目が見えなくなってしまう。そう思った僕は咄嗟に。


「駄目。僕のために目を移植するなんて、僕も許したくないよ。だったら別の病院に移動したい」


 僕は親からも見捨てられ、病院を移動し彼女と会えなくなる。そんな事より、彼女が自分と同じ目に遭う事がどうしても許せなかった。

 だったら、僕は他の病院に移動する。それで、彼女が不自由なく暮らせるのなら、とても大好きな彼女が視界を失わずに済むのなら。

 だが、彼女の父親の口から、予想もしていなかった事が吐き出される。


「分かった。君を試させてもらった。娘の事を自分より考えてくれている君を認めよう」


「え?」


 何を言っているのか分からなかった。

 認める―――――何を?


「移植を認める。お前があの子を選んだのなら、親である私とお前の母親も、頷き許してくれるだろう」


 勝手に移植を認めるなんて、そんなのは僕は望んでいない。まだ僕は―――――


「—————彼女に本を読んでもらいたい」


 唐突に口にした言葉は自分の欲だった。彼女が目を移植するなら二度と本を読んでもらえない。だから最後に。


「では、私たちはこれで。また移植の件については明日、話をしに来る。行くぞ」


「よろしいのですか?」


 医師と彼女の父親は会話を連れて部屋のドアを閉めた。ここには、もう僕と彼女の二人きりになったのだろう。


「じゃあ、読むね」


 早速、僕の要望通り彼女は本を読んでくれた。

 僕はいつもの様に楽しみながらは聞けなかった。僕の中は、罪悪感と虚無感に支配されていたのだ。

 僕は彼女に本を読ませて目を奪う。こんな自分に視界を取り戻す価値なんてあるのだろうか。


「―――――そして、病室の男の子に、私はこう言いました。『大好きです』と」


 一瞬ドキッとした。その対象が自分の事の様に感じたからだ。

 目は見えないが、彼女の方を向いてしまう。


「ねぇ、君は私の事—————好き?」


 唐突に放たれた言葉によって喉に言葉が詰まる。


「今の質問は、本には書かれていない。私からの最初で最後の質問」


 僕は覚えている。質問はこれが初めてではないと―――――。

 僕が寂しさで思わず泣いた時、心配して大丈夫か質問をされた。あの時はその質問に答えを返さずとも彼女は察してくれた。

 だが、今回の質問は察する事の出来ない内容。だから、僕は最後の償いとして答えるべきだと思った。いや、答えたかったのだ。


「大好き!」


 そう僕は様々な言葉からその言葉を選んだ。語彙の無い自分を恥ずかしく思うが、答えとしてはこれ以上のものは無いだろう。

 言葉は無駄に飾る必要はない。その率直で素直で、ありふれた返答に僕の気持ちが全て込められていた。

 だからその一言だけで、質問に対する答えは十分だと感じた。


「ありがと。さ・・なら」


 彼女の最後の言葉は、声量が小さく聞き取れなかった。彼女が丁度向こうを向いたからだろうか。


 ―————誰かの話し合う声で目が覚める。今が朝なのか確認できない。

 無意識に瞼を開けるが暗いままだ。


「起きたね。では、早速だが手術を開始する」


「へ?」


 寝起きですぐには会話に付いていけなかった。だが、意識がはっきりしてくると、昨日の出来事を思い出す。


「じゃあ、一旦さよならだね」


「—————」


 口を開くが、出てくるのは空気だけだった。悲しそうな声を出す彼女に、かける言葉が見当たらなかったのだ。


「視界が戻ったら、少し恥ずかしいけど手紙書いたの。後で貰って?じゃあね」


「うん。またね」


 一旦の別れを告げあった後、徐々に意識が薄れていく。

 —————夢を見た。彼女と共に、家で平凡に暮らす夢だ。それは幸せそのもので、実現したら良いのにと何度思っただろうか。


「手術は無事終了しました」


「先生」


「あぁ、八月二七日午前七時九分ご臨終です」


 目に光が差し覚醒する。閉ざされた瞼を開けると、やっと目に色が付いた。


「見える―――――」


 ポツリと言葉が流れ出た。

 感動した。数か月だろうが、数か月も闇以外見えていなかったのだ。


「起きたか」


 目が覚め最初に飛びこんできた声は、彼女の父親の声だった。

 その人は、威圧的な声とは裏腹に表情はどことなく悲しかった。

 ふと横を、彼女がいる場所を見る。が―――――。


「あ、れ?」


 彼女の姿が見えなかった。


「これを預かっている。貰ってやってくれ」


 彼女の父親が差し出したのは、一通の純白の手紙だった。

 そんな事より彼女がどこにいるのか知りたかった。


「君が聞きたいことはもう分かっている。退院した時に、出来るだけ派手でない服装でこの場所に」


 また手渡されたのは、一枚の紙に地図を書いたものだった。


「最後のさよならだったのか―――――」


―――――彼女の目は全てを美しく見せた。だが彼女は彼女を映さず、灰色の墓石だけを映す。

 その前で僕は手を合わせ、脳裏に彼女との思い出を流す。


「ありがとう」

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