【2月16日】夏木さんの笑顔
王生らてぃ
【2月16日】夏木さんの笑顔
「はーい、笑ってー。チーズ」
「ふへふふ」
夏木さんは笑顔が致命的に下手だ。
本人は笑っているつもりだと頑なに言い張るが、なんど見てもぜんぜん笑っていない。私は素人ながらもカメラマンの誇りにかけて、なんとしてもこの人の笑顔を写真に収めたいとあれやこれやを尽くしているのだがどうしても笑顔を見せてくれない。
「笑ってってば。笑顔! スマイル!」
「笑ってるよぉ。ふふふ。ふふふふふ」
「ふふふって口で言っても笑っていることにはならないよ。口の端をあげるの。ほっぺを持ち上げて、目をきゅっとするの」
「こう?」
狐みたいな顔になった。
「ごめんね、ほのかちゃん」
カフェでお茶をしているとき、目を伏せて夏木さんは言った。
「なにが?」
「私、表情かたくて」
という、申し訳なさそうに目を伏せる表情はとてもやわらかく、人形みたいに美しいのだが。
そう、夏木さんは笑顔以外は完璧なのだ。150センチぴったりの身長、ほそい手足と身体、でも適度に女性的なボディライン。長い髪は癖が全くなく、真っ直ぐで綺麗で、色白で、声は透き通っていてとても小さい声なのによく響く。
大和撫子が擬人化したような完璧な美少女だ。笑顔がド下手なことを除けば。
「でも笑ってるつもりなんだよね?」
「つもりじゃないんだけど……」
「なんか好きな芸人さんとかいるの?」
「え、六代目圓楽師匠……」
「落語かぁ」
渋いところをついてくる。でもイメージにはぴったりだ。
ネットから六代目圓楽の「芝浜」を引っ張ってきて、イヤホンで夏木さんに手渡した。夏木さんはクールなそぶりでそれを見て、イヤホンで聴いていた。
数十分後。
「どう?」
イヤホンを外した夏木さんに尋ねた。
「超面白かった」
と、眉一つ動かさずに夏木さんはうなずいた。
「あ、そう……」
「やっぱり六代目圓楽さんはすごい。なんていうか、人情に溢れた噺っていうか、聞いてるこっちのエモが刺激されるっていうか」
「刺激されてた?」
視聴している間じゅう、眉一つ動かさなかったように見えた。
「笑えるところはちゃんと笑わせるし、泣けるところは泣かせるし。ほろりと目に涙が……」
「滲んでる?」
「でも、だいぶ笑ってたよ。今のは。流石に分かったでしょ?」
「ごめん……」
「あ、そう……」
しゅん、と肩を落とす夏木さん。
そういうエモはよく表に出るのになあ。
私は夏木さんと出会って以来の数年間を、彼女の笑顔を見るためだけに費やしていると言っても過言ではない。いや過言だ。それ以外にも人物や風景の写真を一杯とっているし、被写体を求めてあちこちにひとりで旅行したりすることもある。だけど夏木さんと一緒にいる間は、ずっと彼女を笑わせることだけを考えている。
この表情の硬さだけはどうにもならない。
いつこの子は笑っているんだろう。
「小さいころのアルバムとかある?」
「なんで?」
「小さいころと今だと表情とか、ちょっとは違うかなあと思って」
「それじゃあ、今日はうちにおいでよ」
「えっ。いいの」
「うん。ちょっと散らかってるけど」
というわけで放課後はお言葉に甘えて夏木さんの家にお邪魔することにした。
夏木さんの家は最寄りの駅からでも十五分ほど歩いた辺鄙な場所にあった。住宅街の中でもぽつんと孤立した場所にあり、周囲は車一台分の狭い道路で区画され、隣には「売地」と書かれた看板が立てられロープアウトされた空き地がぽっかりと空いている。
「ちょっと待ってて。中、片付けるから」
夏木さんはそういって扉を閉めると、がちゃん、と鍵を下ろした。ずいぶん重たい音だな。家の中から、かすかに、足音と、階段を登ったりする慌ただしい音が聴こえてくるけれど、それにはあまり耳を傾けないようにした。私が同じ状況だったら、聞き耳を立てられるのは嫌だ。
「お待たせ。中へどうぞ」
「お邪魔します」
夏木さんはセーラー服を脱いで、浴衣のようなものを着ていた。
「普段着? それ?」
「うん、家の中ではいつもこんな感じ」
中は外見よりずっと広かった。玄関を入ってまっすぐ伸びる廊下の、右手側はリビング、その奥にキッチン。左手側は襖で区切られた和室。そして、やや急な階段の上にはさらに部屋があることがうかがえた。
夏木さんはひとまず私をリビングに通した。狭くて、ソファとこたつ、それからテレビが並ぶだけのシンプルな部屋だ。
「お茶を淹れます」
謎の敬語で夏木さんは言った。
「なにがいい? コーヒーとか、煎茶とか」
「あ、じゃあ、ほうじ茶があれば……」
「はい。ほうじ茶ね」
キッチンで夏木さんがてきぱきと準備をしている間、私はこたつに入った。中はほんのり温かい。こたつの上の正方形のテーブルには、中央に複雑な切り絵模様の鍋敷きが置かれているだけで、こざっぱりとしている。
「お待たせしました」
夏木さんはお茶をお盆に乗せて私の前へと手渡した。
「ありがとう」
「お菓子とかはないの。ごめんね」
「いえいえ、お構いなく」
ずずずとほうじ茶をすすっていると、夏木さんはソファに隠れるように設置された引き出しから、分厚いアルバムを取り出した。
「これ、私が小学校の頃のアルバム……」
「ちょっと、拝見します」
良く知らない小学校のアルバムの中に、あっさりとその名前はあった。
夏木姫子。
クラス全体の集合写真の中で、彼女ひとりだけが異様に浮いて見えるほどだった。小学生にして、いまとほとんど変わらない容姿、飛びぬけた美少女だ。
「あんまり変わらないね」
「そうかな?」
修学旅行の写真。卒業式の集合写真。学芸会で木琴を演奏している写真。いろいろなシーンに夏木さんは写っていた。周りには男女問わず、何人かの友だちのような子どもたちの姿があり、それなりに社交的な雰囲気を醸し出している。
しかしひとりだけやけに大人びている。雰囲気が違う。
でも、どの写真を見ても……
「ぜんぜん笑ってないね……」
「あの、中学の奴も……」
中学校のアルバムも一緒に見せてもらった。
既に完成された美しさ、という風で、紺色の芋っぽいセーラー服がぜんぜん似合っていない。ここでもいろいろなシチュエーションで、夏木さんの姿はあった。
「へえ。吹奏楽部だったんだ、パートは?」
「ホルン……」
「これ、金賞って書いてあるけど?」
なにかのコンクールで賞を取ったときのようだ。
涙を流しながら賞状を掲げる先輩らしき人物と、周りで満面の笑みを浮かべる顧問の先生、そして部員たち。
その中にあってひとり、笑顔を見せていなかったのが、他でもない夏木さんだった。
「ぜんぜん喜びをあらわにしてないね」
「いや、すごくうれしかったんだけど……」
「顔に出てないよ」
「これ、全国のコンクールだったんだよ。ホルンのパート、凄く難しい部分がある曲で……めちゃくちゃ練習したんだけど、ぜんぜんうまくできなくて。でも、ぶっつけで本番でやってみたらうまくいったの。それが凄くうれしくて」
「へえ……でも、高校では吹奏楽部やってないんだ」
「うん。なんか熱が冷めちゃって」
夏木さんは淡々と語る。ほんとうに人形のように表情が全く変わらない。
結局、アルバムを見ても、夏木さんは夏木さんだった。小さい頃から笑顔を見せることのない子どもだったのだろう。
「もっと昔のは、ないの?」
「え?」
「小学校に入る前。赤ちゃんのころとか、幼稚園? 保育園? そのくらいの時期のやつ」
「それは……知らない。たぶん、ないと思う」
妙に歯切れの悪い言葉に私は少し違和感を覚えた。
しかし、ないものはないという態度を感じたので、せっせとアルバムをしまう夏木さんに私はそれ以上追究する気にもなれなかった。
「なにか、新しい経験が足りないのかも」
「新しい経験?」
私は聞き返す夏木さんを見ながら言った。
「いままで、吹奏楽とか、さっきの落語とか。なんか日常に刺激が足りないんじゃないかな? 今まで経験したこともないような楽しいことを経験したら、きっと思わず笑顔になるかも」
「ええ、例えば?」
「うーん。思わず笑ってしまうようなことがいいな。それでいて日常ではあまり経験できないようなこと……ジェットコースターとか、バンジージャンプとか。あとは心霊体験とか?」
「どれも経験があるから……」
「あるんだ」
「ぜんぶ面白かったよ。あ、でも、心霊体験はそんなに楽しくなかったかな。寝てる間にぎゅっと身体がしめつけられて、金縛りってやつ?」
「ええ……」
夏木さんはしゅん、とますます肩をすぼめた。
「ほのかちゃんにいわれてから、自分でも気にしてるんだ。笑顔がへたくそだってこと。自分では楽しいつもりでも、周りの人たちにそれが伝わってないんじゃないかと思って。いろいろなことを試してみたんだけど、なかなか……」
「ごめんね。これは私のわがままだから。どうしても夏木さんが笑っているところが見たいだけ……きっとあなたが笑ったら、すごい素敵な表情だと思うから。もっと言えば、その瞬間を写真におさめたいところだけど」
夏木さんはますます縮こまっていくばかりだった。
「それじゃあ、ほのかちゃんも手伝ってくれる?」
「もちろんだよ」
「私を笑顔にしてくれる?」
「うん。なんでもするよ。それは写真家としてのプライドっていうか」
夏木さんは覚悟を決めたように、立ち上がった。
「ついて来て」
こたつからでたばかりの身体は急によく冷える。
夏木さんは私を二階へ案内した。ぎし、ぎし、と軋む階段を登っていくと、二階には小さな廊下に面したふたつの部屋があった。
ひとつは物置になっているらしく、扉の隙間から所狭しと並べられた段ボールが見えた。もうひとつ、奥の方の部屋に夏木さんは私を促した。
「はいって」
「え、うん。失礼します……」
ぎっと扉を引くと、まず、思わず眉をしかめてしまうほどの悪臭が鼻を突いた。カビ臭いとかそういうんじゃない。錆びた鉄棒を握りしめた汗まみれの手のひら、あれを直に口の中に突っ込まれているような吐き気を催す悪臭だった。
「え…………」
部屋の中は真っ赤に染まっていた。
畳敷きの小さな部屋。かろうじて畳だと分かる場所以外は、どす黒く染まっている。その真ん中にはふたつの折り重なった肉塊があった。
小太りの男性と、やせ細った女性のように見えた。
「こ、これ……」
「お父さんとお母さん」
夏木さんは何事もなかったかのように説明した。
「お父さんはいつも私をぶって、蹴るし、お母さんは成績が悪いとか、あんたは目障りだとか言って私にものを投げつけたりするし……それで、ほのかちゃんにいわれて、なにか悩みを抱えてるんじゃないの? って言われて、真っ先に二人のことが思い当たって、さっそくその日……学校から帰ったら……」
「殺したの……!」
「うん」
その時。
夏木さんは一瞬だけ笑ったような気がした。わずかに口角が上がり、ほおが緩んだ気がした。
「い、いま……!」
私はカメラを咄嗟に構えた。
夏木さんは手に包丁を抱えていた。ぴかぴかに洗われ、水滴が滴っている。
「お願い。ほのかちゃん、私を笑顔にして」
どっと包丁が胸の間に突き刺された。
痛いというより熱かった。一瞬、トびかけた意識の中で、私は必死に夏木さんに向けてシャッターを切り続けた。ピントも画角もまるで会っていないだろうけれど、そんなの調整している暇はないけれど、とにかくシャッターを切り続けた。
夏木さんは膝から崩れ落ちた私をばっと押し倒して、お腹を、二の腕を、太腿を、胸を、首を、何度も何度も何度も何度も包丁の切先で突き刺してえぐるように傷付け続けた。
私は指先がまだ動くので、シャッターを切り続けた。
夏木さんの顔が、もうろうとした視界の中で、かろうじて浮かんで見えた。
「な、つきさ……」
声が出ない。喉が切り裂かれているので、ひゅうひゅうという音しか出ない。
「ふ、ふふ……」
でも、最後に耳に聞こえてきた。
夏木さんの笑い声。
霞んだ視界の先に浮かぶのは、夏木さんの、心の底からほっとしたような笑顔だった。
「ああ――これでようやく、私に構ってくる人がいなくなる」
「そっか……」
あなたの笑顔を封じてしまっていたのは、誰よりあなたを笑顔にしたかった私だったんだ。私があなたに笑顔を取り戻させようとするたびに、あなたはどんどんそれから遠ざかって行ったんだね。
ごめんなさい。
でも、最後にカシャ、とシャッターを一枚だけ切ることができた。
素敵な笑顔だよ、夏木さん。
あとで写真、見てみてね。
という声は、もう音にはならなかった。
最後に見れたのが、あなたの笑顔で良かった。短い写真家気取りの人生は、ここに完了した気がした。
【2月16日】夏木さんの笑顔 王生らてぃ @lathi_ikurumi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます