【3月22日】海の砂

王生らてぃ

【3月22日】海の砂

「こら!」



 わたしが呼ぶと、びくっと身体を震わせて、糸路菜しろなは振り返った。



「ああっ……」



 もれたため息から白い煙が立ち昇った。

 糸路菜の口からもれたのはため息だけじゃなかった。陶器の器。そのうえに積まれた白い粒の集まり。



「また食べてたのね」

「ひっ、ごめんなさい」



 糸路菜はとっさに顔をかばうように両手をあげた。体を引いて身を守ろうとする動物のように、神経を体の前面に集中させていた。

 陶器の大きな器。直径は50センチほど、底は浅く、液体はほとんど注ぐことができなさそうだ。そこに砂が載せられている。白い砂が。



「見せなさい」

「ごめんなさい、ごめんなさい、やめてください」



 泣きじゃくる糸路菜を無視して器を取り上げた。砂が山と積まれている。触ってみるとさらさらと柔らかい、美しい砂の中には、きらきら光る人工物のようなものも混じっている。それはガラスやプラスチックが細かく砕かれたもの、あるいは貝殻の破片だ。



「何度も言ってるでしょ」



 糸路菜はまだおびえていた。



「糸路菜。聞きなさい。海の砂を食べちゃだめだって、体に良くないからって、何度言えばわかるの」

「だって……」

「だってじゃない。次やったらほんとに怒るわよ。いい?」

「ごめんなさい……どうしても我慢できなくて……ごめんなさい、ごめんなさいお姉ちゃん」



 糸路菜の泣き顔は嫌というほど見てきた。昔と比べてずいぶん泣き虫になったものだ。わたしは糸路菜の頭をそっと撫でて、怒ってないことをわからせた。



「もうやっちゃだめだよ」

「うん……」

「じゃあ、ご飯にしましょ」

「うん……」



 頬をくっつけ合わせる、いつもの挨拶。

 糸路菜を部屋に休ませて、わたしは昼食の用意に取りかかった。






 妹の糸路菜には奇癖がある。彼女は砂を食べる。海辺の砂が特によく、山の砂はあまり好まないが食べる。公園の砂もあまり好きではないらしいが、とにかく砂をよく食べる。

 こうなった原因には心当たりが、ないわけではない。糸路菜がまだ6歳くらいのことだ。

 昔、フェリーで旅行中に、誤ってデッキから海に落ちたことがあった。すぐに誰かが気づき、救助されたが、海水を大量に飲み込んでいて命の危機にあった。その後、幸いにして一命を取り留めたあとからおかしくなった。

 初めて砂を食べていたのはそれから1ヶ月後くらいのことだ。わたしがたまたま見つけた時には砂糖をなめるみたいにもりもり食べていた。以来、なんど言ってもやめようとしない。

 海辺の白い砂をたくさん食べているせいか、肌もだんだん白くなり、ただの水ではなく、スポーツドリンクとか、塩分のたくさん入った水を飲むようになった。時には単なる塩水ですらがぶ飲みすることもある。それでいて、体は健康そのもので、風邪をひいたこともほとんどない。



「おねえちゃん」



 昼食にそうめんを茹でていると、糸路菜はふらふらと具合が悪そうにリビングへ降りてきた。



「どうしたの」

「お腹が空いた。なにか食べたい……」

「いまそうめん茹でてるから、ちょっと待ってて。冷蔵庫に昨日の残りのチョコレートとかあるよ」

「いらない。砂が食べたい」

「またそんなこと言って……」



 わたしは糸路菜が砂を食べようとするたび、それを咎めた。

 糸路菜はふつうに食事もできるし、外見上は人間となんら変わりがない。ふつうの女の子だ。そんな子が、いきなり砂をむしゃむしゃ食べ出したら気味が悪くって、みんながこの子を避けるようになるだろう。それはなんとしても避けたかった。



「だめだってさっき言ったでしょ」

「なんでだめなの?」

「あなたは人間だからよ。人間は砂を食べちゃいけないの」

「だって……」



 糸路菜は少しずつ語り始めた。



「だんだん……砂じゃない食べ物が、美味しく無くなってきて……味がしないし、気持ち悪いし……昨日もね、晩ご飯のあと、トイレで食べたもの吐いちゃって……一昨日も、その前も……もう限界なの! わたし砂しか食べられない……砂だけ食べられれば他になにもいらない」



 糸路菜は泣いていた。震えていた。

 その涙の通ったそばから、肌が黒く湿っていくように見えて、わたしは正直に気持ちが悪いと思ったし、同時に、この子のことを心の底から哀れに思った。



「わかった。じゃあ、砂だけ食べていいよ」

「ほんと!」

「その代わり、ぜったいにその姿を人に見られちゃだめだからね。約束破ったら、二度と砂を食べさせてあげないから、いい?」

「うん、約束する」



 わたしは糸路菜を伴って、出来るだけ人のいない、海の綺麗な場所へと旅に出た。道のりは険しく、なかなか都合の良い場所は見つからない。

 しかし、最終的にぴったりの場所を見つけた。

 そこは背後を切り立った崖に覆われ、両脇には鬱蒼と森林が生い茂り、海は深く青に澄んでいる。そしてなにより、白く美しい砂があった。決して広く大きくはないがぴったりの場所だった。



「おねえちゃん、食べて良い? この砂食べて良い?」

「いいよ」

「やったー! いただきます」



 糸路菜はいきいきしていた。

 砂を手で掴んでは食べ、両手ですくった海水を飲んだ。ふつうの人間ではない。でも、人間らしく表情豊かだった。

 わたしは糸路菜の嬉しそうな顔を見ながら、木の実や、動物を捕らえて焼いて食べた。どれも初めはまったく体が受け付けず、腹痛に苦しみ、なんども吐いた。熱を出して唸り、空腹に喘いだ。

 糸路菜はいつもこんな思いをしていたのだろうか。







 数週間が経った。



「おねえちゃん、見て、見て」



 糸路菜はずいぶん、美しくなった。たった十日かそこらでぐっと大人っぽくなったようだ。肩にかかるくらいだった髪はいつの間にか膝の裏まで伸び、風をはらんで波打つ。そして髪の色も、徐々にではあるが、茶色い色を失い、紺色に染まりつつあった。

 わたしは空腹と日光でぐったりしていたところだ。



「なに……?」

「そーれっ!」



 と、思い切り両手を海にかざし、振り上げると、海水が渦を伴って巻き上がり、そのまま凄まじい勢いで落下した。

 水しぶきがあたり一面に散った。



「ほかにもね。こんなこともできるんだよ」



 と、やおらサンダルを脱ぎ捨てると、裸足のまま海面を歩き始めた。スケートリンクの上を歩いているかのような足捌きで、少しずつ、ゆっくりと歩いていく。

 そのまま沖の方までたどり着くと急にしゃがみ込んで、海面に手を触れさせた。すると、高い波が唐突に起こり、勢いよく海岸へと打ち寄せた。崖のそば、海面からもっとも離れた場所まで波は押し寄せ、当然わたしもびしょ濡れになった。



「アッハハハ! ごめん、おねえちゃん、ちょっとやりすぎた」



 糸路菜は笑っていた。

 けらけら笑っていた。

 わたしは、この子はわたしの妹じゃない、この子は人間じゃないと、そう確信するようになった。そして、この恐ろしい力を目の当たりにすると、とても彼女に立ち向かおうという気にはならなかったし、



「おねえちゃん、大好き」



 と、抱きついてくるときなど、心臓が止まりそうになる。

 わたしは気が気でなくて、夜も眠れぬ日が続いた。時々、夢でうなされた糸路菜が起こす高い波と渦潮が、容赦なくわたしを苛んだ。ここは高台などほとんどなく、溺れ死ぬのも時間の問題だった。







 数ヶ月経った。



「おねえちゃん、おねえちゃん」



 わたしはもう、なんで生きているのかわからないくらいの時を経た気分だった。ここには食べ物がない。真水は雨だけ。ろくに眠れてもいない。



「なに……」



 無邪気に笑う妹の顔を見るのもだんだん疲れ果ててきたところに、今日もまた何か見せてくれるのかと目をやると、糸路菜の腕の中には小さな赤ん坊が包まれていた。



「な……それは……」

「さっきようやく産まれたの。わたしのこども」



 見た目は人間の赤ん坊と大差ない。

 体はうっすら透けていて、髪の毛は真っ白。女の子だった。

 いつ妊娠したのか、いやそもそもお腹から産まれたのか、それとも気づかないうちに卵でも産んだのか、それはわからない。

 ふいに赤ん坊は目を覚まし、おぎゃあ、おぎゃあと泣いた。



「ああ、ごめんごめん。お腹すいたよね」



 糸路菜は服をはだけさせ、つんと上を向いた乳首を赤ん坊の口に含ませた。



「はやくお前も、砂が食べられるようになるといいね。ほら、おばさんに挨拶しなくちゃ」



 赤ん坊は糸路菜のおっぱいを飲んで元気に笑うと、わたしに小さな手を向けて無邪気に笑った。その指と指の間に、膜のようなものがないか、わたしは見ようとしたが、もう目が霞んでよくわからない。



「はい、おばさんだよ〜。ほら、おねえちゃん、遊んであげてよ。そうだ、名前もつけてあげなくちゃ。どんな名前がいいかなあ」

「はは……ははは」



 わたしは赤ん坊の手を握り、力なく笑った。

 なんでわたしはまだ死ねないのだろう。

 ただ、妹の幸せそうな、自由な姿を見ていると、それはそれで良い気分だった。

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