第8話 人生で最初の
「巫女様。部屋に入ってもよろしいでしょうか?」
私が部屋の外から呼びかけると、巫女様はいつもの鈴の音のような声で、「どうぞ」と答えた。
巫女様は机の上のランプだけを付けた部屋の中で、1枚の古ぼけて茶色くなった紙を眺めていた。その紙をみて、私はぎゅっと胸が締め付けられるような心地がした。
「就寝前の香茶をお持ちいたしました」
なるべく普段通りの態度を装って、机の隅に香茶を置いた。
「ありがとう。ロキア」
「……昼間、ユキヒロがお嬢様のところ来ませんでしたか?」
「ええ。来たわよ」
「……そうですか」
私がそれ以上、何も言えずにいると、巫女様は眺めていた紙を私に見せた。
「ねえ、ロキア。これのこと覚えてる?」
「……ええ。もちろん覚えています。ここに来たばかりの時に、巫女様に見せていただきました」
古ぼけてすでにところどころかすれてしまっているが、皴一つない一枚の紙。このフォリオス大陸全土の地図。
「それを眺めている巫女様を見るのはずいぶんと久しぶりな気がします」
「ちょっとね、見たくなっちゃって」
そう言って巫女様は私にも見えるように机の上に地図を広げてみせた。
「ここが結晶の森で、トレア湖の湖岸をなぞるように北に行ったところにあるのがルクセンメリア。ウルキア王国最大の要塞都市で、竜族との戦争の最前線だった街。それからずっと東に続くマーティア街道を歩いていくと、アーティファクトの街エクタスがあって、その先にあるのは古の都マーキス。北東へ行けば大樹リクの樹に守られた首都ウルキアがあって、ラーナ川を船で下って南に行けば文化と商の中心、フィルディオン」
巫女様は指先で地図をなぞりながら、まるで行ったことある場所を説明するかのようにすらすらと街の話をする。
でも、私はそれが間違っていることを知っていた。ルクセンメリアからマーキスまでは歩いて行けるほど近くなんてないし、エクタスはずっと昔に滅んでおり、現在では現存するウルキア帝国時代世界最大の遺跡となっている。ラーナ川流域は先の厄災の爪痕である魔獣が暴れまわっていて、飛空艇以外ではとてもじゃないが移動なんてできる状況ではない。そもそも巫女様はきっと、飛空艇の存在すら知らない。
でも、それを指摘することはできなかった。外に出ることができない彼女の世界は、この机の上に収まる紙の上にのみ広がっている。それを無遠慮に壊すことは、私にはあまりに残酷なことに思えてとてもできなかった。
「……ねぇ、ロキア」
「はい」
「……ううん。なんでもない。ごめんね、付き合わせちゃって」
「いいえ、お気になさらないでください」
私は軽く会釈をすると、部屋を出ようとドアノブに手をかけた。
「ロキア、おやすみなさい」
「……はい、巫女様。よい夢を」
ぱたんと、ドアを閉める。
部屋を出るその一瞬に見えた、巫女様の寂しそうな笑み。
私は倒れるように暗い廊下の壁に背中を預け、その場に崩れ落ちた。膝を抱え、腕の中に逃げるように顔を埋める。
「……役立たず」
それはユキヒロに向けたものか、それとも自分自身に向けたものか。
立ち上がる気力もなく、私はそのまま闇の中に溶けるように蹲り続けた。
♯
私は孤児だった。
3歳のころに野盗に両親を殺されて、私もあわや殺されるかといったときに、幸運にも近くを通りかかった人が野盗を追い払ったことで助かったらしい。
らしい、というのは当時のことを覚えていないからだ。
物心ついた時にはルクセンメリアの孤児院で暮らしていて、それが当たり前だった。
その孤児院では、勉強だけではなく、戦い方、魔法の使い方まで、ありとあらゆることを叩きこまれた。孤児院の経営者が「一人でも生きていける子を育てる」という方針だったこともあり、5、6歳のころにはすでに血の滲むような訓練を課せられていた。そして、私はその全てを誰よりも早く習得した。自慢ではないが、きっと優秀だったのだろう。8歳になるころには孤児院の中で、私にかなう者はいなくなっていた。
私は孤独だった。でも、それでもよかった。私は何でもできたし、何でも一人でやれた。誰の助けもなくても、何も困らなかった。例え今から外に放り出されたとしても、何の問題もなく一人でも生きていける。そう信じて疑わなかった。
「ロキア。来なさい」
9歳の誕生日を迎えてから2か月がたったころ、私は院長先生に呼び出された。
話を聞くと、『守り人』と呼ばれる女性が亡くなって、その代わりになる子がほしいと相談を持ち掛けられたのだそうだ。
「引き受けてくれるかい?」
院長先生の問いに、私は躊躇うことなく肯いた。
『守り人』がどういうものかなんて知らなかったが、そんなことはどうでもいい。私は、私を含む全てのことがどうでもよかった。
それから一月もしないうちに、私は馬車に乗せられて、この森にたどり着いた。
「あら、可愛い子。こんにちは。お名前はなんて言うの?」
初めてあったその人の第一印象は、綺麗な白い人だった。
サクラと名乗ったその人は『花の巫女』という役目を担っていて、その時初めて『守り人』というのが『花の巫女』の付き人のことを言うのだと知った。
一緒に暮らすようになって、最初の綺麗な白い人という印象は、次第に『思ったより普通の白い人』に変わっていった。
人間離れした姿に騙されたが、普通に笑うし、たまに何もないところで転ぶし、話好きだし、香茶が好きなところもとても平凡だった。
こんな女性が、いったいどうしてこの森に住んでいるのだろう。次第にそんな疑問を持つようになっていった。
私は時々、花の巫女の誘いで外の日当たりのいいベンチで彼女の話し相手になった。
「香茶はどれも好きなんだけど、その中でも一番ローセンティアの香茶が好きなんだ」
そう言って、花の巫女は楽しそうにマグカップに注いだ香茶を、私に差し出した。
私がそのまま飲もうとすると、花の巫女は慌てて「ダメ!」といって遮った。何かと思っていると、花の巫女は真剣な表情で、「まずは香りを楽しむの。口を付ける前に香りを味わってみて」と言った。
ただの飲み物でしょ? そう思いながらも、言われるがまま、私はそのローセンティアの匂いを嗅いでみる。
ふわりと、甘く、優しい香りが鼻腔をくすぐる。どこか懐かしいその香りに、私はなぜか言葉すら失うほどに心を揺さぶられていた。
「ね、いい香りでしょ? 味わわないなんてもったいないと思わない?」
私の反応を見て、得意げな様子の花の巫女。身を乗り出して私に問う、彼女の真っ白な髪からは、香茶と同じ、ローセンティアの香りがした。
「はい、とても、いい香りです。巫女様」
ある日、私が巫女様の部屋を掃除しようと中に入ると、机の上に古い紙が置かれていた。
何だろうと思って覗き込むと、それは今のものよりも大分古い世界地図だった。
「あ、見つかっちゃった」
突然声をかけられて、私はまるでいたずらがばれてしまった子供のようにびくりと肩を震わせた。
「それね、私の宝物なんだ」
巫女様は私をとがめることなく、それどころか、椅子をもう一つ持ってきて、「座って」と言って自分の隣に招いた。
「この地図はね。昔私を助けてくれた人がくれたものなんだ。『外に出られない分、せめて外の世界と繋がれるように』って」
それから、巫女様は地図を指し示しながら、私にその場所がどんなところなのかを教えてくれた。巫女様の話す世界は、私の学んできた世界とはところどころ違ったり、古い情報だったりしたが、楽しそうに話す巫女様を見ていると、なぜかそれを正そうとは思えなかった。
巫女様は私が来てから一度も、外に出たいと口にしたことはなかった。それでも、時たま遠くに想いを馳せるようにぼうっとしていたり、寂しそうに地図を眺める巫女様の姿を見れば、外への憧れがあることなんて鈍感な私でも気づくことができた。
ある日、私は思い切って巫女様に聞いてみた。どうして外に出ないのかと。今にして思えばなんて残酷な質問だろうと思うが、当時の私は呪いのことなんて知らなかったし、子供だったこともあって、知らないことを訊ねることに何の躊躇いもなかった。
「外にはね、出られないんだ」
巫女様は私の質問に、寂しそうにそう答え、そして事情を教えてくれた。
かつて、ここには『厄災』と呼ばれる存在が封印されていたこと。
その封印を守るのと引き換えに、『花の巫女』はこの地に縛られていること。
『厄災』はずっと昔に解き放たれ、今ではもう何も封印されていないこと。
それでも、なぜか呪いは解けず、今もまだこの地に縛り付けられていること。
私は何も言うことが出来なかった。
それは、何百年にも及ぶ拷問の歴史だった。どうして巫女様がこんなに苦しい目に合わなくちゃいけないのだろう。この人は何も悪いことなんてしていない。普通に生き、普通に話し、普通に香茶を楽しむ、普通の女性だ。そんな人が、どうしてこんな目に遭わなくてはいけないのだろう。
思えば、世界は不条理に満ちていた。私が両親を失ったことも、孤児院で虐待のような修練の日々を送らされたことも、死に物狂いでその全てを身に着けたにもかかわらず、誰も私を認めてくれなかったことも、全部全部不条理だった。
負けたくなかった。不条理の、運命の、思い通りにされたくなかった。
私はその日から、巫女様の呪いを解くために動き出した。
巫女様に休暇をいただき、ルクセンメリアに戻って呪いと厄災に関するあらゆる情報を集めた。
森暮らしで、使うあてもなく余っていた身に余る報酬は全て、呪いの研究に充てた。
人を使い、道具を使い、ありとあらゆる方法を模索した。
私はこれまでできないことなんて一つもなかった。どんなに難しいことでも、最後には全てできるようになった。これだってその一つだ。
そうして、1年が経った。呪いを解くことは、できなかった。
私は雨の降る中、静かに忌まわしい石碑を見下ろしていた。
手には大金をはたいてやっとのことで取り寄せた『破邪の剣』が握られていた。
これまで幾百という魔物や悪霊を切り伏せてきた、手に入ったこと自体が奇跡とも呼べる正真正銘の伝説の剣だった。
私はそれを高く掲げ、自分の込めうる最大の魔力を込めて、振り下ろした。
ガキンッ、と全身を痺れさすような衝撃とともに、剣は真二つにへし折れた。
石碑には、傷一つ無かった。
「……どうして」
私は折れた剣をもう一度石碑に振り下ろす。
「どうして」
もう一度。
「どうして!」
もう一度。
「どうして!!!」
「もうやめて!!!」
気が付けば、私は巫女様に抱き留められていた。
「もういいから。ロキア。もういいよ」
巫女様は真っ赤に腫れ上がった私の手を握り、雨で冷え切った私の体を優しく抱きしめた。
「ロキア。ありがとう」
私は耐え切れなくなって、巫女様の前にもかかわらず、赤子のように大声で泣きじゃくった。
これが、私の人生で一番最初の、最も大きな挫折だ。
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