第4話 桃之井惟の底力①
翌日の水曜日。
この日は放課後中バッティング練習に費やすことになった。
惟の唯一の得意がスローイングだと分かった今、埋めるべき苦手な点はバッティングとキャッチングであり、壊滅的なキャッチングよりも先にまだマシだと思われるバッティングを上達させようという話になったのだ。
そしてその考えは奏功であった。初めはトスを上げたボールに当てることさえ困難であったが、回数を重ねる毎に徐々にだがミート技術が上がっていき、1時間も経たないうちに内野手の頭を越えるだけの飛距離は飛ばせられるようになったのだ。
「皆さんありがとうございます! これなら明日の練習も上手くいきそうです!」
だいぶ自信もつき、練習終了後にそう嬉しそうに笑顔を見せる惟に、高嶺も師龍も顔を見合わせてひとまずの達成感を分かち合う。
この調子で明日も取り組めば必ず十分に上手くなれる。スポーツ大会に万全の状態で臨める。そう、誰もが確信していた。
しかし、現実はそう易々とは大作戦の大成功を許してはくれなかったのである。
・ ・ ・
木曜日の放課後。
スポーツ大会本番を翌日に控えた最後の練習日。
高嶺たち生徒会執行部と相談者の惟は、いつものように河川敷グラウンドに集合した。
「さあ、今日は最後、キャッチングの練習をするよ! ちなみに惟ちゃんは内野手と外野手どっち?」
「えっと、明日の試合ではレフト? を守る予定です」
「なら外野手ってことだね。じゃあ、ゴロとフライだけど、フライを特に練習した方が良いかな」
「はい、分かりました」
すぐさまウォーミングアップを済ませると、早速練習に入る。
元気良く返事をした惟は、高嶺に教えられてスタスタと外野に向かう。と言っても、ソフトボールの守備位置であるため野球と比べてさほど遠い訳ではない。しかしながら、初心者の惟からしたら相当に遠く感じるのだが。
「このくらいですか?」
気持ち不安そうに問う惟に、高嶺は手で大きく丸を作ってみせる。
「うん、よろしい! そこでオッケーだよ、惟ちゃん! ――で、師龍くんもなお
ちゃんも準備オッケー?」
「ああ、任せろ」 「はい、いつでも回せます、姉様!」
ノッカーとカメラ(ウー)マンの用意も整い、
「それじゃあ外野ノック始めるよ!」
高嶺の掛け声とともに金属バット特有の快音が鳴り響いたのだが、
「――あっ!」
最初の飛球は惟の3メートルか4メートルも前に落ち、
「……まあ、外野フライは始めてだからね。最初はしょうがないよ」
「……だと良いんですけど、姉様……」
10球目を過ぎても、
「――あれ!?」
「……まっ、まあ、まだ10球だから!」
「そ、そうですかね、姉様……」
その距離は一向に縮まらず、
「――あぁっ!!」
「……そっ、そう! まだ30球しか受けてないから……!」
「姉様……」
ついに練習開始から20数分を経過した時点で、打球を捕ることはおろか、落下地点に入ることさえ惟は出来なかった。
「しっ、師龍くん、どうしたら良いと思う? わたしもあそこまで出来ないとは思わなかったから、何て教えれば良いか分からなくて……。それに正直なところ、わたしの教え方って感覚的な部分が多いでしょ? だからその、あまりに違いすぎるから……」
これにはさすがの高嶺も焦っていた。戸惑いまくっていた。
そんな珍しく狼狽する高嶺に、師龍は呆れたように溜め息を吐く。
「……ハァ。あのな、確かに俺もどうしたら良いかは分からないし戸惑ってもいる。なにせノック打ってて1球も捕ってもらえないんだからな。だけど足柄、お前が訳分からなくなったらダメだろ。そりゃ足柄が始めたことだからってのもあるけど、何より桃之井さんは足柄を信じて練習してるんだよ。それをお前が混乱して付き合ってあげられないようでどうする?」
「でっ、でも……急に不安になってきたって言うか……」
それでもなおオロオロしだす高嶺。師龍は助けを乞わんばかりに直美を見る。
「どうして急にこうなった? こんな足柄は初めて見たんだけど」
「……姉様は時々こうなられることがあるのです。即断即決は得意なのですが、その後に動転して気が変わることも以外と多く。それとこうなった姉様を元に戻らせるのも難しく、最悪このまま諦めてしまった方が良いかもしれません」
「マジかよ……」
希望を打ち砕く直美の言葉に、師龍は見るからに落胆する。いや、間違いなく生徒会執行部全体に、ここまで来たにも関わらず、明らかな諦めムードが流れ始めていた。
と、そのときである。
「もう1球お願いしまーす!」
「「「……!」」」
下を向きかけていた師龍たちはパッと顔を上げる。見遣れば、声の主は外野でグローブを掲げ――
「もう1球、お願いしまーすっ!」
唯一人、惟は諦めていなかった。
唯一、惟の表情にはやる気が満ち溢れていた。
「惟ちゃん……」
高嶺はグッと息を呑む。
「諦め掛けてた俺が言うのも何だけどさ、言っただろ? 桃之井さんはお前を……俺たちを信じてるって」
「師龍くん……」
「だから、ご指導ご鞭撻のほど、頼むぞ。俺も出来る限りノック打ち続けるからさ」
「うん、よろしい……! 分かったよ、師龍くん!」
いつもの笑顔に戻った高嶺を確認し、師龍は一つ頷く。そしてバットを手に、ホームベースに向かう。
「じゃあ行くぞっ」
「はい、お願いします!」
師龍がバットを振り抜き、再び大空に快音が響き渡る。
――そうしてボールは、惟の2メートルか3メートル後ろにポトリと落ちた。
・ ・ ・
「よーし、みんなー! 一回休憩にするよー!」
「ああ」 「はい、そうしたいです……」
それから20数球と少し。結局1球も捕ることが出来ないまま、されど1球もめげずに追いかけた惟は、やる気もそのまま、汗を流し喉を渇かせて帰ってきた。
「どう、惟ちゃん? 何か感覚つかめてきた?」
ペットボトルを差し出す高嶺に、惟は晴れやかな顔で受け取る。
「そうですね。まだ一回も打球に触れられてないですけど、もう少しで何か掴めそうな気がします」
「本当!? なら良かったよっ。その調子で頑張ろう!」
「はい!」
元気良く返事をする惟に高嶺は満足げに頷き、「師龍くん、わたしにもそのタブレット1個ちょうだい!」と師龍に駆け寄っていく。
「好い人だなぁ、足柄先輩……」
小さく呟く惟。と、横からジャリッと砂の音がする。
「そうですよ。姉様は本当に好い人で本当に優しい人です。当たり前ではないですか」
「足柄さん……」
いつの間にかにじり寄っていた直美。そのまま近くのベンチに腰掛け、
「……桃之井惟さん。あなたはなぜここまで前向きで取り組めるのですか?」
「え?」
キョトンとする惟に、疎ましげに問いかけた。
「もちろん姉様を信じるのは人間として当たり前ですし、ポジティブ思考が成功を導くといったことは私にも分かります。ですが、こう言っては何ですが、あなたが外野フライを捕れるようになるとは私から見て到底思えません。いえ、姉様から見ても、きっとそうなのだと思います。姉様はお優しいからおっしゃられないだけで。ですが、私は違います。ですからはっきり言わせてもらいます。――おそらくどれだけ頑張っても、あなたはずっとスポーツが苦手なままです。きっと、いえ、絶対に。だから、私にはそれでもなお練習を続けるあなたの気持ちが分かりません」
「……」
「どうして黙るんですかッ?」
語気荒めに言うと、惟は呆気に取られてはにかみながら、
「……ふふっ。いや、足柄さんって結構饒舌なんだなって思って」
「なッ……!」
「あっ、違うんです。馬鹿にしたとかじゃなくて少し驚いただけで。……その、いつもと全然違うから」
慌てて段々と声が小さくなっていく惟。ジト目で向ける直美は、気だるげに溜め息を吐く。
「ハァ……まあ、良いです。それよりも答えてください。なぜあなたは諦めることをしないんですか? 分かるでしょう? それが賢明な判断だってことくらい」
見つめられ、惟はそっと顔を伏せ、
「……そうですね。確かに諦めた方が良いのかもしれません。どうせ私のことだし、成功するはずもないかもしれませんから」
「じゃあどうして……」
おもむろに、楽しそうに歓談する師龍と高嶺に熱い眼差しを向けながら、
「――だって、あんなに誰かに信じてもらえるのは初めてだったから。だから、私も信じなきゃって思ったんです」
その顔には、温かな笑みが浮かんでいた。
「私、勉強は昔からそれなりに得意だったんですけど、反対に運動はずっと苦手で。それに勉強が得意って言っても、足柄さんには全然及ばなくて。だから、勉強でも運動でも、誰からも信じてもらえたことがなかったんです。――だけど、生徒会執行部の皆さんは違った。私を、運動が得意とか苦手とか関係なく、この3日間ずっと信じてくれた。それが、何にも増して嬉しかったんです。だから、私は私を信じてくれた皆さんを信じる。そして、自分のまだ見ぬ底力を信じる。だって、自分を信じてくれる人を信じられない人間が、自分を信じられるわけがありませんから」
「……!」
ニコッと微笑む惟に、直美は咄嗟に目を逸らした。惟の言葉は真実で、真っ直ぐだ。そして、惟の心も。だから、そんな汚れない惟の瞳を直視することで、惟を信じてあげられなかった自分が、無性に汚れているように感じられた。
だけど、それでも直美は――、
「――それでも、私には分かりません」
不貞腐れたように溢す直美に、惟はニッと口角を上げ、
「別に今はそれでも良いですよ。私は私、足柄さんは足柄さんです。でも――」
グイッと直美に顔を寄せると、
「明日のスポーツ大会、私の実力底力を、見事足柄さんに信じさせてみます! 必ず! 絶対にです!」
「は、はい……」
「じゃあ、私は練習に戻りますね。足柄さんに聞いてもらえて嬉しかったです。――あっ、高階先輩、またノックお願いします!」
そう言ってまた外野の守備位置に走っていった。
一方一人取り残され、呆然と佇む直美。それに気付いた高嶺が駆け寄り、
「どうしたの、なおちゃん? 惟ちゃんと何かあった?」
覗き込むと、直美ははっとなり、
「あっ、いえ、何ですないです姉様。その、お気になさらないでください」
「そう? なら良いんだけど……」
不審に思いながらも、高嶺はそれ以上追及はしないでグランドを眺めた。
「それにしても惟ちゃんは偉いよね。疲れてヘトヘトになってもおかしくないのに、まだ止めずに練習してるなんて。何だかんだ言って運動が好きなのかな?」
それは独り言のようなもので、高嶺からしたら別に返答を求めた訳ではない。けれど直美は、そんなことは分かっているにも関わらず、自然と口を開いていた。
「……それは違います、姉様。あの人は――」
と、その瞬間、ひときわ大きな高い金属音が鳴り響く。
「ああっ、すまん! 少し大きすぎた!」
打球は遥か高く飛び、悠に惟の守備位置を越えていくように思われる。
けれども、惟は諦めない。惟は立ち止まらない。自らを信じて、そして自らを信じてくれる人を信じて、ただひたすらにボールを追いかける。
捕れなくても良い。落下位置に入れなくても良い。ただ、どうせ捕れないのだとそこで足を止めることだけは、決してしたくはなかった。自分を、皆を、裏切りたくない。そして贅沢を言うならば、一度くらい、捕球を成功させたい。それだけの思いで、なおも走り続ける。
10メートル、9メートル、8メートル、……。
段々と距離が縮まり、次第にボールが身体に近づいてくる。
もう、3メートルか4メートル前も、2メートルか3メートル後ろもない。
あとは、精一杯グローブを真上に伸ばすだけ。
そして、グローブに大きく丸い感触が飛び込んでくるのを感じ、
「……と、捕れた……捕れたー!」
惟はそのまま両腕を勢い良く掲げ、しかしてボールは絶対に離さない。
「やったー! 私やりましたー!」
歓喜に溢れた過去最高レベルの満面の笑みで、外野から駆け上がってくる。
「マジか。普通にミスショットだと思ったのに……」
「やったね惟ちゃん! 本当おめでとうっ!」
師龍と高嶺がそれぞれ呆然とし、ともに全力で喜ぶ中、
「……」
言葉も出ず立ち尽くす直美の瞳には、うっすらと一筋、光るものが浮かんでいた。
・ ・ ・
「いやー、本当驚いたよね、あのフライを惟ちゃんが捕ったときは!」
「まあ、そのあとは1球も捕れなかったんだけどな」
「もー、師龍くん! そういうこと言わない!」
「いえ、大丈夫です、足柄先輩。実際そうだったんですから」
夕暮れの陽の光を受け、最後の練習を終えた生徒会執行部と桃之井惟は、これからまさに帰路につこうとしていた。
「でも時間が過ぎるのは早いね。もう明日がスポーツ大会本番だよ? この3日間、本当にあっという間だったね」
グローブやボールをカバンに片付けながら言う高嶺に、惟は首肯する。
「はい、本当に。でも皆さんのお陰で、間違いなく以前よりはソフトボールが上手くなったと思います。だから明日の試合も、必ず活躍してみせます!」
「うん、その息だね、惟ちゃん! 応援に行けないのは残念だけど、わたしも惟ちゃんの活躍を祈ってるから。ね、師龍くん?」
「そうだな、如何せん俺たちは授業があるからな。でも妹は違うだろ? だから試合に出ないとは言え、応援には行ってあげないとな、妹は」
問われ、直美は不機嫌そうに吐息を吐き、
「……まあ、そうですね。明日は一日中暇な訳ですし、……その、応援に行ってあげなくもないです」
「え、何その言い方……」
恥じるように頬を染めた。
「うっ、うるさいですね、高階先輩! 私は応援に行くと言っているのです。それなのに……別に良いではないですか! まっ、全く以て心外です!」
「わっ、分かったから落ち着けっ。どうしたんだよ急に!?」
想定外の直美の反応に驚き、慌てふためく師龍。ここまで動揺している直美を見るのは初めてだった。最愛の姉、高嶺関係の事柄以外では。
「まあまあ、師龍くんも落ち着いて。なおちゃんは惟ちゃんの応援に行ってくれるんだから、そこは素直にお願いしよう。わたしたちの分まで応援して欲しいって」
「……まあ、それはそうだな。……頼むぞ、妹」
「はい、高階先輩に言われなくても」
「お前ッ……!」
「だから落ち着いてって二人とも!」
そんな生徒会執行部の日常会話を目の当たりにして、惟は「あははっ」と微笑んだ。
「――ところで今さらなんだけど、桃之井さんってどこのクラスなんだ? そう言えば聞いてなかった気がするから」
「あ、はい、そうですね。私は1年D組です」
「へー、惟ちゃんD組なんだー。なおちゃんと同じだね!」
「はい、私と同じですね。……え、同じ?」
さらっと答えた惟に、直美の目が点になる。
「はい、同じですよ、私と足柄さんは。……でもその様子だと、やっぱり知らなかったんですね」
「や、いや……その……」
「やっぱりってどういうこと、惟ちゃん?」
惟は「あー、それはですね……」と少し躊躇いつつ前置きし、
「……足柄さん、教室では全然しゃべらなくて、話しかけようにも無言の威圧感がすごくて。クラスのことに興味ないんだろうなぁって雰囲気が駄々漏れてるんです。だからどうせ、誰がクラスメイトかなんて覚えてないんだろうなって」
「そうなの、なおちゃん?」
「あぁー、いやー、それはですね……」
「図星みたいだな。ってか図星だな」
視線を泳がせて口ごもる直美に師龍は溜め息を吐いた。
「まあ、別に良いんですよ。足柄さんがそういう人だってクラス皆はとっくに理解してますから。それにこの3日間で、本当の足柄さんがどんな人なのかも少し垣間見えた気がしますし」
「……?」
直美が首を傾げるのを見て惟はクスッと笑みを湛える。それがまた理解できなくて、直美はもう二度ほど首を捻った。
そんな二人に向けて、コホンと高嶺が咳払いをする。
「ま、何はともあれ明日は本番だよ。惟ちゃんは試合に出て、なおちゃんが応援する。しょせんスポーツ大会とは言っても、1年生最初のクラス対抗イベントなんだから勝てるのが一番! だから二人とも、明日は全力で頑張ってね!」
「はい!」 「はい……」
二者二様の返事を聞き、高嶺は笑顔で頷く。そしてカバンを手に、惟に引っ張られて前を歩き出した直美を、微笑ましい眼差しでじっと見つめた。
――ついに明日が、スポーツ大会当日。
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