喫茶『うたかた』
「切ない顔をしているね」
とにかく水を飲みたくて入っただけの薄暗い喫茶店のマスターらしき男が、ドラマのような素敵な声で話しかけてきた。出された水にはレモンの輪切りがコップの内周ぴったりに浮いている。特に何か物思いにふけるつもりもなく、ただただ水が飲みたくて、しかし、近くの自販機には何故かあったか〜い飲み物、もしくは飲んだら余計に喉が渇きそうなジュースやオ・レしか並んでいなかったし、この喫茶店以外の茶飲み処がなかった故の入店であるからして、それを切なさと言われるとそのような気もするが、居心地が悪い。
「や、別に、特にそういう事はないんですけどねぇ」
「ならばいいのだけど」
隠さなくてもいいのだ、とでも言いたげな表情で、ご注文は、と問う。水さえ飲めればそれで構わなかったのだが、いい歳して水だけ飲んで帰るような、きょうび中学生でもしないような真似は出来ない。そういえばまだ昼食を食べていなかったと思い出したので、色あせて不味そうな写真の中から、なるべく生野菜の少ないものをとグリルバーグを頼んだ。
カウンター席に座るのは間違いだったかな、とぼんやり店内を見回す。他に客はなく、角が千切れて中のスポンジが見えるボックス席が一つ。そこに背中を向ける形で置かれた、これまたボロく、ガムテープで包まれた丸椅子の席が二つ。そしてカウンター席が三つの薄暗い店内には、会話の邪魔にならない程度のボリュームでラジオが流れている。頻繁に差し込まれる中古車買取のサワヤカな声を聞きながらそのテレビCM版のタレントの顔を思い出していると、小鉢にアイスクリームのように盛られたポテトサラダが差し出された。
「フォークでよかった?箸もあるけど。」
飾り気のないフォークをことりと置きながらマスターが言う。大丈夫です、と答えると、そう、とカウンターの中に戻っていった。
乳臭い純白のポテトサラダには申し訳程度にニンジンが入っていた。ほとんど一対一の席でスマホをいじるのも躊躇われ、ちみちみと食べていると、くつくつとハンバーグに火を通しながらマスターが言葉を発した。
「こうなってくると、暇でねえ。料理も忘れちゃいそうなくらい、客が来ないのさ」
他に誰かいるのか、念のためもう一度確認する。店内にも厨房にも、私とマスター以外の人影は見えない。愛想笑いをしながら店に入ったことを後悔していると、まもなく、デミグラスのハンバーグを机に置いた。麦の混じったライスと、プリンも添えて。
「ごゆっくり」
マスターは厨房の端にある粗末な椅子に座ると、インテリアとしてしか見たことが無いような古びた洋書を読み始めた。
さっさと食べて出て行こう。そう考えながらハンバーグにナイフを差し込む。ふかふかの肉の中にじゅわりと肉汁が詰まっていてソースとまじりあうキラキラとした脂が食欲をそそる。まずは一口、火傷しないように口へ入れると、ひき肉がほどけつつも口の中に充実した肉の味とデミグラスの芳醇な匂いが広がった。二度と来るつもりはないが中々美味しいじゃないか、と感心していると、マスターがニコニコとしながらこちらを眺めている事に気付く。
「美味しいです、すごく」
「よかった。君もずいぶんと思い詰めていたようだから」
マスターはあくまでも私に何か重い過去を与えたいようだった。はは、と適当に相槌を打ちながら食べ進める。にんじんのグラッセは甘く、粒の大きなコーンと共に食べるとまるで暖かいスイーツのようだ。鉄板にややこびり付いたポテトを慎重に剥がして、ソースを掬い食べる。あつあつほくほくのポテトが若干舌を焼いたが、程よい塩分とでんぷんの味がまろやかだ。
見た目よりずいぶんとボリュームがあったらしい。大きく膨れた腹を撫でながらプリンに手を伸ばす。やや固めのプリンだ。焦げているのではないかと思うような真っ黒なカラメルがプリンの黄色を覆うようにしてたっぷりとかかっている。スプーンを差し込むと丸ごと持ち上がりそうな弾力である。むちり、と一口持ち上げ口に入れると、もはや羊羹にも似たずっしりと濃厚な舌触りに卵黄の濃い旨味とほろ苦いカラメルが味覚全てを刺激していく。
「う、わ」
濁流。あまりに美味いものを食べると人間は自然と声が出てしまうものだ。気付くと私は涙を流していた。あとからあとから、滝のように流れていく。袖で拭っているとマスターが冷たいおしぼりを一つ余分に差し出してくれた。
「す、すみません、美味しくて」
「ありがとう。作った甲斐があるよ」
おしぼりでは足りないほどの、夏のプールの注水口のように溢れる涙が床上浸水を起こしていく。童話で、涙で池ができる話があったなとふと思い出す。マスターはざぶざぶとキッチンの奥へ行き、よっこいせ、と言った。ごぽ、と大きな音がして、あっという間に涙は引いていった。
「ごちそうさまでした。また来ます」
「ええ、何もなくとも、また来るといいよ。自分の心は自分ではわからないものだから」
相変わらず僕を何か悲しい人にしたいらしい。しかしあの料理を食べて、泣いて、すっきりしているのも事実である。晴れやかな気分で外に踏み出し、振り返ると店は無くなっていた。そういうこともあるものか、と妙に納得をしてバスに乗る。座席についてまもなく、鞄の中から、ホームセンターで買ったばかりの縄が消えていることに気付いた。が、何に使うのか覚えていない。必要ならまた買えるから、と呑気に考えながら帰路に着いた。
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