人形
酷く荒んだ気分である。何もかもが不安で仕方ない。一緒に寝ている人形すら自分を罵倒しているように思えて仕方がない。長年愛している人形だけどここらが潮時か、と考えてしまう自分に嫌悪している。何もかもが私を嫌っている。何もかもが私の敵で、お前は死ぬべきだと囁いている。
涙が出そうになる。まともな思考領域が確保できない。しかし生活をしなければならない私は涙を止めなくてはいけない。昔読んだ漫画に、泣いたら負けのゲームで泣かされそうになった主人公が、上を向いて涙を『ごっくん』と飲み込む描写があったことを思い出す。目は水を飲むことが出来る。目薬が鼻粘膜をつたい口に入るように。
気付くと部屋の中に雨が降っていた。冷房から嵐が吹き荒ぶ。ごうごう、びたびたと身体を濡らし凍えるようだ。風は私の慟哭に合わせうねり、書類を巻き上げ天井へぶつかっていく。くちゃくちゃになった紙は天井にびたりと張り付き、少しして再び風に引っ剥がされる。タバコの灰がこぼれ黒い雨となって降り注ぐ。ヤニの臭いと雨の嵐の匂いにむせているうちに、腰掛けたベッドの足元が海になっていた。
海は高波で何度も私を飲み込まんと殴りつける。頭の上に潮水が屋根となって、それが崩れ息が出来ない。ざあっ、と引き潮に手足を
波が収まると、手足を失った私は濡れたベッドに横たわって息をしていた。夜はまだ明けない。人形は黙って私を見下している。ごめんなさい、と誰ともなしに呟く。許してくれる人はいない。部屋中の人形やぬいぐるみやプラモデルが私を見下ろしている。法廷の観衆が犯罪者にそうするように。私が身動ぎすればホクロの位置すら有罪となる。トルソーのような身体を、皮膚の下の脂肪を、耳の裏側の赤むけを、歪になった爪の形を、しわがれた声を、脳を、全て、全て有罪となった私はそれでも死刑にしてもらえない。刑期は秘匿され、地べたを這い続けるという罰。いつ終わるのかわからない責め苦。身体は擦り切れ、腐った傷口には蛆が涌き、その蛆もすり潰されて内臓に絡んでいく。
宗教というものはこういう時にこそ救いの手を差し伸べるのだ。涙を流して許しを乞うのだ。けれど宗教の入り口には人間がいる。金と人徳がいる。門下にはいらば人のために働かねばならぬ。血を流しながら。内臓を木にくくりどこまでも歩くように。
母の慈愛はあたたかにあすこに存在するのだ。気付くと目の前にあるのはどこまでも広がる雲海だった。山より大きいエウリュノメーが、手のひらに眠る醜い子を愛している。そこを代わってくれ、声はやはり届かない。マリヤが孕んだのは私ではない。イザナミの股を焼いたのは私ではない。マーヤーが落としたのは私ではない。私ではない。私ではない──。
夢中夢から二度目を覚ますとベッドにいた。冷房で冷蔵庫のように冷えた部屋はしんとしている。氷枕がねっとりと温んでいる。人形はなおも私を罵っている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます